第11話
友人がどしゃぶりの雨の中、家まで送ってくれている。何度頭をなでてくれても気分は晴れなかった。彼女はアパートのなかに入ろうとせず、階段の下で手を振って踵を返していった。階段を昇って、一番左の部屋が私の家だ。ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
音を立てないようにドアを閉めて、濡れた服を脱ぐ。居間で臣は眠っていた。血色の悪い肌はより一層悪くなっているように思えた。彼にタオルをかけると、私もテーブルに突っ伏して目を閉じる。
ー臣を見捨てることができるのか。いや、きっとできない。
泡沫のように臣から息が漏れる。何かうわごとをつぶやいている。
「消えたくない」
低くて優しい声が悲壮な響きの言葉を泡のように吐き出す。臣は眠っている。私は目を開けて、そばにある彼の絹のように白い手をなでる。その手は私のものより繊細で大きかった。
途端に強い眠気に襲われた。睡魔は私の迷う心をかぎ針でほどくように解体していく。魔物に抵抗しているとまぶたの裏が痛くなる。頭の中で白い手が手招きしていた。
気がつくと、私は座敷牢にいた。座敷牢といっても、牢のなかではない。牢のなかには和服の青年がいた。彼は髪が腰まであって、耳があるはずの場所には立派な浅葱色の鰭がった。青年は顔をあげる。その顔と方々にある鱗には見覚えがあった。青年は私のことを空っぽな瞳で見つめていた。
―ずっと寂しかった。
ほのかに暖かい声が聞こえる。青年は八重歯を見せて微笑んだ。その笑顔は雲の向こうの日差しのようだった。私は鎖で繋がれている青年と目線を合わせる。青年は白い肌を朱色に染めた。
―誰かに縋りたかった。それが俺を殺そうとする者でも。
「私も一緒だよ。暴力を振るわれても、一緒に居たかった」
「あいつ」の顔が頭によぎる。最低な男だった。それでも、好きだった。
―あの日、ずぶ濡れで傷ついた君を見たとき。俺と同じだと想った。それでも目先の快楽に負けた。結果、俺は死にかけた。
座敷牢の風景が変わった。空では雷が機嫌を悪そうにむずがっている。青年は臣の姿に変わった。
ー君に助けてもらったとき、俺は死にかけていた。君の小さな好奇心と正義感が俺を生かした。
着崩した服からお腹に入った大きな傷が見える。
「私も、臣に助けてもらったよ。勝手に復讐されるとは想わなかったけど」
―それは、申し訳ない。だが、君を穢されたと想うと何もせずにはいられなかった。
「変、なの。ただの顔見知りのくせに」
私はにっと笑う。臣も薄い唇を流線型に歪めた。臣はゆっくりと立ち上がった。
―もう辛くはないか。
「解らないけど、臣がいれば大丈夫だよ」
―俺は最期の勤めを果たす。大雨が続けば、作物は枯れ、人は死ぬ。だが、俺は君の心にいつもいる。
景色が元の座敷牢に戻る。臣は牢から私に手を出す。不意に自分の手に何かが乗る感触があった。私の手のひらには一輪の野菊の花があった。
―君の心をひとかけらだけもらっても良いか。
何も言わず、臣の大きくて白い手に乗せる。彼が両手で野菊を優しく包むと、花は光を纏って宙へと消えていった。
「ありがとう」
妙にリアルな臣の声で目が覚めた。いつもと同じ風景が視界に入る。嫌な汗が首筋に流れて、私はそこにいたはずの男を探す。しかし、彼はどこにも居なかった。何故かは分からない。涙が堰を切ったように流れ出てくる。泣きながら窓から空を見ると、久々の青空が広がっていた。
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