書き下ろし短編「いちさ」

「本年度チーム、初の演劇公演成功を祝して、乾杯!」

「「「「かんぱーい!」」」」

 活気に満ちた若々しい声を合図にいたるところでガラスが打ち鳴らされた。

「んっんっ……かぁーッ! やっぱ一仕事終えた一杯がたまんねぇんすよ。血管に巡る感じ。もうこれのために生きてるっていうか、生命の源泉を感じるよね。あーッ! 今日は潰れるまでとことん行くぞ!」

「コーラでそこまで言えるのコスパ良くて幸せそうだな」

 大和撫子髪の艶を光らせて、染谷先輩は私が掲げる黒い液体が入ったグラスを指差しながら鼻を鳴らした。

「安く生きれたほうが幸せですよ〜。先輩は何飲んでるんです?」

「緑茶」

「緑茶⁉︎」

「あったかいやつ」

「あったかいやつ⁉︎」

 居酒屋で緑茶という選択に少し大袈裟に反応して見せたが、先輩は茶道を嗜む人みたいに、あくまで冷静に湯呑みを傾けるのだった。

「甘ったるい清涼飲料水は……好かんのでな……ふぅ」

 うわぁ、様になってる……かっけぇすわ先輩……

 お茶を飲むその日常の姿にすら気品を備えた我らが部長染谷一華そめたにいちかの隣で、私は一切の動きを止めて見入ってしまうのだった。

 演劇交流会の公演を無事終えた私達は、打ち上げということで近隣の居酒屋に訪れていた。時間内に片付けできたら先輩の奢りという気前のよすぎる提案に乗っかって、我々裏方はタダ飯だ。と言っても全員高校生で未成年。各々手にするグラスはジュースばかり。

 お酒は飲めないけど、こういう騒がしい感じは飲み屋じゃないとできないかんね〜。これもまた乙。

 ポテトフライ片手に卓を見渡してみると、嬉しいことに一年生も気後れせずに楽しんでくれているようだった。

 平日の夕方で閑散とした居酒屋は、飛び入りの団体客である私達を快く歓迎してもてなしてくれている。

「ここのお店よく来るんですか?」

「まぁな。部活とは別の演劇団の打ち上げとかで利用している」

 先輩は切れ長の目を流しながら答えてくれた。めっちゃ映える。

「ほうほう。ではでは先輩のオススメなんですか? 一華セレクト」

「それだったら豚の角煮だな。このお店、小規模のチェーン店なんだが、ここの豚の角煮だけは他店舗と違ってオリジナルなんだ。ほろほろと崩れるお肉、甘味と塩味のバランス、どれをとっても素晴らしい」

 ツウらしく語ってくれるレポートは私の食欲をツンツンと刺激してくれる。

 あの染谷一華絶賛! 美味しくないわけがない!

 染谷先輩は神の舌を持っている。先輩がうまいと言えばうまいのだ。私はそう信じてる。

「それ! 食べたいっす!」

「いいぞ。頼んでやろう。すまない!」

 喧騒の中でもはっきり通る声は居酒屋でも効果絶大だ。きっとすみませんと呼んでも店員さんに一向に気づかれない無力感とは縁がなさそうだ。それでこそ染谷一華。

 やば、店員さん呼ぶだけでこんなに映えるなんて。写真撮りたい。インスタ上げたい。いいね百万秒即待ったなし。

 染谷先輩は神の声を持っている。先輩が一度声を上げれば万物は平伏し世界が従う。私はそう信じてる。

 運ばれてくる料理を美味しくお腹に収めていると、お喋りのテンションも上がってくる。厨房から聞こえてくる、フライヤーやフライパンのアンサンブルが雰囲気を賑わすBGMとしてマッチしているおかげもあるだろう。

「さて、では少し話すとするか」

 トマトとチーズのおつまみ(聞いたところカプレーゼというらしい。こんなおしゃれな料理食べるなんて流石以下略)を摘んでいた先輩が手を叩いた。

「えんもたけなわと言ったところだが失礼する。伝えておきたいことがあってな」

 話し声と食器の音が一斉に静かになったのを確認してから、先輩は次の言葉を放つ。

「新一年生が頑張っていることは非常に嬉しく思う。この調子で頼む。そして部員関連の動きとして次に来るのが、三年の引退だ。三年は夏休み前の演劇コンクールをもって第一線を退く。その結果の良し悪しに関係なくな」

 あぁ、もうそんな時期になるのか。

 うちは文化部だが、三年間の動き方としては運動部とそう変わらない。一学期は部活に励み、それ以降は進学・就職に向け準備を進めることとなる。

「円滑な引き継ぎのために、二年には積極的に物事を仕切っていってもらいたい。部長役職は演者組との兼ね合いがあるから、まだ未定だとしても、これからは二年が三年からノウハウを継ぎながら活動していくことになる。そして中でも最重要、今の私のポストである裏方リーダーは……」

 視線が交差した。

千紗ちさ。お前に託す」

 皆の注目が私に集まる。

「指導力と現場スキル。これらを兼ね備えた千紗はこの上ない適任者であると考えている。だから私はあいつに託したい。異論は無いか?」

 反論の声は上がらなかった。その代わりに皆が熱い眼差しを送ってくれる。

「全員お前を信頼しているみたいだ。よかったな千紗」

「はい! 先輩の気高き意思を引き継ぎ、裏方を最強チームへと導いてみせましょう!」

「……なんかお前がそういうこと言うとおふざけみたいに聞こえるな。心配だ」

「ちょ、そ、そんな言い方ないですよ〜⁉︎」

「分かるー」

「テキトーばっか言うしね」

「無理フラグ」

「えぇっ⁉︎」

 えー、リーダー向いてないかもしれないです。オワタ。

 ジョーク混じりのヤジに私は思わず破顔してしまった。

 私としても次期リーダーは自分がなるという自信というか決意があった。それだけの仕事を先輩の元で学んできたのだ。当然だ。

 けれど染谷先輩から直々に指名されるのは、思い描いてたことだとしてもやっぱり躍り上がりそうだ。自分が自分を認めていただけでなく、周りも自分を認めてくれている。積み重ねてきた努力に客観的な承認を得ることができたのだ。

 しかし気がかりなこともある。

「染谷先輩は……夏休みが終わると来なくなっちゃうんですね……。引退ですから……」

 先輩と一緒に裏を回すのは充実の一言だった。私のやりがいとも言える。他でもない染谷先輩と活動できることが、私にとってのほまれなのである。それが失われるのを想像すると索漠さくばくとした気持ちになるのは避けられなかった。

「ん? 私は普通に行くぞ」

「え?」

 何と?

「一線はお前に任せるが、私は引退する気はない」

「え、でも進路とか色々考えなきゃじゃ」

「あぁ、私もう就職決まってる」

「「はぁ⁉︎」」

 その発言に一番に食いついたのは裏方三年生の二人だった。犬系男子のお調子者山内やまうち先輩と天然パーマの元気っ子寺野てらの先輩である。

「もう進路決まってんの⁉︎ この時期に⁉︎」

「私達不安しかねぇってのに⁉︎」

「プライベートで活動してる劇団経由でちょっと繋がりできてな。そこから就職決まった」

「コネ⁉︎ 羨ましい!」

「私なんてまだ進路決定レースのスタートラインにすら立ってないのに、一華もうゴールしてんの……ええええ⁉︎」

 その悲痛な叫びを聞いていると三年生で待ち受ける薄暗い未来を予感してしまった。聞いてて苦しい。

 進学就職怖いんですけど。魔境?

