神様とあだ花

第5話

 激しい頭痛で目が覚めた。彼はもうすでに起きていて、ベランダで日差しを浴びていた。大きなあくびをしてから、窓をからからと滑らせて私も二人立つのがやっとのベランダに出る。ミシャグジ様は遠くを眺めていた。

「おはよう、えっと、ミシャグジ様」

 大きな手が私の頭をつかんだ。体温を感じさせない白い手は心地よかった。


「その名前で呼ぶな。おみと呼んでくれ」

「わかった」

 昨日とはうって変わって太陽が強くコンクリートジャングルを照らしていた。私は背伸びをする。雀の鳴き声が遠くから聞こえてきて、臣はけだるそうに息をついた。


「弟の名前は嫌でも耳についたから記憶しているが、君の名前を知らない」

「私? 私は野菊のぎく守谷野菊もりやのぎく

 横目で臣を見る。彼は自分の唇を軽く小指で叩いた。煙草がほしい時の癖なのだろう。二度目の深いため息がベランダを支配した。

「嫌な響きの名字だな。だが、素敵な名前だ」


 頭痛が瞬時に飛んで、心臓が跳ね上がるのを感じた。褒められているかどうかわからなかったが、おそらく悪くない感情であろう。黙ったまま、二人で刺すような日差しを浴びると、アルコールのせいで頭の血管が脈うつのを感じた。

 緊張感のない音が聞こえる。自分のお腹から聞こえてくるもので、他人に聞かれることはとれも恥ずかしい。そういえば、今朝はまだ何も食べていなかった。


「お腹がすいたからご飯作るけど、臣はご飯食べる? 」

「いただこう」

 窓を開けて部屋に入る。台所にある冷蔵庫から卵を二つ出して、シンクの上に置く。IHコンロのヒーターの電源を入れて、フライパンを熱する。その間に電源の切れた炊飯器からご飯をよそい、電子レンジにかけた。卵を溶いて、箸の先に少しだけつけてフライパンに押しつけると卵が焼ける良い匂いがした。

「臣は卵とか大丈夫だよね」

「べつに」


 ぶっきらぼうな言い草にほんの少し「あいつ」を想い出す。「あいつ」は私が作った料理を気に入らなければ捨てていた。

 ―臣も、そうだったらどうしよう。

 足が動かない。フライパンが音を立てている。頭痛が鐘を鳴らすように激しくなってきた。立ちすくんでいると、すぐ隣から煙草の匂いがする。「あいつ」の吸う煙草の香りとは違う。隣を見れば、臣が水を飲んでいた。

「楽しみにしている。早く焼け」

 それだけ言うと、すぐに居間へと向かっていった。何か魔法をかけられたように、私の手足は動き出した。卵をフライパンに流し込んで、かき混ぜる。ごま油の香ばしい匂いが卵から立つ頃、電子レンジが甲高い音を立てた。

 電子レンジからご飯を取り出して、炒り卵をご飯の上にかける。お盆にご飯を二つ置いて、箸を引き出しから探す。割り箸のストックはなかった。代わりに「あいつ」が使っていた黒い箸が出てきた。縁起の悪いそれを使うのは嫌だったが、仕方がない。二膳をお盆に追加で乗せて居間へと向かう。 臣はテレビを食い入るように見ていた。お盆をテーブルに置くと、彼は不思議そうな顔をした。


「これは、君が作ったのか」

「どう考えても私しかいないじゃん」

「すまない。見た目は悪くても旨そうだ」

 一言多いと思いながら、私は臣の前に黒い箸と青い茶碗を置いた。彼は手を合わせてからご飯を行儀正しく口のなかに入れる。その所作は美しかった。「あいつ」のがさがさとご飯を掻き込む様子とは正反対だ。

「旨い」

 首に感じていた重みがとれる。知らず知らずのうちに緊張していたのだろう。私は唇の端で笑顔を作った。

「お粗末様です」

「礼をしたい。何か願いを言え。かなえてやる」

 臣の声は至極真面目なトーンであった。その慇懃さが少し面白かった。


「何を笑っている。俺は本気だぞ。何でもかなえてやる。この食器を使っていた者を不幸にするくらいは赤子の手をひねるより簡単だ」

 髪で隠れていた臣の暗い瞳が歪んだ。

 ―したことのないはずの「あいつ」の話を臣は知っている。

 昨日「あいつ」にぶたれた頬が途端に熱くなる。それに心の生傷を抉るような言葉に涙が出てくる。臣は平然とした様子で私を見つめていた。

「どうする」

「大丈夫。いらない」


 私は自分の茶碗に入ったご飯を掻き込む。味が全くしない。それでも食べ進めた。臣は無表情に戻っていた。

 ―気分転換をしよう。

 私はぎこちなく笑顔を作り、臣に笑いかける。彼はもうこちらに興味をなくしたようにテレビを見ていた。

「ごめん、ちょっとでかけてくる」

 私は臣の返事を待たずに、鞄をもって玄関に向かう。彼は何も言わず、視線は相変わらずテレビに投げかけられていた。

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