第7話

 身体についた甘い石けんの香りは夜までとれなかった。私はとれたと思っても、同居人にはそうは思えなかったらしい。二時間ごとにシャワーを浴びさせられて、あまつさえ夏はめったにはいらない浴槽に沈められた。

 数分前、本日四度目のバスタイムを命じられた。なみなみと湯が入った風呂場は蒸し暑い。窓がない浴室ならなおさらだ。お湯水道代の塊を身体にかけるとじっとりとした温度と芯が暖まる心地よさにため息が出る。


 湯船につかると「あいつ」のことが頭のなかに浮かび上がる。嫌な記憶も、楽しかった記憶も全部が季節のように思い出せる。

 最初に出会った頃は優しかった。花もピンキーリングもほしがるものは言わなくてもプレゼントしてくれた。だんだんとおかしくなったのは彼の家で料理を初めて作ってからだ。あのときは彩りが上手くできなかった。でも愛情と感謝を込めて作った。それを見た彼は、一口も食べないでお菓子を食べ始めたんだっけ。私は当然のようにふてくされた。そしたら、私をおいてどっかに行ってしまった。小一時間ほどして帰ってきても、私に冷たかった。そこから私をないがしろにする行動が増えた。だんだんと言葉も荒くなり、軽くはたかれることも増えた。それでも、彼が好きだった。


 湯に顔を沈めると目元が温まり、緊張がほぐれる。裏切られても、嫌なところを見ても彼の縁に縋ろうとしてしまう。そんな自分がほとほと嫌になってくる。

 水のなかで大きく息をつくと、口から大きな泡が吐き出される。泡はごぼごぼと音を立ててすぐに消える。


 あのまま、彼に縋っていれば、本当に優しくしてもらえたのだろうか。最初から結論はわかっている。答えはきっとノーであった。最初は優しくても、また夜毎に泣く羽目になるのだ。それでも、好きな人に優しくされたかった。

 お風呂から出ると、臣はテレビを見ていた。今日も戦況を伝えるニュースとプロパガンダが流れている。私は臣から少し離れて座布団に座る。


「ようやく消えたな」

 つぶやかれた泡のような言葉がつきささる。「あいつ」との縁も切れた気がしたからだ。

「あんたからは女の匂いが消えない」

 臣と初めて出会ったときを想い出す。あのときは、見せつけるように女にキスをしていた。

「そうか」

 たった一言。臣の方を見ても、彼の目線はテレビに注がれていた。テレビの音だけが部屋のなかに流れる。内容は傷ついた兵士が手当されているものだった。


「あのような輩のどこが良かった」

「全部が好きだった。暴力を振るわれても女作ってもそれでも好きだった」

 それ以上、臣は何も言わなかった。彼の曖昧な態度に腹が立ってくる。

「じゃあ、臣が忘れさせてよ」

 捨て鉢だった。非日常な何かをして忘れたかった。臣の頭の鰭が小刻みに動く。私の瞳は青いサングラス越しに見つめられている。目があったと思えば、すぐに視線は外れた。


「君に手は出さない」

 期待外れな言葉にほんの少し胸が抉られる思いをする。

 ―悔しい。やけくそなのを見抜かれたんだ。

 私はそのまま横になって、目をつぶった。

「風邪をひく。布団を敷け」

 臣を無視してそのまま目をつぶる。意識が底へと落ちていく感覚がする。黒い世界しか見えなくなって、やがて何もかも考えることをやめた。


 夢も見なかった。じりじりと鳴くセミの声で目が覚めた。身体の上にはいつも使っているタオルケットがかかっていて、隣には臣が静かに眠っている。静謐さに包まれた彼の顔は整っていた。至る所にある青い鱗が日の光を受けて月のように輝いている。

「ありがとう」

 静かに眠る臣が微笑んだ気がした。

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