「待って」

「置いてかないで」

 さながら蜘蛛の糸。カンダタの足元にすがる地獄の罪人みたいな風景に一、二年生ドン引きである。こうやって最高学年に向けて恐怖を植えつけるのやめてほしい。

「私だって研鑽けんさんして声かけてもらったんだ。まぐれで幸運が降ってきたわけじゃない。お前らだって別にサボってきたわけじゃないんだからいけるだろ」

「勝ち組の言葉眩しい……」

「これが染谷一華という女……」

 罪人達は効果バツグンの光属性の言葉を食らい、ライフゼロ。座敷に伏してしまった。

「先輩進学はしないんですか」

 それを見ながら私は声を潜めて発言する。

 容姿も優れていれば、部活でも破格。そしてもちろん成績優秀。そんなパーフェクト彼女からすれば大学進学だって望むことのできる選択肢の一つだ。

「それも考えてたんだがな。でも私は現場で実力を磨きたい。悠長に勉強するんじゃなくて、業界に身を投げて揉みくちゃにされながら、高みに行きたいんだ。苦労はするだろうけど、追い詰められた分成長できる。だから話を受けた」

 うおー。これは光属性。私にも効きそう。

 ストイックな姿勢に私すら感服してしまう。倒れた二人にとっては死体撃ちだ。体の端が崩れかけてる。

「だからそっちの劇団優先になるから、放課後いれなくなることは増えるだろうが、基本的には参加するつもりだ。ただ引っ張っていくのは千紗、お前だからな。さて、話はそんな感じだ。さぁ続けてくれ」

 伝えることを伝えた先輩が座布団に座ると、テーブルの賑わいが息を吹き返した。そして死にかけの先輩二人もギリギリ人間の形で戻ってくる。

「うぅ、進路考えたくないよぉ」

「辛いよぉ、苦しいよぉ」

 はぁ、見てらんないよ。

 先輩だというのに世話が焼ける。

「ほら寺野先輩これ食べて、角煮。美味しいよ」

「千紗ちゃんは優しいねぇ、ぐす。おいひぃ」

 美味しいものは万病の薬だ。何とか正気を取り戻してほしい。

「この前入学したと思ったらいつの間にか最高学年だよ。時の流れおかしいよ。全くやってらんねぇ! もう一杯!」

 一方山内先輩は飲んだくれみたいに机を叩いて、オレンジジュースを要求した。因みに炭酸は飲めないらしい。弾ける感じがからい(?)とのこと。

「はぁ〜一年生の頃はよかったよねぇ。何にも考えないで学校生活送れてたからさ〜」

「何も考えてないからそんなに苦しいんじゃないか?」

「ぐっ!」

「先輩! 寺野先輩のライフはもうゼロなんです! やめたげて!」

 世話役が現状私だから染谷先輩といえど仕事を増やさないでもらいたい。

「でも確かに思い返すと一年生って懐かしいよな。目の前の仕事をひたすらにこなしていくっていうのも、指示する立場の今ではあんま無いし」

「山内くん、それ! 分かる! 指示されたことやってるほうが楽だもんねー」

 だからそういうとこですよ、寺野先輩。

 言ってしまうと傷口に塩を塗ることになるのでやめておく。

「いろんなことやったよな。演者も裏方も」

 山内先輩は新しく届いたオレンジジュースを揺らしてしみじみと感傷に浸り始めた。塩が効きすぎたポテトフライに眉をひそめながら、私は耳だけで注目する。

「そういやあんときは一華も演者してたよなぁ」

「……そうだな」

「一華ちゃんは演技上手だったよね〜。それこそ今日の乙坂おとさかさんと波長似てるよね」

「よしてくれ。乙坂のほうが段違いに優れているさ」

 ……ほう。

 素直に後輩を称賛する先輩、是非とも乙坂さん本人に教えてあげたい。

 だが裏方として極められた、演者の一挙手一投足を逃がさない私のホークアイは見逃さなかった。

 染谷先輩のほんの僅かな渋面しぶつらを。

 それは本当に一瞬で、今となっては冷静ないつもの顔で何も窺えない。

 演者としての染谷先輩か……

 それは私にとっての最大のミステリーだった。

 裏方組の姉御あねごとして一切万事を成功に導く頼れるリーダー。けれど染谷先輩は演技だけは頑なに披露してくれない。

 裏方組でも演者をする人はもちろんいるし、その逆も然りだ。この部内では私や染谷先輩みたいにどっちかに全振りしている人のほうが少ない。先輩は二年生から完全に裏方にシフトチェンジしたらしいため、私はその演技を目の当たりにしたことがなかった。

 関心のあまり私も先輩へ直接過去を尋ねたことがある。だが先輩ははぐらかすというよりかは、拒絶といった反応に近く取りつく島も無かった。

 彼女は秘密を持っている。

 それは迂闊に人には言えないようなこと。

 ミステリアスな女だぜ。

 カリギュラ効果と似たようなもので、強固な守りで隠されれば隠されるほどその中身を覗いてみたくなる。それに「染谷一華の」という修飾語がつけば尚更だ。

「お待たせしました。こちらロシアンたこ焼きになりまーす」

「お、皆ロシたこ来たよ! ほほーう! 回すね〜」

 寺野先輩は店員さんから人数分のたこ焼きが乗った大皿を受け取ると、各々にたこ焼きを取らせて送っていく。どうやらこの中に一つとっても辛いハズレがあるらしい。それを引いたらアウト。

 私のは……大丈夫かなコレ。

 テキトーに選んだ一つ。マヨネーズとソース、さらには踊る鰹節もちゃんと乗っかっててセーフかハズレか皆目見当もつかない。ついたらついたで遊びとして終わってるので、ついてないほうが正しいのだが、いざ我が身のこととなるとそんなこと言ってられない。

 わさび? からし? どのタイプかによっても変わるよな。

「てかなーんで一華は演者やめちゃったんだっけ?」

 山内先輩はたこ焼きをピックしながら、染谷先輩の話を続けていた。

「一華ってば、一年から裏方できてたけど、演技力もすごかった記憶あるんだけど」

「山内」

 染谷先輩が声をかけるが、山内先輩はお構いなしに口が止まらない。

「待って……。俺さ、あんま覚えてないんだけどさ……一華関連で何か一悶着ひともんちゃくあったよな。えっと確か……」

「山内」

「一華が皆の前で大声で話してて……。え、寺野さんは覚えてる?」

「えーなんだっけ」

「…………」

「いつだったかの演劇公演かの終わった後だよな。何か集まって……んがッ!」

 え……?

 突然山内先輩が不意打ちを食らったような声を店内に響き渡らせた。 

 隣の染谷先輩が陽炎のように静かに揺らめいた気がした。そして虫のような何かが超速で通り抜けた感覚もある。

 やがてくぐもったうめきは徐々に別のものに変質していって。

「んっ、んっ……あああああああッ! か、か、かかかからあああああああッ!」

 山内先輩は口を押さえて座敷を転げ回った。溺れた人のようにめちゃくちゃにばたついて座布団を吹っ飛ばす。そのもがきを避けて一、二年生がさぁっと身を引いた。

「おやおや山内」

「せ、先輩……」

 染谷先輩はお冷の入ったグラスを持ちながら、まるで実験の観察をする研究者みたいな佇まいでしゃがみ込んだ。

「そんなに私のたこ焼きがよかったのか? でも残念だったなぁ。お前が選んだやつのほうがセーフだったみたいだ」

「あああっ、うぐ」

「部長が取ったのがセーフなんてことあるはずないんだから、お前は自分自身をもうちょっと信じたほうがいいぞ。それとも……もしかして私を助けてくれたのか? はは、それだったら感謝するよ」

「ふぅーッ! ひゅーッ」

 声帯を一時的に封じられたようで、言葉が出ない山内先輩は死にかけの息を吐き散らかすだけだった。

「お前のセーフの分は私がいただいておく。一人一個だからな。ここに水置いとくから溢すなよ」

 頭の横にコトンとグラスが置かれる。

「はっ……!」

 そのとき、私はまたしても気づく。

 先輩の唇が動いている……!

