第3話

 傘もささずに男の手をひいていた。白いシャツから下着が見えるほど濡れ、不快感はこの世のものとも思えないほどだ。男はけだるそうに手をひかれていて、酒に酔った私よりも不安定な足取りで歩いていた。

 アパートの扉を開けて、男の身体をぽっかりと開いた口の向こうに強引に入れると、すぐに自分の身体も滑り込ませて外界との結界を閉じた。入口で憮然とした男を放置して電気をつける。習慣でテレビをつけると夜中にも関わらず戦争のニュースが放送されていた。


 苦虫をかみつぶしたような彼をそこら辺に放置していた座椅子に座らせると、小さな冷蔵庫からすぐにビールを出して彼の前に思いっきり置いた。

 三白眼が困ったように動く。私はそれを無視して、お風呂に向かう。小さなバスタブの蛇口をひねるとお湯はとどまることを知らないように出てくる。それを確認して居間に向かう。テレビを食い入るように見ている彼は長い前髪を掻き上げていた。目元には黒いクマと鈍い光を放つ浅葱色の鱗があった。


「ねえ、あんた。今日は濡れたんだから風呂に入りなさいよ」

 声をかけると男は小さく寒雨のような声をあげた。おそらく肯定の意であろう。そう認識して、私は冷蔵庫からもう一本ビールを取り出すとプルタブを開けた。

 ニュースは淡々と戦況を伝えていた。近くで起きている戦争のはずだけど、身近な人の死は今のところ起こっていない。しかし最近は作物の不作と物価の上昇が起こっていて、ひたひたと近づく戦争の足音を感じるところであった。


 彼とは何も言葉を交わすことはなかった。そのうちに明るいアラーム音が鳴り、お風呂が入ったことを知らせていた。男はガラの悪い目つきで私を見た。私はお風呂の方向を指さす。彼は何も言わずに所々黒く染まったシャツを脱ぎ捨てた。うらやましいほど白い肌には長い切傷がついていた。


「下は脱衣所で脱ぎなさいよ」

 なるべく傷を見ないように目を細めると、何も言わずに彼は脱衣所へと消えていった。残されたシャツを拾い上げると黒革のカードケースがポケットのなかからこぼれ落ちた。好奇心から拾い上げてそれを開くと、機嫌の悪そうな彼の顔写真がついたカードがあった。名前欄には「御左口 臣」とある。なんて読むのかわからないが、「あいつ」と比べて格好良い名前だと思う。嫌な笑いを浮かべているのはわかっている。自己嫌悪を感じながらカードをケースにしまってビールを一口飲んだ。


 かちんと鍵が回る音が聞こえた。元気の良い声が玄関から響く。

「ねえちゃん! 」

 その声は弟の梶葉かじはのものだ。血気盛んに声をあげて部屋に音を立てて入ってくる。私の顔を見ると、梶葉は泣きそうな顔をして座り込んだ。

「ほっぺた・・・・・・。だから、あいつと付き合うのを反対してたのに」

 彼はおそらく私がこっぴどくフラれたことを知って突撃してきたのだろう。弟の頭をなでると硬い髪が手に吸い付いてくる。

「情報、早くない? 」

 私がおどけて見せると、梶葉は涙をぼろぼろと落とす。とっくに社会人になっていた弟の優しさが心に目の荒いタオルを当てられたようにちくちくと刺さった。

「いろいろ、聞いたんだよ」

「そっか」


 「あいつ」は梶葉を「未来の弟」といい、仲良くしようとしていた。無理やり連絡先を交換していたのも記憶にある。今思えば、梶葉は国家公務員だから媚びを売っていたのかもしれない。それでも、私との未来を考えてくれているようで嬉しかった。そっと弟に腕を回すと、優しい体温が私をきつく抱きしめた。

 その場の温かい空気を壊すようにお風呂の戸が開く音が響く。梶葉は虚を突かれた顔をしていた。急に現れた弟に私が拾った男の話はしていなかった。姿を顕した彼の顔を見たのだろう。私を守るように立ち上がる。


「ミシャグジじゃねえか・・・・・・。なんで俺のねえちゃんの家にいるんだ! 」


 梶葉の声は今まで聞いたことのない怒気を孕んでいた。

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