日陰に咲く

石燕 鴎

神鳴の空

第1話

 縋るためのよすがに意味はなかった。三年間大好きだった「あいつ」に思いっきりぶたれた頬は時間を経るごとに熱を帯びていく。そこら辺に神様は普通に歩いているけれど、「あいつ」は普通の人間で、好色な彼らと違って私だけを見てくれるはずだった。でも、それは滑稽な思い込みであった。


 夜ももう八時。激しい音をたてて雨は降る。都会の汚れを洗い流していくそれが嫌いだ。それは人間、いや私の汚い部分を際立たせる気がする。頭を振って、まぶたの裏にある映像を振り払おうとする。それでも見覚えのないピンク色の歯ブラシやベッドから不快にただようバニラの香りが鮮やかによみがえる。思い返せば、予兆はあったのだ。それに気がつかない私が愚かであった。


 人混みはどことなく私を避けて歩いている気がする。それもそうだろう。涙は止めどなくあふれて、右の頬は真っ赤でふらふらと歩く私は紛れもなく「ヤバイ女」だ。ぴしゃり、と歯切れのよい音がする。泣き声をあげる黒い空を見上げれば、一閃の白い光が見えた。とっさに顔をあざだらけの左腕で覆うと、数秒もたたないうちにどろどろという恐ろしい音が穢れで満ちた街を裂いた。


 雷のように明るい女の嬌声と欺瞞で満ちた男の笑い声が近づいてくる。声をかみ殺してうつむきながら歩き出す。早さを少しだけ足に乗せて、踏み出した。すぐに誰かの背中にぶつかった。謝ろうとすると、そこにいたガラの悪い男は青いサングラス越しに冷たく私を見ていた。男の姿を見て、私は何もいえなくなった。それは恐怖のせいではない。彼の身体の随所に見える鮮やかな鱗のせいだ。きっとこの男は神様なのだろう。神様に失礼をしたらばちがあたってしまうと思っても、「ごめんなさい」の一言はどうしても出てこなかった。

「こんなシケた女相手にしないで、早く飲みに行こうよ」

 危機的な状況を救ってくれたのは露出の激しい格好をした女だった。彼女は交尾する蟷螂かまきりのように男に絡みついた。男は私に興味をくれることもなく、そのまま女の手を取り、ふっくらとした唇に噛みついた。彼は私に背を向けてそのまま歩いて行った。

 忌々しいほど、今の私は惨めという言葉がふさわしい。あごに力を入れて歯を食いしばれば、こめかみがだんだんと痛くなる。


 ―飲んで忘れよう。

 交差点の先にコンビニを見つけた。青信号は点滅している。少しだけ判断に迷ったが、ぬれた服の不快感から走って渡ることを選ぶ。コンビニに急いで入ると、冷房がかかっていてとても肌寒かった。足早に五号缶のビールを三本、カゴのなかに入れる。レジにいた私と同じ年くらいの男性は少しぎょっとした顔をしているけれども何も気にしないふりをした。

 帰ることもできた。しかし自宅まで歩いて三十分はかかるうえ、何よりも今日は雨を見たくなかった。誘われるようにそこら辺にあった漫画喫茶に入る。お金を払い、プライバシーが守られた半個室にはいるとビールのプルタブを勢いよく開けた。何も考えないように黄金色の液体を思いっきり喉で味わう。苦みが舌に伝うけれども、それよりも喉の熱さが心地よかった。五号缶の半分を飲んで息をはけば、つんとしたアルコールの匂いが口から漂う。がんがんとした頭の痛みを打ち消そうともう一口、さらに一口とビールを飲む速度をあげていく。 お酒の力で大胆になった。目の前で光るパソコンに「あいつ」の名前をつい打ち込んでしまう。パソコンは無機質に検索結果をむざむざと私に見せつけた。もうすでに「あいつ」のSNSは見たことのある・・女性で埋まっており、私の写真は跡形もなく姿を消していた。それを見ると愉快な気持ちになった。楽しかったはずの三年間は時間の浪費という結果に終わった。気がつくと私は涙を流しながら笑っていた。気持ちは歯止めがきかなかった。私は荷物をもって個室を飛び出す。すれ違うサラリーマンは不思議そうな顔をしていた。入り口でバインダーを返すと一段飛ばしで階段を降りていく。恐ろしく爽快な気分であった。漫画喫茶の軒を出れば相変わらず雨は優しい顔もせずに降っていた。


 ごろごろとぐずる空の下で人にぶつかりながら私は走り出す。今だけは迷惑なんて気にしない。私のなかは嫌悪感と煮えたぎる血でいっぱいだった。

 熱に浮かされて見覚えのない路地に入る。路地は飲食店もなく、薄暗い。そのなかでひときわ暗い場所があった。調子にのって目をこらすとそれは人の形をしている。


 ―きっと、酔っ払いだろう。その人がよければ、一緒に飲もう。きっとここで酔っ払っているのだからおごるといえばほいほい来るに違いない。

 暢気な自分がそう笑った。だんだんと面白くなってきて街灯に寄りかかった人影を見下ろす。そこには血まみれの男が私のことを冷ややかに見上げていた。

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