 その動きは……

 

「よけいなことをいうな」

 

 

 

「っていうことがあってよぉ!」

「いや何で読唇術どくしんじゅつ会得してんの。そこが気になるわ」

「えぁ、なんかYouTubeで講座見てたらできるようになったわ」

「え、そんな簡単にできるんですか」

「へーじゃあこれ当てて。今から口パクするから。…………」

 ち、さ、あおす、ぎ、くそ、わろあ……

「『千紗アホすぎクソワロタッ!』 なんだァてめぇ?」

「おーすごいすごい!」

 強めのディスしときながら、呑気にパチパチしてるくるみであった。

 昨日の今日。部活終了のいつもの帰り道、今日も仲良くくるみと乙坂さんを伴って学校を後にする。本当は気利かせて私はさっさと帰ったほうがいいかもだけど、今日はおしゃべりしたいのだ。昨日の染谷先輩の件について。だから許してクレメンス。

「私の読唇術の話はいいんだよ。そんときのね、山内先輩に語りかける口調がもう、暗部の殺し屋みたいでめっっっっっっちゃカッコよかったの! はぁイケメン」

「その喜びは尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れないであげてな」

「あれは自業自得よ。染谷先輩の呼びかけ怖かったもん。もっと早く気づくべきね」

 ロシたこ騒動の後、山内先輩は飼い主から怒られた犬みたいにしゅんと大人しくなってしまっていた。正に犬系男子という感じ。多分違うだろうけど。

「でもさ、そこまでして隠し通す先輩の秘密っていうか過去。気になるくない?」

 山内先輩はベールに包まれた染谷先輩の過去をあらわにしようとして消された。組織の口封じみたいに。

 それは『何か』がある確固たる証拠。

「気になりはするけど、山内先輩を口封じしたってことはよっぽど知られたくないんでしょ。それを暴くのはどうなのかね」

「そうですよ。好奇心猫をも殺すって言いますから危ないと思います」

「チッチッチッ。君達はロマンが無いね〜」

 私はずいと首を伸ばして語りかける。

「猫は殺されるかもしれないけどこういう言葉もあってだね。虎穴に入らずんば虎児を得ず。リスクを恐れていちゃあ、お宝は得られないのさ」

「先輩の秘密がお宝になるのはあんたくらいでしょ」

「そうとも! この七瀬千紗が解き明かさずして誰が明かすのか⁉︎」

「明かさないでおいてあげましょうよ」

「しゃらっぷ!」

 まだ控えめなことをのたまう乙坂さんを腕を組んでキッと見下ろした。かったけど全然身長負けてるので腕を組んで見上げる。

「私は先輩の全てを知りたいのだ。出生時の体重でも、全身の毛穴の数でも、先輩の好きな家電メーカーでも何でも知りたい!」

「どういうこっちゃ……」

「チキってる君達には悪いが、私は先に行くぜ。知の探究は底が知れないのだ!」

「どうぞ行ってくれ。別に追わんよ」

「ということでまずはどうすればいいと思う?」

「考えてねぇのかよ」

「たーすけーてー」

 私はいつものノリでくるみに抱きつ……かない。

 おっとっと。こいつはもう彼女持ちだ。危ない危ない。乙坂さんそんな睨まないで〜

 私だってラインはわきまえている。人の嫌がることなんて絶対にしない!

 さて染谷先輩の丸秘情報に触れちゃおう作戦だが、もちろん正面突破は無理だ。そんなの常勝無敗の砦に正門からノックして入るようなもの。今まで試したこともあるし、今さら再チャレンジしても突っぱねられるだけだ。

 なればどうしたものか……

「……だったらまずは三年生に当たるべきでは」

「ほう」

 意外にも進んで挙手してくれたのはくるみではなく、探究に後ろ向きだった乙坂さんだ。

「乙坂隊員、続けたまえ」

「はい、私の考えでは一年生の頃からの付き合いである部内三年生からの情報収集が無難だと愚考します。私達が知らない一年生の染谷先輩を知るには、やはりあの方達が重要参考人となるはずです」

 なるほど。実に合理的な考えだ。メインターゲットを攻めるにはまずは外堀からというわけだ。山内先輩も何かを言いかけていたみたいだし、入部からお互いを知っている三年生に聞いてみるというのは間違いない作戦だろう。

「うむ、素晴らしい考えだ。参謀本部に上げておこう。君階級は?」

「はっ、軍曹であります!」

「よろしい。今日から君は大佐だ」

「いや昇進えっっっぐ」

「くるみ軍曹、君は二等兵へ降格だ! 何となく! この穀潰しが!」

「ひどい言われよう。別にいいけど……理由くらいつけてくれ、理由くらい」

 よし、これでやることは決まった!

 明日あたり、染谷先輩から隠れつつ早速三年生にアタックしてみよう。

 そうと決まればエネルギーが漲ってくる。今日はこの勢いで帰って算段をつけよう。

「乙坂さんありがと! やってみるね!」

「いえいえ。まぁ恩返し……みたいな? どうなっても責任は持てないですからね」

「なるなるほどほど。キューピッドしてよかったわ」

 情けは人の為ならず、ってね。いいことすれば帰ってくるのよ〜

「え、てかさ二人はどうなのよ〜」

 陽気な気分そのままに私はくるみと乙坂さんの関係について話題を振った。

「どう……うまくいってるよ。ねえ凛」

「そそそそうですね……」

 ……?

「え、何これ。どう考えても二人のターンでしょ」

 何とも言えない微妙な雰囲気を残して二人は互い違いの方向を向いてしまった。しかもそれっきり会話が途切れてしまう。

「はぁ……まいいや。染谷事件抜きにしても昨日の打ち上げめっちゃ楽しかったんだよね〜。てかてか、演者達はそっちで打ち上げしたの?」

「う、打ち上げ⁉︎ あ、あぁ……したよ。うん」

 素頓狂すっとんきょうな鸚鵡返しと千切れ千切れの返事をくれる。

「そっちはどんな感じ? うぇいうぇいって感じではしゃいだの?」

「えぁ……まぁ、しっとり……? わー、みたいな?」

「……?」

 何でこいつこんな真っ赤なん? 乙坂さん下ばっか向いて会話してくんないし……

「……え?」

「な、何千紗?」

 足が止まる。

 まさか。

「くるみ?」

「だからなんだよぉ」

「乙坂さん?」

「……」

 おい。

「お前ら交尾したな⁉︎⁉︎⁉︎」

 

 

 

「さて、お集まりいただきありがとうございます」

「何これ」

「どしたの千紗ちゃん」

 別の日。

 部活終了後に、山内先輩や寺野先輩をはじめとした三年生の六名に集まってもらった。染谷先輩だけハブにして、部活中に伝言回しておいたのだ。それでも念には念をということで防音に優れた個室の練習部屋の隅で私達は密会を執り行っている。

「単刀直入に言いましょう。染谷先輩の過去を教えてください。どうして演者をやらなくなったのか——」

「一華の……過去ッ……! あ、あ、あああ……」

「まずい! 山内くんがこの前のことを思い出して錯乱しちゃう! メディーック! 誰か押さえて!」

 えーそんなトラウマになってるの?

「ああああっ、ああー」

 体が痙攣を始め、前みたいにもがき苦しみだす山内先輩。私にはどうすることもできない。

「大丈夫だ」

 そのとき白衣が翻って視界を覆う。そこで彼に近づいたのは演劇部兼科学部、白衣が似合うメガネ男子竹田たけだ先輩だ。

 竹田先輩はポケットからさらっとした綿のハンカチを取り出すと、その上に錠剤を撒いた。そしてハンカチをそのまま山内先輩の口に当てがう。

「先輩それは……」

 山内先輩ってば本当に何か病気が……

「ラムネだ。こいつはラムネが大好きだからこれで落ち着く」

「……それってただお腹空いてるだけじゃ」

「大丈夫だ山内! 安心しろ! ゆっくりでいいから飲み込め!」

「んっ、んっ……」

 リアルすぎるんですけどこの茶番……

 竹田先輩の応急処置によって山内先輩は少しずつだが落ち着きを取り戻し、やがて安らかな寝息を立て始めた。まるでクッションの上で丸まる子犬のよう。これぞ犬系男子だ。違うと思うけど。

「落ち着いたな。とりあえずは安心だろう」

 竹田先輩はハンカチをぱっぱと畳むと懐に戻した。

「あと数十分は寝てると思う。千紗ちゃん、一華ちゃんの話なら今のうちにしよ」

 一方寺野先輩は患者が一山越えた後みたいなナースの面持ちだった。

 何か……すげぇな。

 ここは演劇部。いる人全ての雰囲気が何だか本物っぽい印象を持っている。面白い集団だと改めて気づかされた。演技力の無駄遣い。

「はぁ……んで知りたいのがさっき言った通り部長のことです。それも昔の」

 寝転がる先輩は置いといて話を戻そう。

「一華ちゃんのことか……。女優って言ってもおかしくないくらい演技上手かったよ。同じ一年生なのにこんなにできるんだって驚いちゃった。だってどっかの事務所の子? ってマジで思ったよ。それこそこの前少し言ったけど、乙坂さんとか桜木さんレベルだったと思う」

