涙雨

第10話

 言い争いをしてから数日が経った。臣は気まずいのか、最近どこかにふらりと出かけることが多くなった。たまに小さなお菓子をくれるので、おそらく近所のパチンコだろう。

 外ではずっと滝のような雨が降っている。家にいると厭世的な気分になるので、気分転換にバイト先に行くことにした。降り続く雨としけった空気。さらに熱が不快度指数をあげている。喫茶店のドアを開けると鐸が暇そうにあくびをしていた。


「わ。野菊だ」

「来ちゃった」


 傘立てにオレンジ色の傘をさすと、一番近い席に腰を下ろす。鐸は豆菓子と水をテーブルに置くと、私のお向かいの席に座った。

「今日は雨の匂いがしないね」

「そうかな。外、すごい雨が降っているけど」

 白い耳が上下に揺れる。鐸が何かを軽蔑するような目つきで私を見ていた。

「もしかして臣のこと? 」

「そうよ。あいつの藤と雨の匂いが野菊からしていたのに、今はしないから。ま、その方がいいんだけどね」

 かわいらしい頬に空気をためている鐸は狐というより狸のようである。外からはバケツをひっくりかえしたような雨の音が聞こえてくる。マスターがコーヒーを二つ持ってきてくれた。今日は鐸と話していて良い、との意らしい。


「ねえ、鐸は臣のこと知っているの? 」

 コーヒーに角砂糖を三つ入れると、甘い香りがふわりと漂う。

「ちょっとした知り合い、といいたいところなんだけど、がっつりと知ってるわよ」

 興味がなさそうな鐸はコーヒーミルクを私の分まで自分のコーヒーに入れる。元の色を失ったそれは乳白色へと変化した。


「教えてよ、臣のこと。仲直りしたいんだ」

「はぁ? 嫌よ。汚物のことをあなたに教えたら、きっと同情してズルズルの仲になっちゃうから嫌」

 鐸は忌々しそうに吐き捨てるとコーヒーを一口飲んだ。雨が窓を叩く音が聞こえる。私たちの会話はそれっきり途絶えてしまう。


 品の良いジャズピアノの曲が四度変わった。それでも彼女は私の前に陣取り、観察するように私を見ている。緊張とけだるさが支配した空気を変えたのは、携帯のバイブ音だった。画面には弟の名前が出ている。鐸に「ごめん」と一言断り、通話ボタンを押す。

「ねえちゃん。ミシャグジは近くにいるか」

 今までに聞いたことのない切羽詰まったような声だ。私は梶葉がいないのに、首を横に振る。

「いないよ」

「よかった。ねえちゃん、頼む。情けは捨ててくれ。神祇庁もミシャグジ征討に本腰を入れることになったんだ」

「征討? どういうこと? 戦争じゃなくて? 」

「いや、戦争なんだけど、その、なんていうか・・・・・・」

 鐸が私から携帯を奪い取ると、スピーカーモードを勝手にオンにする。弟のうめくような声とばたばたという足音が遠くから聞こえてくる。

「はっきりしなさいよ。この軟弱者」

 鐸が聞いたことのない怒声を放つ。飲みかけのコーヒーの水面に波が立った。

「なっ・・・・・・。その声は・・・・・・」

「征討ってことは、存在そのものをなくすんでしょ。歴史からも、今を生きる人間の心からも、すべてをなくすんでしょ」

 小さな声で「三狐神オキツネ様か」と梶葉がつぶやく声が聞こえる。どうやら、この二人も知り合いらしい。


「梶葉、それはなんで? 」

 一瞬の沈黙の後、く息を吐き出す音が聞こえた。

「彼はただの竜神じゃなくて、祟り神の側面があるんだけど。とある代議士先生の息子さんが・・・・・・その・・・・・・最近奴さんの怒りを買ったらしく・・・・・・」

「蛙にされて、串刺しになってたのね? 」

 歯切れの悪い梶葉の言葉を鐸がつまらなさそうに続けた。その展開に覚えがあった。予想が間違っていることを心のなかで祈る。

「もしかして、あの肥だめの蠅みたいに野菊にまとわりついていた男? 」

 友人はぶっきらぼうにティッシュを手で玩ぶ。

「おっしゃるとおりです」

 勝手に果たされた復讐は後味の悪いものであった。鐸はテーブルを指で叩きながら舌打ちをして、電話口からはため息が二度聞こえてきた。足音と電話の音が電話口から聞こえてくる。


「ねえちゃん。悪いことは言わない。ミシャグジから離れてほしい。忘れて、遠くに引っ越して。そうすれば、俺がなんとかできるから」

 足下がぐるぐると回り始めた。どうしたらよいのか判断がつかない。携帯をぼうっと眺めてる。その行為は答えを出してくれなかった。

「言っておくけど、あいつを殺すとそっちの戦況悪化するわよ」

 鐸に視線をやると、彼女は私にウインクを投げかけた。騒ぎを聞きつけた子供の顔をした彼女は楽しそうだ。

「解ってるんだけど、あの我儘代議士を黙らせないと神祇庁が大変なんだ」

 梶葉の声は困り果てている。私だって我が身がかわいい。でも、臣はどうなるか。存在がなくなるというのは、もう彼のことを想い出せなくなるということだ。私のなかの少女が「それは嫌だ」と叫んでいる。なぜかは分からない。黒い感情に塗りつぶされて、耳のなかでばくばくと音がする。鐸が通話ボタンを勝手に押して通話を切った。

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