第8話
携帯のアラームが鳴った。私が二度寝から目を覚ませば、臣はすでに起きていた。 時計を見れば、九時半。今日はバイトに行く日なので、すぐにでもでないと間に合わない。ぐしゃぐしゃの髪にブラシをかけながら、歯を磨こうとする。両手を一挙に動かすのは至難の技だ。頭のてっぺんの浮いた髪をなでつけて、口を軽くゆすぐ。着た切り雀で玄関に向かった。
「どこに行く」
臣が緩慢な動作で身体を動かす。彼はにらむように私を見ていた。彼の存在は私に否が応でも昨日のことを想起させる。早くバイトに行きたかった。
「バイト。近くの喫茶店だから。用があったら来てね」
昨日のことを忘れたように臣に笑いかけると、ドアノブを回して外に出る。今日の空も明るかった。
バイト先はほんの五分歩いた先にある。マスターに挨拶をしてロッカールームに入ると、甘ったるい声と衝撃が私に飛んでくる。桜色の髪を結い上げた少女は私に頬ずりをした。
「野菊だ。今日もいい匂いがする」
「
鐸の白狐のような耳が揺れる。彼女は私の髪の匂いをかぐと、怪しむようにつぶやいた。
「いつもの肥だめにいる奴の匂いがしない。代わりに・・・・・・雨・・・・・・の匂い?」
「言葉が汚い。かわいいのに台無しだよ」
「神様にかわいいもへったくれもないもん」
頬を膨らませる彼女は冬場の子狐のように愛くるしい。もっとも、彼女は豊穣を司る神様なので子狐という表現はあながち間違っていないのである。
時計を見れば、シフトの時間が間近に近づいていた。私は鐸をくっつけたまま急いで緑色のエプロンをつける。鐸はまだ何か話したりなさそうだった。しかし、私はここ何日かの「あいつ」をめぐる出来事は話したくなかった。鐸を引きずりながら足早にホールへと向かう。
喫茶店のホールは優しい光が差し、適度な温度に保たれている。穏やかなCDに、優しいマスターがいるここが好きだった。マスターに挨拶をするとひだまりのような笑顔でコーヒーカップを磨いていた。
そこまで広くない店内の隅にお客さんがいる。新聞を広げていて顔が見えないが、きっと常連さんだろう。
「あ、あたし注文とってくるね。野菊はテーブルセットお願いね」
小柄な鐸がかわいらしい足取りでお客さんの席へと向かう。新聞の向こうを見たのだろう。彼女は露骨に嫌そうな顔をした。話し声は聞こえない。鐸はにっこりとオーナーと私に笑顔を送った。あいたテーブルを拭く私の後ろを通りすぎた彼女の口からは「次は陰険ド腐れ竜神か・・・・・・」と呪詛のような言葉が耳に届いた。気になってお客さんの方を見ても、新聞の向こうは確認できなかった。
十二時前になると、たくさんのお客さんが店内で仕事をしている。商談や打ち合わせ、働くお客さんがいっぱいだ。チリンと呼び鈴の音が鳴って六卓に向かう。おじさんが書類を広げながらメニューを見ていた。
「ご注文をお伺いします」
営業スマイル百パーセントの笑みで注文票にペンを落とそうとする。おじさんはからからと笑った。
「あの、一番端の席で新聞を読んでいるヤクザみたいな彼は君の知り合いかい? 若いねえ。おじさんをじいっとにらんでいたよ」
おじさんの指さす方向に顔を向けると、新聞で顔を隠す男がいた。派手な半袖の柄シャツに腕に見える浅葱色の鱗が如実に知り合いだと事実を告げていた。
「すいません・・・・・・。ご不快な思いをさせて・・・・・・」
「いや、いいんだ。あの男、おじさんだけじゃなくて君が注文をとった男に対して熱い視線を投げていたよ。いやー、若いねえ」
空咳をして、力なく笑う。おじさんの用事はそれだけだった。
マスターに休憩に入っていいと言われて、エプロンを脱ぐ。つかれをとるように大きな息をつくと、用意してもらったサンドイッチを口のなかに放り込む。少し固めのハムとほろほろの卵が混ざり合ってとても美味しい。嫌そうな顔をした鐸が休憩所の入口から手招きをしている。訳もわからずに彼女に寄っていくと鐸はげんなりとしていた。
「あいつが野菊を呼んでる」
「あいつ? 」
「ミシャグジよ!あの屑竜神があんたを呼んでる」
休憩所から追い出されるように、ホールに出る。臣が相変わらず感情のない瞳で手招きしていた。私が臣の席に向かうと、臣は皿を差し出してきた。そこにはサンドイッチが乗っている。
「食え」
「ありがとう」
反論と意見をするのも労力がいる。臣の向かい側に座ると、ツナサンドを口のなかに放り込んだ。振り返ると鐸がさげすむような顔をして私と臣をじいっと観察している。やがて意を決したのか、ずいずいと私たちの席にやってきた。
「お客様。こちらは純喫茶でございまして、メイド喫茶ではございませんので」
「其方か。ここが純喫茶であることはよく存じている。しかし、
見たことのない優しい微笑を浮かべる臣と黒い雰囲気を出す鐸。静かな戦いが目の前で繰り広げられていた。
―そんな優しい顔もできるんだ。
内容はともかく、自分がむけられたことのない臣の表情に少し胸がひりひりした。それは日焼けをした皮膚がむけるような痛みだった。
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