 ふんふん、やはり一年生の頃からできる人だったと。

 流石染谷先輩。私も鼻が高い。

「俺も同意見だな。何なら今なら言うけど、染谷と同期で見られると、こっちは使えないって評価されるかもって、悪いことばっか考えて行きたくない日もあったぞ」

「そんなレベルで⁉︎」

 竹内先輩のネガティブな告白にパチクリしてしまう。

 でも私だって二年生の中で裏方できる人って褒められてるけど、同級生に染谷先輩いたとしたら、今のポジションは先輩だろうな。そう考えちゃうのも分かる気がする……

 それは劣等感とかに起因するのだろう。隣に完璧な人がいたら、ひがみっぽくなるのも無理はない。

「演劇やってるうちに、十人十色っていう言葉がよく分かってさ。今じゃそんなの全然思わないけどね」

 他の三年生としても概ね同じような意見だった。

 演技うまい。

 自分から動ける。

 先輩や先生からすっごい褒められてる。

 賞も取ってた。

 染谷一華の武勇伝が出るわ出るわのバーゲンセールだ。私が全部買ってやりたい。

「そんなに素晴らしい演技してたのに、何で裏方専門になっちゃったんですかね」

「それが俺達にも分からんのよなぁ。ある日の公演で、今回の演目は裏方するつって、その次もその次も同じこと言って、気がついたら裏方専門になってたな」

 もう裏方しかやらない! とキッパリ断言したわけでなく、なし崩しで今の形になったというわけだ。

 でもその理由は先輩方も知らないと……

 肝心なそこの部分が判明せずに額に皺が寄ってしまう。

 ——俺さ、あんま覚えてないんだけどさ……一華関連で何か一悶着ひともんちゃくあったよな——

 ——いつだったかの演劇公演かの終わった後だよな。何か集まって——

 そこで打ち上げで山内先輩が呟いていたことがリピートされる。

「じゃあ染谷先輩関連で何か事件とかってありました?」

「事件……事件……いや、そんなの……」

「あったよ」

 寺野先輩の閃きに一同の関心が集まった。

 注目のスポットライトに照らされながらその口を開く。

「ちょっと待ってね。私も記憶漁ってたら思い出したんだけど、いつしか一華ちゃん私達に懇願してたよね。外部公演から帰ってきたこの演劇棟で」

「懇願……」

「あぁ言われてみれば……あったな。誰にも言わないでくれ……そんなこと叫んでなかったか?」

 誰にも言わないでくれ? どういうことだ?

 その内容が重要だった。その内容に秘密の中身もしくはそこに辿り着けるキーがある。

「それ知りたいです!」

「うーん」

「それはね……」

 しかし竹田先輩も寺野先輩も、他の面々も首を傾げながら体を後ろに引いた。

 それもそうだ。

 言うなとお願いされたことを、教えろと無茶言ってるのだ。そんな反応にもなる。ましてここにいる人達も同学年とはいえ、部長にお世話になっている身だ。あの率先して導いてくれる人を裏切る真似は容易くできないに違いない。

 あるいは裏切り者は相応の報いを受ける……というのも考えられるけどね。

 すやすやと寝ている山内先輩に顔を向ける。

 あの日はロシアンたこ焼きで済んだが、全てを語った者には永遠の眠りが待っているのかもしれない。それを恐れて誰も話たがらない可能性も十分ある。

 だが。

「お願いします!」

 私は九十度に腰を折った。

 私は知りたい。

 あの染谷一華の全てを!

 だから手持ちのカードを惜しみはしない。

「寺野先輩、音響で音の編集ができないって悩んでましたよね」

「うん、そうだけど」

「編集関連、私できるんで全部レクチャーします!」

「え、ほんと? すっごい助かるけど……」

 寺野先輩はあからさまに目を輝かせた。

 先輩は今やってる照明関係だけでなく、音響にも興味があるというのはリサーチ済みだった。そこに勝機がある。

「竹田先輩は今の衣装とか小道具がボロボロって言ってましたよね。それ私がいい感じの理由つけて購入検討できないか計らいますよ」

「何? それは魅力的だな」

「購入が難しいなら、私が手技でどうにかします。あの乙坂さんの衣装私が作ったんですよ? あのレベルを約束します」

 竹田先輩をはじめここの演者組の要望もある程度把握している。その辺を裏方の仕切り役である私自らどうにか解決してみせよう。

「だからお願いします。先輩のこと教えてください!」

 私は再び頭を下げた。

 持っている手札は全て使う。それが切り札だったとしても。

 染谷先輩を知るために私は何でもやる所存だった。

「素晴らしい提案だ」

 やがて三年生を代表して竹田先輩が言を返してくれた。

「七瀬の真剣さもよく分かった」

「じゃあ!」

「だがだめだ」

 冷然れいぜんとしていた。

 飛び跳ねそうだった体をすぐに先輩の言葉が掴んでしまい、私は地に叩きつけられた気分になった。

 まだ許してもらえない。

 だったら……

「じゃあ他に望みはありますか! できることならやります!」

「違うんだ七瀬」

「音響でも照明でも舞台でも衣装でも。何なら演者だって——」

「違う! 俺達は口止めされているから言わないんじゃない。……覚えていないんだ」

「え……」

「何も言わないことから察するに皆も同じだろ」

 周りを見渡すと全員首を縦に振っていた。

「あのね千紗ちゃん。言いたくないんじゃないの。私達はほんとに、何を言っちゃだめなのかを覚えていないの」

「……」

 何ということだ。

 三年生は義理を果たすわけでも罰を恐れているわけでもない。

 口止めされている内容を最早忘れてしまったのだ。

「だから申し出はありがたいんだけど、そのお返しはできないかな。ごめんね」

「そう……ですか」

 もう少しで手が届きそうだった真実が、今は遥か向こうに行ってしまった気がする。こんなにも核心に迫ったというのに。

「そんな落ち込むな。まだ手はあるさ」

「……と言うと?」

「演劇棟の顧問室、白金しろがね先生に許可をもらって一年のときの記録を確認してみたらどうだ。ほらあそこ今までやった公演とか全部DVDになってるだろ。そこから何か分かるかもしれない」

「はぁ……! 確かにそれなら分かるかもしれない。聞いてみるより己の目で確かめろってことですね!」

「まぁそういうことだな」

「ありがとうございます! 行ってみます!」

 まだだ。まだ私の野望は潰えていない!

 消えかけた闘志に火力が戻ってきた。

「一華ちゃんから言うなってことだけど、別にこれは言ってるわけじゃないからセーフだよね〜。ま、何なのか覚えてないけど〜」

 寺野先輩は口止めを軽く笑い飛ばすのだった。

「自分で確かめてくれってことだもんな。セーフセーフ。でも何だっけな〜。本当に覚えてないんだよ」

「私もだし、ふっしぎ〜。案外そんなに大それたことじゃないかもね」

 中身が残らず口外禁止というルールだけが残った染谷先輩の秘密。

 うーむますますミステリアスになってきたぜ!

 

 

 

