第9話

 バイトが終わって、帰路につく。臣は喫茶店の外で眠たそうに煙草を吸っていた。

 帰り道は言葉を交わすことはなく、影法師と歩いているような錯覚を覚える。


「夕飯、何が食べたい? 」

 肩が軽くぶつかる。私より頭ひとつ背が高い臣が私のことを冷えた雨のように見つめていた。

「何でもいい、は困ると聞いた。だが今は君の普段食べているものがいい」

 要するに何でもいいのだろう。夕食のメニューを考えながら歩いていると何度か臣と身体がぶつかった。あまりにもぶつかるので注意しようとしたが、彼はぼうっと虚空を眺めているようだった。


 結局、夕飯はスーパーで買ったてんぷらと冷凍うどんを温めたものにした。てんぷらが思いのほか脂っこくて胃にダメージが来る。早々にうどんを食べ終わっていた臣は珍しくテレビを見ることなく、机に突っ伏して眠っていた。彼の顔はくまがなければ整っていると思う。だからこそ、あんな婀娜っぽい女の人にモテるのだろうけど。少し胸に雲がかかる気がする。悔しくて血の気がない薄い唇を指でそっと触れてみると存外に柔らかい。

 ―これであの女の人とキスをしたんだ。

 何であの場面を思い出したのかは分からない。ちりちりと胸のなかで火花が散った。

 吸い付くように臣の唇を眺めていると、携帯が振動を伴い鳴っていることに気がついた。ディスプレイを見れば、『梶葉』の文字が映ってい

る。臣を起こさないようにベランダに出て、耳元に携帯を当てた。昇りかけの月と一等星が優しく光っていた。


「よう、ねえちゃん。ミシャグジはまだいるの?」

「いるけど、寝てるよ」

 大きなため息が聞こえる。

「何も、されてない? 」

「特に。この間は手を出さないって言われたし」

 吹き出すような音がしてから梶葉が電話口で小さく咳をした。


「何それ」

「わからないけど、手を出さないって。きっと対象外なんだろうね」

 自分の吐いた言葉に少し悲しくなった。ふうっと吐いた息は少し湿り気を帯びている。

「あのさ、ねえちゃん。次はどんな恋愛がしたいのさ」

「梶葉が何でそんなこと聞くの? 」

「いやあ・・・・・・。先輩からねえちゃんを紹介しろって・・・・・・。で、どんな人が好みで、どんな恋愛がしたいの? きっと、先輩なら叶えてくれると思う」


 今まで恋愛というワードで思い浮かべるのは「あいつ」の顔だった。今日に限っては何故か臣の顔が出てくる。でも、臣は私に手は出さない。

「普通、かな。梶葉みたいな普通の男の子と、普通の恋愛がしたいなあ」

 穏やかな笑い声が耳元から聞こえた。しかし、それは一瞬で途切れた。携帯が耳元から消えたのだ。振り返ると臣が陰鬱そうな表情をして後ろに立っていた。臣は携帯の通話終了ボタンを押して私の肩を強くつかんだ。


「君は、弟のような輩が好ましいのか」

 いつも色がない無機質な瞳が揺らいでいた。

「そうじゃない、普通の恋愛がしたいって話」

「ただの人間と、か。弟のような、眉目が整って面倒見が良いような普通の人間とか」

 悲しそうな色と暗澹とした怒りが瞳の底から読み取れる。


「弟ってのはただの喩えだよ」

 反論は想像したより声が小さかった。弟が恋愛対象として好きな訳ではない。

 臣が唇の端を歪ませた。途端に「あいつ」に殴られた記憶がよみがえる。


 ―殴られる。痴情のもつれで殺されたってニュースに出るのかな。ああ嫌だなあ。

 痛みは私にぶつかってこなかった。代わりにひんやりと気持ちの良い温度が私を包みこんでいた。

「もう良い。何も話すな」

 六等星のように静かにつぶやくと、臣は部屋のなかへと入っていく。私は一人ベランダに遺された。

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