第2話
朱い血を流している男にはあるべき器官がなかった。それは耳だ。その代わりに所々破れている鰭が左右一対そこには生えていた。彼は凍えるような瞳で青い硝子を隔てて私を見上げていた。
予想外の事態に混乱する私の唇から泡のように吐息が漏れると、彼は濡れ雪のようなため息をつく。
「煙草」
無表情の男はライターを胸ポケットから出して、自らの薄い唇を小指でたたいた。私は血色の悪い男の顔をじっと見ると、彼も何も言わずに私の瞳をのぞき込んでいた。 その色のこもっていない三白眼に見覚えがあった。アルコールで霞んだ記憶がふいにこの男の姿を想い出させる。それは、どろどろの醜い私が婀娜っぽい女と絡んでいる男にぶつかった場面だ。
ーこいつ、女と蛇みたいに絡んでいたやつだ。
「カップル」というものは今日の私には夕立のように嫌いなものであった。汚い感情がお腹の底から湧き上がり、胸のなかからは炎が起きる。脈がどくどくと聞こえて、握りしめたこぶしは震えていた。
「あんた、さっき女と一緒に私を嗤ってたよね」
立ち尽くす私に男は何も言わない。彼の身体は嫌でも視界に入った。青く派手なシャツは黒く染まっていて、ところどころ見える白い肌には鮮やかな朱色がさしていた。
「煙草。ないのか」
答えになっていない無機質な声に飽きの色が見える。私のズボンのポケットのなかには「あいつ」が吸っていたハイライトの空き箱が入っている。煙草をもってこいとねだる男は「あいつ」にそっくりだ。
「ない、よ」
ようやく出せた声は耳障りな声だった。
「そうか」
唇から指を離して彼は首筋を掻いた。首には血で洗われた浅葱色の鱗が見える。その硬質な鱗は血がこびりついており、生命力を失っていた。それでも、どこかに命の美しさを感じるものであった。気がつけば私はしゃがみ込んで、彼の鱗を見つめていた。
「なんだよ」
静かな水辺に起こる波紋のような声がした。さっきまで強く降っていた雨の音は私の耳には届かない。私の手は震えていた。どうして、そんな行動をしているのか自分でもわからなかった。いぶかしげにこちらを見る男の血にまみれた手をとると、強引に彼を立たせた。男は声を小さくあげるが、私の手を振りほどくことはない。きっと抵抗するような体力はないのだろう。神鳴が不機嫌そうに声をあげて、雨は身体をぬらしていく。冷たい男の手を離すことなく、私は帰路へつく。つないだ手の場所だけが温度を伝えていた。
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