 コンコンコン。

 三回のノックに答えるように「どうぞ」と女性の声が聞こえた。

「失礼します」

「あら、七瀬さん、どうしました」

 演劇棟の顧問室、白金しろがね先生は湯気が立ち昇るカップを持っていた。部屋に漂う芳醇な香りからコーヒーだと察せられる。

 癒される香りのデスク、絵に描いたみたいなおしゃれ職場だね。

「二年前……今の三年生が一年生の頃の演劇を見てみたくて来ました。映像記録ありますか?」

「ええ、ありますよ。そこの棚のプラスチックケース。あれ全部今までの演劇ね」

 先生は顔で壁際の本棚を示した。

「それ貸してください!」

 先生は年度ごとにまとめられた歴代記録で二年前のコーナーを教えてくれた。

 このディスクの中に演者時代の染谷先輩が収められている。それを思うと全てのDVDがお宝として輝いてきた。

「勉強熱心で感心しますね。書籍とか有名劇団を参考にする人は多くても、昔のを見ようとする人はあんまりいないから、ここにある分も役に立って嬉しいです」

「温故知新ってやつですね」

 先生めっちゃ褒めてくれてるけど、今気になるのは先輩のことだけなんだよなぁ。

 ちょっと申し訳なさを感じつつ棚を見渡す。 

「こっからここまでだけど。こっちからは去年のだし、上の段は今年の。ほらこの前の公演ももうできてますよ」

「へー仕事が早いんですね〜」

「ここの顧問やるからには、ぱっぱとできないとね。でないと校長先生に怒られちゃう。顧問の肩書きを持ちながらこの程度とは〜ってね」

「先生でもそんなこと言われるんですか? こわ〜」

「ふふ、冗談ですよ。でも旗越先生なら言いそうじゃない?」

 生徒とか先生関係なく誰にでも言いそ〜。目上の人でも言うな。

「あ、今の内緒ね」と舌を出した先生はごそっと二年前のプラスチックケースを取り出してくれた。結構な量、この部活がどれほど精力的に活動しているかの指標になる。

「上演順に並んでるからこっちが最初でこっちが最後。この棟の講義室に見れる機械あるから見るならそこで……あれ?」

「どうしました?」

 先生が言う最後のやつ。それを覗くと中身のDVDはどこかへ消え失せていた。他は全部揃ってるのに、年度最後のものだけが無い。

「おっかしいわね。ケースはあるから誰かが中身を機械とかに置いてきた?」

「あーありそうですね。それ」

 私の家の古いDVDデッキでもよく中身が取り出されず入れっぱなしにされていた記憶がある。同じことが起きている可能性は十分だ。

 先生は他の棚の中身を広げてみたり、デスクの引き出しを確認したりしたがそう易々と出てきてはくれなかった。

「私のほうで探してみますけどこれも見たい? 見たいですよね〜」

 先生は私が答えるより先に答えを得てしまう。

 まぁ見たいんですけども。

「すぐに見たいなら校長室の旗越先生を訪ねてみてください。この演目は旗越先生が役員を務めてる団体主催だから、きっと記録映像も持ってるはず」

 旗越先生に直接か……。

 校長室の扉を叩くのに必要な勇気を考えると気後れしてしまう。あの強大な存在に面と向かって話し合うには並大抵ではない精神力が必要なのだ。それこそ染谷先輩くらいの。

「分かりました。ではとりあえず今ある分は貸してください。まずはこっち先に見てみますね」

「どうぞ。でもごめんなさいね。これじゃほんとに叱られちゃうわ……」

 下唇を反らして突き出した先生の元を後にして、私は演劇棟の講義室に入った。音が漏れないよう扉を閉めてから、ディスクを取り出し、舌を伸ばした機械に飲み込ませる。

「さてさて、どんなもんかね……」

 明かりを落とした部屋で、浅く腰掛けた私はそう独りごちた。

 それから私は一週間ほど講義室での演劇鑑賞会を連日続けた。一本が平均一時間ほど。もちろんそれよりも長いやつだって短いやつだってある。一日で見れるDVDの数はそう多くないため、時間がかかるのは必定だった。

 それでも映像を飛ばし飛ばしにすることは絶対に無かった。今では目にすることが叶わない染谷先輩の演技を飛ばすなんて、国宝に唾棄することに等しい。私には先輩が出演している一秒でさえ尊いものなのだ。

 そして噂通り先輩の演技は類を見ないくらいの完成度だった。類を見ないというのはまさにそのままで、親友という贔屓目ひいきめをしたとしてもくるみを勝るだろう。

 決してくるみが力不足なのではない。

 染谷先輩が強すぎる。

「これは……化け物か……?」

 私以外誰もいない部屋でぽつりとそう溢した。

 他の人達が演技をしているとすれば、先輩にはキャラが宿っている。「演じる」という行為を凌駕して、そのものになっているのだ。

 そこに不自然さは微塵も無い。

 なぜなら舞台に立つ時間は、その役が彼女の本質に成り代わるからだ。

 そうして一時、染谷一華という人物は消える。

 演技であることを忘れて、ただ彼女の肉体に憑依ひょういした別人物のありのままの記録映像を見ているようだった。

 これが演劇部の部長……

 気づけば膝の上で、血管が浮くくらい手を握り締めた私がいる。

 あぁ……私今わくわくしてる……!

 この感じ、アニメとかゲームである、第一線を引いた偉いポジキャラの真の実力を知ったみたいな興奮だ。今でこそ下の者に任せてるけど本気出したらとんでもねぇやつ。

 先輩……マジでかっけぇっす!

 だがいくら先輩の勇姿を目につけても、肝心の真相に迫る手がかりは見つからない。完全無欠を誇る先輩の振る舞いからは、演者をやめてしまうような悪いことというか原因はどこにも無いのだ。

「これで最後か……」

 全ての映像を見終えた私は吐き出された最後のDVDを手に取る。光面の虹色を傾けながら次の手を考えた。

 することは……一つだけか。

 厳しい戦いになるかもしれない。けれどこんなところで終わるほど先輩への想いは安くないのだ。過酷な冒険の先にある財宝がより価値を帯びるように、苦労の先で手に入れるものほど素晴らしい。だから戦える。

 策は……ある。

 

 

 

「ふー」

 扉の前で一度深呼吸。

 腹はくくったけど、いざやるとなるととてつもない胆力が求められるのだな、と呑気な考えが浮かぶ。

 目の前の観音開きの扉にはそれこそ地獄の入り口の門みたいな重厚感を感じる。

 前進あるのみ。行くぞ。

「失礼します」

 まずはノックと定型文。

「入りたまえ」

 返事はすぐだった。

 一枚挟んでいるというのに、やけに明瞭に聞こえてくるのは主の気迫がこもっているからだろう。

 ぐっと力を込めて押し開くと旗越先生は私の来訪を予見していたかのようだった。正座し漆塗りの座卓で手を組んで真っ直ぐこちらを見つめてくる。

 江戸時代からタイムスリップしてきたかのようなそのオーラに私はたじろぐ。

 すっごい見てくる〜。てか校長室が畳なんてことある? 自由すぎる。

 チラッと部屋の様子を確認するとまるで武家屋敷の一室。違い棚に床の間と歴史の授業で習った書院造がそのまま再現されている。

「どうしたのだ。私に用があるのだろう」

「あ、ええ。失礼します」

「上がっても構わない」

 上履きを脱いで畳に恐る恐る上がる。私の分の座布団もちゃんとあった。

 カバンを置いてゆっくり正座っと。

 ……

 え、気まずすぎるんですけど。

 校長先生と正座で向かい合っていると緊張で胃袋がひっくり返りそう。正座からの居合切り死合いでもしてる気分だ。傍に刀でもあったら……

「ところで君は……」

 しまった、とまだ名乗っていないことに気づく。

「名乗りもしないとは不躾な! 恥を知れ!」

「うわああああっ!」

 一瞬の煌めきで銀色の刀身が私を斜めにわかつ。そして私は動かない伏した肉塊と化し、旗越先生の納刀を見つめながらそのまま……

 YOU DEAD

「はっ……!」

 首を振って状況を掴み直す。

「どうしたのかね。まるで狐につままれたような顔をしているぞ」

「いえ、なんでも……」

 ゴクリ。

 これが先生のプレッシャーか!

 ただ佇むだけで幻視させられるこの「圧」。染谷先輩とはまた違う強者つわものの香りが止まない。

 やはり手強いか……

「申し遅れました。わ、私は演劇部の二年七瀬千紗です」

「七瀬……ああ、演劇部裏方の一流とうたわれるあの七瀬くんか。噂はかねがね」

 そんな噂あるん? 私知らないんだけどそれ。

 どんな風聞ふうぶんが流布されているのか聞きたいところだが、目的はそれではない。

 目的を見失うな、私。

「そんな名を馳せた七瀬くんが一体どのような用件かな?」

 本題を私が振るよりも、先に聞いてくれて助かる。

 机で死角になった太ももを指を広げて握った。

「お伺いした目的は一つです。二年前の演劇部で最後に行われた公演の記録映像を貸していただきたいのです。顧問室では借りられなかったため、旗越先生を訪ねてきました」

「二年前の……」

 先生は手を組んだ両手に額を当てて考えた。

「旗越先生が所属している団体が主催の行事だと伺っています」

「ああ、思い当たった。あれか。今、手元にあるから構わんよ」

「じゃあ……!」

「ただ」

 興奮したのも束の間、伏した顔から輝く眼光に私は毒気を抜かれてしまった。

「私としては貸すことに問題はないのだが、あれは団体の所有物でね。私の一存ではいどうぞ、とは行かないのだ」

「そんな……」

 先生は品のある所作で立ち上がると、丸い格子窓から外を眺める。

「私とて役員ではあるが団体の所有物を私的利用することはできない。即ち貸すことは難しい。上に立つものほど規律を遵守しなければ下にも示しがつかないのだ。申し訳ないが分かってくれたまえ」

 それっきり言葉は紡がれなかった。窓に向かうその背中が語る舌を持たぬと無言に告げる。

 はぁ、仕方無いか……

 私は落胆のため息を吐いた。

「そうですか。承知しました。ところで先生?」

「何かな?」

「先生ってロボットアニメって好きですか」

「無論」

「それって起動闘士ランザムツインオーですよね」

 それは十年くらい前にテレビ放送されたロボットアニメだ。主人公が所属する秘密結社が世界から戦いを無くすために暗躍するというストーリーで、時が流れた今なお根強い人気を誇っている。

「ほほう、君もいける口かね!」

 先生の表情と声色が明らかに晴れやかになった。今だけは大好きなおもちゃに出会った幼い子供のような印象さえ受ける。

「私もリアタイ勢だったんですよ! 十年前なのにオーパーツみたいな作画レベルがすっごいですよね! というか中庭にあのロボット像立ててるあたり、旗越先生は絶対同志だと思っていたんですよ!」

「私にはあれを可能にする免許がある……そう、免許があると言った。この『愛』誰よりも熱いと言えよう!」

「ふふん……では先生。その愛試させてもらいますね」

「……何だと?」

「それじゃそれじゃ、これが何だか分かりますか?」

「貴様! そ、それはッ!」

 先生の視線を釘づけにする!

 驚愕の表情を向ける先、私がカバンから取り出したるは国語辞典くらいの大きさと厚みの箱。外装はほぼ黒一色で中身は特定できないが、先生は勘づいたようだ。それはそうだろう。一部の人間にとっては垂涎すいぜんの域を超えて滝涎ろうぜんの品だ。

「そう! この前2.5次元化として新たなメディアへ進出し、公演された舞台版起動闘士ランザムツインオーの特装版ブルーレイBOX(税込9680円)!」

「しかも初回公演時に会場にて数量限定で発売されたリミテッド特装版(税込13640円)! 主演俳優せっさんのサインが刻まれているだけでなく、このBOXにしか収録されていないせっさん撮り下ろしメッセージ等を収録した規格外のお宝アイテムだろう! 何故君がそれを⁉︎」

「何故って買ったからですよ。劇場に朝一で並んで、誉れ高き待機列の先頭はこの私七瀬千紗が務めましたからね」

 私は胸に手を添えてふんぞり返った。イメージでは私の後ろでざっぱーんと荒波が飛沫しぶきを上げている。イメージでは。

「何と……素晴らしい。君も想いを同じくするファイターということか。ああ、しかしその映像是非見たい! 今日のこの出逢い、乙女座の私にはセンチメンタリズムな運命を感じずにはいられない!」

 大興奮の先生はブルーレイBOXに感覚の全てを奪われて、清廉さを失いながらにじり寄ってきた。

 そんな先生に対して私は片手でBOXを高く掲げる。それは決して簡単には取らせないようにと。

「おや、先生? 誰よりも劣らない愛をお持ちの先生はこちらを持っていらっしゃらない?」

「ぐっ……」

 先生が歩みを止めた。

 この戦い、勝てる!

「痛いところをついてくれる。私とて購入の列に並びはしたのだ。しかしながら私の目の前の客で、そのBOXは売り切れたのだ。夢にまで見たせっさんの限定メッセージを……私は見れていない……」

「それは災難でしたね。……先生、見たいですか」

 私は毅然とした態度で向かい合う。今この場に教師と生徒という関係性は無い。互いの利益のために対等に交渉しようとしている。

「見たい。いや、見なければならない! 私は自分の双眸そうぼうでせっさんのメッセージを見る。先祖の墓前にそう誓ったのだよ」

「そうなれば私が言いたいことは一つだけです! このリミテッドアイテムと先生がお持ちのくだんのDVD、それを一日交換しましょう!」

 私が鋭く示した人差し指は先生の胸を捉えていた。

 この人は根っからのファンだ。先生もこの限定品を持っているというケースも回避できた。だったらこの話に乗らないはずはない。

「……」

「……」

 武士の間合い。

 幾許いくばくの沈黙、旗越先生はふぅっと息を吐くと戸棚に向かう。そして戻ってくるとその手にはプラスチックケースがあった。

「交渉成立だ」

「……っ! ありがとうございます!」

「それはこちらのセリフだよ」

 お互いが自分の欲するものを確かに掴んでから、私たちは差し出すものから力を抜いた。今手にしたものをまじまじと眺めたい気持ちをこらえにこらえて、先生と相対し続ける。

「明日のこの時間、またここで。それでいいかな?」

「問題ないです。でもお願いしておいてなんですが、本当に借りちゃってもいいんですか?」

 さっき上に立つ者は規律を云々って。

「そんな道理! 私の無理でこじ開ける!」

「そ、それならいいですけど……」

「七瀬くん。規律とは人に指針を示すものであって、人を縛るものではないのだ。そしてときには規律よりも優先されるものがあるということを覚えておくがいい。おぉ! この筆跡……写真に収めよう」

 カシャカシャッ。

 うーん清々しいくらい私利私欲。カッコいいこと言ってるけどさ。

「それじゃこちら大切にお預かりします。これで……先輩について、じゃなくて演劇について勉強できます! それではまた明日。失礼します」

「ああ。私も早速楽しませてもらうよ」

 もうパソコンにディスクを読みこせている先生を閉める扉で遮り、ドアノブを下から上へ。

「ふぅーーーーー」

 やった……やったぞ!

 受け取ったDVDを窓の外の太陽に透かしてみる。そして抱き締めた。

 ここに染谷先輩の秘密が詰まっているに違いない。

 それを遂に確かめられる。

 これで落ち着けというほうが無理な話だ。

 逸る気持ちに足元を掬われないようにしながら私はスキップで演劇棟へ向かった。

「会いたかったぞ、少年ッ!」

 校長室から聞こえてきた魂の叫びを背に受けて。

 

 

 

 ボタンを押してトレイを出してディスクを置いて押し込む。

 無駄のない洗練された動き。何度も行ったこの動作もこれで最後だ。

「よっし」

 防音なのをいいことに音量めちゃビッグ、部屋の明かりを落とせば即席映画館の完成だ。

 染谷先輩の演技が収録された最後の一枚。この中に夢と希望と秘密が詰まっていると踏んでいるが、もちろんそうじゃないケースもあり得る。竹田先輩たちは、DVDからなら何か分かるかもしれないと助言してくれただけだ。絶対ではない。

 だがあえて言おう。絶対であると!

 旗越先生の言葉ではないが私だってこの円盤に運命的なものを感じている。理屈じゃ説明できない、シックスセンス的なやつ。そんな名状し難い感覚はネガティブな予想なんて埃のように吹っ飛ばしてくれていた。

「私よ、信じた!」

 念じる気持ちを込めて再生ボタンを押下した。

 果たして始まった演劇は超一大イベントとかではなく、定例演劇会の一回のようだ。主演はもちろん染谷先輩。西洋っぽい街の一角、身寄りのない踊り子が幼い頃教えてもらった舞踊で日銭を稼いでいた。ある日もいつものように大通りで踊りを披露していると一人の商人にスカウトされるのだが、実はその人物が貿易商人で、ついて行くと決めた主人公は世界を渡り歩きながら名声を得ていく、という成り上がり系のストーリーだ。

 ほほーん、ダンスが上手ね〜

 ただの演技だけでなく軽やかな踊りを伴ったミュージカルのようなテイストだけれども、先輩はそつなくこなせてしまうのだった。

 てか、えっちくね?

 舞っていると深々とスリットの刻まれた踊り子衣装から幾度となく扇状的な脚が見え隠れする。引き締まっていて美しい。この脚線美は後世に語り継ぐべきだ。

 へそもだし。

 無駄が徹底的に排除されたお腹もきっと弛まぬ筋トレで維持されているのだろう。自然と目線はその中心のブラックホールに吸い込まれてしまう。本音を言えば口づけしたい。うむ。

「これはあれだな。別な意味でお宝映像だ。今じゃ絶対拝めない」

 これコピーしていいか。いいよな。デスクトップに飾ろう。

 しかし画面の中で先輩がいくら裾を翻して見せても、真相に迫る糸口は見つからない。パズルのピースを渇望する私を先輩は右へ左へステップを踏み、妖精のようにはぐらかすのだった。

 動画の残り時間を示すシークバーは私の焦りなんてお構いなしに右へ進んでいく。

「うう……違うの?」

 場面はラストのダンスシーンに入る。周囲からのやっかみで身の危険を心配しながら、王族の広間で舞を一つ披露するクライマックスだ。そこに一縷いちるの望みをかけるのだが、相変わらずめちゃくちゃすごい演技とダンスが流れるだけ。

 舞台の上の一匹の可憐な蝶。

 スポットライトが追随して光を注ぐ。

 もう終わっちゃうよ……

 演劇を記録するカメラは染谷先輩をドアップにして上から下に動いていく。

 艶かしい切れ長の目がこちらを向いた。画面越しに私を認知しているように。

 輝きながらシャラシャラと鳴るアクセサリー。

 しなやかさと強靭さを併せ持つしなやかなかいな

 扇状的にくねる腰回りとともにひらりひらりと揺れるレース。

 顔を覗かせるかわいらしい熊さん。

 触れたいと思うけれども、絶対にそれを許さない禁断の脚。

 靴も装飾豊かで衣に負けず劣らず……

 ん?

 何か違和感。

 リモコンで少し巻き戻す。逆再生でチャカチャカと動く先輩をよきところで止めてもう一回見直して……

 

 演劇を記録するカメラは染谷先輩をドアップにして上から下に動いていく。

 艶かしい切れ長の目がこちらを向いた。画面越しに私を認知しているように。

 輝きながらシャラシャラと鳴るアクセサリー。

 しなやかさと強靭さを併せ持つしなやかなかいな

 扇状的にくねる腰回りとともにひらりひらりと揺れるレース。

 顔を覗かせるかわいらしい熊さん。

 

 熊さん。

 

「ちょぉっと待てぇ!」

 思わず相席する食堂みたいなツッコミで映像を停止する。そして急いで画面を拡大。

 え、え、え? どゆことじゃ? ちょっと待って。理解が追いつかないから。

 映ったのはほんの僅か。何気なく見ていたらまず気がつかない。

 けれど私のホークアイと時が固められた画面はそれをまざまざと捉えていた。

 先輩の健康的で柔らかそうなお尻を守りながら、スリットからハァイしてくるポップな熊さんを。

「こ、これってつまり……パン——!」


「何 を…………や っ て い る…………」

 

「ぁ……」

 怨霊のような掠れた息が喉を出る。

 うそ……

 私は背筋に絶対零度の刃物を突きつけられていた。

 冷たい。焼けるように。

 刃物はほんの少しの接点からじわりじわり肌を凍らせていく代物で数センチ動けば私の内臓は容易にズタズタになる。

 いや、ここは学校だ。刃傷沙汰にんじょうざたなんて常識的にあり得ないし、私はそもそも服を着ているから肌は露出していない。

 だからこれは錯覚。

 旗越先生のときと同じ。

 そんな幻視を呼び起こせる人なんて……

「何をやっているのだ、七瀬千紗?」

「せ、せんぱぃ……」

「どうしてお前が、それを見ている……?」

「ッ……」

 息が詰まった。

 画面いっぱいには染谷先輩のパンツ。

 

 ——気になりはするけど、山内先輩を口封じしたってことはよっぽど知られたくないんでしょ。それを暴くのはどうなのかね——

 ——そうですよ。好奇心猫をも殺すって言いますから危ないと思います——

 

 くるみと乙坂さんの声が遠くから思い出される。

 次いで浮かぶのは悶え苦しむ山内先輩。劇薬を盛られたみたいにのたうち回って、死んだほうがましに思えるような歪んだ形相が私に向く。塗り潰された眼窩がんかの深淵が私を捕えて離さない。

 次はお前だ、と言うように。

 私は染谷先輩に振り向くことなんてできなかった。

 振り向いた瞬間私はこの世からいなくなる、そんな気がした。

「七瀬……七瀬……」

 呼び声がひたりひたりと近づいてくる。

 どう……しよ……

 浅い呼吸を連続して繰り返すけれども、空気なんてちっとも入ってこなかった。

 だから私のとるべき行動も分からない。謝ればいいのか、逃げればいいのか。

 しかし決断したところできっと私の体は動かない。

 恐怖に体が侵されていた。

「七瀬……」

 それはもう真後ろにいる。

 瞬きを忘れた目が涙を出すけども、それすら乾き切る。

「こっちを、見ろ……」

「ぁ……」

「見ろ……!」

 服従するしかなかった。

 背後を振り返る。

 モニターの光源しかないこの部屋では、先輩の顔は真っ暗で分からない。けれど骨張るほどに曲げられた手指は呪い殺すかのように首根に迫っていた。

「お前……」

「ぁっ……っ……」

 その細い指が私の肩に絡み、そして。

 

「ぜぇぇぇったいに言うなよッ! 本気でッ! ぜったいだからなああああああッ!」

 

「うぁぅ、うぁう、うぁあ」

 頭が胴体に追いつかないくらいに私は全力で揺すられる。

「誓えッ! 言わないって! 誓えぇぇぇッ! 今すぐ!」

「ちちちち誓います! 誓いますから! 離して! 飛んでく!」

 あ、もげる。

 遊園地のアトラクションだってもっと優しいのに、この脳みそバター製造先輩は私に容赦ない。

「ほんとだなッ! 言いふらしたら折るからなッ! いいかッ!」

 どこを?

「ぁい……うぅ……」

 子音がどこかに行ってしまった意識失いかけのような返事でようやく解放された。それでも方向感覚が失われてしまった私はそのまま床に倒れ潰れる。

 気持ぢわるい……ぐぇ。

 パチっという音で明かりが点く。朦朧もうろうとした視界でなんとか収める先輩は、緑の黒髪が乱れて気を揉んだ表情をしていたが、殺人鬼とか悪霊の姿ではなかった。まずはそこに安心する。

 いつもの先輩だ……でも怖かったよぉ。

 せかせかと動き回る先輩はリモコンを見つけると迷いなく画面に構えて映像を落とした。どんなアイドルのチラリズムより貴重な染谷一華のパンツがこうして闇に葬られた。

 先輩のかわいらしい熊さんパンツが……できればも少し……

「おい七瀬。このDVDをどこで手に入れた? 正直に言え。言わないと引きずり出すぞ」

 ふぇぇ、何出されるの? はらわた

「これは私のほうで処分しておくから絶対に他の人には」

「ま、待ってください。校長先生のです。それ」

「……旗越先生の?」

「はい、うっ……」

 ぽかんと口を開けた先輩はゆっくり瞬きをすると「想定外だった……」と眉をひそめた。

「借りたのか?」

 声を出すのがちょっと苦しいので頷きで肯定する。

「なー厄介なことだ。……処分できないだろ。流石にこれは」

 処分って……

「もしかして顧問室にDVDが無かったのは……」

「あ? ああ、私が秘密裏に処理させてもらった」

 犯人いたーーー!

 しかも結構やっちゃいけない立場の人がやっちゃってる。

「これは私の沽券こけんに関わる。絶対に知られてはいけない」

 それはそうだろうけど……イメージとかけ離れているし。

 思い出されるキュートなおパンツ。

 私は先輩のスカートを凝視する。

 その中身を推し量るように……

「てめぇ! 見んじゃねぇッ! 想像するな! くり抜くぞッ! この!」

「わぁぁぁぁぁあすんませんすんません! やめて! グロいから!」

 馬乗りになって私の眼球を狙う凶器の手をなんとか必死で押さえる。失明したくない。

 やっぱりいつもの先輩じゃないわ。こんな取り乱して、死に物狂いな姿なんて初めてだもん!

「ととととととりあえず、おちおちおち落ち着いて! 一旦話しましょ! ね!」

 のしかかられた状態で絶体絶命だけど、このまま黙って抜かれてはたまらないので声を張り上げる。

 先輩の手首を捕まえて、やらせはしない。

 暴走気味だけど先輩は先輩だから!

「落ち着きましょ。ね! 私です! 先輩の誇るべき後輩、七瀬千紗ですよ!」

 私はいつもの敬愛の眼差しで憧れの対象を見上げる。

 ハッと先輩の身持ちが柔らかくなった。

 頬を朱に染めて汗を浮かべる先輩が、見上げる先にいた。

 シチュエーションは危機的だけど、こんな表情もこんなアングルも普通じゃ絶対味わえないわけで……

 そうですよ、次期裏方リーダーを任せた私ですよ。だから落ち着いて。

 場違いな考えは置いといて、思いを込めて私はこくりと頷いた。

「お前だからやばいんだるぉぉぉぉッ!」

「ぎゃくこぉかあああああ!」

 意味ねぇええええ!

「犯罪はダメです! 前科がつくと内定取り消しですよ!」

「む、それは……そうだな」

「現実的!」

 就職決まってなかったら私は二度と光を拝めなかったってことじゃん! ありがとな!

 先輩の劇団さんよ!

 何とかどいてもらってから私は息も絶え絶え起き上がった。次されるときはもっと違う雰囲気を所望する。

「はぁはぁ……よっこいしょ。とりま何か説明欲しいです」

 一旦落ち着いて両者ともに椅子に腰掛ける。

「黙秘権を行使する」

「あそこまでやっといて⁉︎」

 暴行罪ですよ⁉︎

「ところなんだが、お前このDVD自分で借りてきたんだろ。あの旗越先生から」

 こんなときでも背筋が綺麗な先輩はケースをひらひらと揺らした。

「お前行動力あるから黙っとくと必ず調べ出すよな。ったく良いとこが裏目に出てる。だから……話すわ。不必要に詮索されて知れ渡ったら最悪だから、お前の情報を統制する。これで満足して嗅ぎ回らないと誓うか?」

「誓わなかったら?」

「裂く」

「さっきから怖い! 誓いますよう」

 私が言うのもなんだけど正しい判断だ。私につけいる隙を与えると探偵ごっこを始めてしまう。

「ちっ、あー何が楽しくて自分の恥ずかしい話しなきゃなんねぇんだよ。拷問かよ。……聞いといて馬鹿にするなよ。したら許さないから」

 先輩はガリガリと頭をかいて嘆息する。

 先輩、焦りというかそんな感じで口悪くなってる。似合う。好き。

「……端的にいうと、見せパン履き忘れたんだよ。あのときだけ」

「えっ⁉︎ じゃああのかわいいパンツはいつも——」

「違ぇよ! 最後まで聞け! お前、あと見んな! 割るぞ」

「すんませんすんません!」

 だから怖いって。

 まぁ流石に先輩の手持ちのパンツではないだろう。誰かからの借り物とか。例えば妹とか。妹いるか不明だけど。

 てか仮に先輩が選んで買ってるんだったらかわいすぎるわ。あの見た目でキュートな熊さん。マリアナ海溝とエベレストくらいのギャップ萌えで死ぬが?

「あのとき都合が悪くて手持ちがあれしかなかったんだよ。……家で履く用の」

「そうですよね〜。まぁ家族から借りるってよくあるって聞きますし……んな?」

「な、なんだよ……」

 俯いてしまう。

「先輩の?」

「……だよ」

「え、え、え?」

「……そうだよ!」

「そ、染谷先輩が熊ちゃんパンツぅ⁉︎」

「死ねぇええええぇぇぇぇえッ!」

「だああああちがあう! 馬鹿にしてない! 断じて!」

 私の頭蓋を割るために自らが座るイスを振り上げようとするものだから、その手を何としても止める。

「私がかわいい物身につけちゃいけないのか⁉︎ いいだろ! 迷惑かけてないんだから!」

「もう全然良いです! 何も問題ありません。全肯定!」

「そんな口先だけ!」

「そんなことない! さっきのはギャップに萌えただけで、先輩だってまだまだ乙女なんですからかわいいものが好きなんて当然です! あれですよね! 周囲からのイメージとかけ離れすぎてるから誰にも言えないんですよね⁉︎」

「……そのまんまだ」

 声に僅かに落ち着きが戻る。このまま冷静さを取り戻せなければ脳漿炸裂ガール(本物)ルートになる。それは嫌だ。

「周りのイメージ気にして自分を殺しちゃうなんてもったいないですよ! そんなにしてまで演技しなくていいです! それでも……それでも公にするの躊躇うなら、せめて私の前では素でいいですから!」

 自分の好きなものをひた隠しにして生きるなんて退屈すぎる。これが好きって語る姿があったほうが愛嬌があるというものだ。

 お気に入りがあれば友人とだって盛り上がれるし、私だって今かわいいトークしたいって思っている。もしそれを否定してくるようなやつがいればそんなのは友達じゃないから、離れてしまえばいい。

 私としては先輩はそういう生き方のほうが似合ってると思うし! カッコいいじゃん!

「もしも……もしもイメージが違うとかってみんなから孤立してしまっても……私はお揃いのかわいいもんつけて一生一緒にいます!」

「お、お前……」

 椅子を持ち上げる腕の間から視線が絡む。

 先輩が急に冷静な顔になってくれるから、間を置いた後自分の発言を噛み砕いて再認識してしまう。

 あ、ちょっと恥ずかしいかも……

「……っていうくらいおっけーだよ、みたいな? はは……」

 今度は私が騒がしい表情を浮かべる番だった。

 ノリと勢いで飛躍しすぎたことを言っちゃったかもしれない。論点がずれた別の感情が乗っかってしまった。

 今言うことじゃなかった……かも? 

「とにかくですね! 自分が好きなら誇りましょ。折角なら一緒にかわいいもの巡りしましょうよ! 私だって好きなんですから! ね!」

 強引に話を終着点に持っていきながら、椅子もゆっくり下ろさせる。その手にもう力は入っていなかった。

「……誰にも話せないし、今まで一人だったから……それは嬉しい……な」

 そう溢すと先輩はバツが悪そうに目を逸らした。

 ほっぺをぽりぽり。

 え、この人こんな表情するの? は? かわいすぎだろ。マリアナ海溝とエベレストくらいのギャップ萌えで死ぬが? てか死にかけたわ。物理的に。

「ちな、どこ行きたいですか?」

「…………サンリオピューロランド」

 きゃわ!!!!!!!

 死!!!!!!!

「行きましょう! 絶対行きましょう。引きずってでもエスコートします!」

「それはエスコートとは言わないだろ」

 パシっと先輩のしなやかな手首を抱き寄せてしまった。体がそうしろって言ってきたからそうした。

「でも……正直言うなら驚いた。お前にも笑われるって思ったから」

「にも?」

「山内には抱腹絶倒するほど笑われた」

 あの人……

「だから記憶を消した。こう……色々してな」

「先輩の色々はできそうなこと多すぎて不気味です」

 FBIとか欧州マフィアとかに繋がっててもおかしくないぞ。

「そもそもあいつが悪いんだ。劇終わった後、お前パンツ見えてたぞって笑いながら言ってきて……それでもう誰が目撃したか分からんし、見たかなんて聞けば自己申告みたいなもんだし。だからあいつの記憶はぶっこ抜いて、全員にはもし私の秘密をばらしたらっていう忠告だけしといたんだ」

「はー」

 合点がいった。だから、言わないでくれと懇願されたけど誰もその内容を覚えていないという不可解な状況ができあがったわけだ。そりゃ誰も覚えていないだろう。そもそも懇願内容、「先輩の下着」を見てしまった人が山内先輩しかいなかったのだから。それで山内先輩は拷問を受けたか脳クチュされたかは知らないけどおぞましい体験を体が覚えてしまったから、激しい発作が起きてしまったと。

「じゃあ……演劇やめた理由は?」

「不特定多数にあのパンツ見られていたかもって考えたら、同じ失敗しそうで舞台立てなくなった。あと山内に馬鹿にされたのがしんどい」

「案外シンプルな理由だったんですね……いや、つらいのは分かりますけどね」

 だいたい山内先輩のせいじゃん。かわいい外見しときながら元凶すぎる。駄犬め。

 点と点が繋がって線になる。一連の流れがまさにミステリーって感じだ。

 その根幹は熊さんパンツだけど…………パンツか。

 気になって気になって夜も眠れなかった今世紀最大のミステリーの真相が、パンツ。

 何というかこう、隠された先輩の出自とか演劇しないように人質取られてるとか、ナントカ流演技術の重要無形文化財保持者でした〜わぁ、みたいなものではなく。

 パンツ。

 いや、良いんだけどね。レアだし。こんなこと誰も知らないだろうし……むむ?

 そのとき私は気づいてしまった。思わず先輩のスカートの下を……見ずに明後日の方向へ。察知されたらまた大変だ。

 誰も知ってる人はいない。

 山内先輩の記憶は消去済み。

 つまりこれは私と先輩の『二人だけ』の秘密……!

「最高じゃねぇかッ!」

「何がだ?」

「あ、いや、何でもないっす」

 二人だけの秘密。

 いい響きだ。

 そう考えると熊さんパンツも尊く感じる。

「はぁ……てかもう帰るぞ。放課後も遅いんだから」

 スマホを確かめると閉校時間ちょっと前。急いで帰らなければならない。

「そうですね! 帰りましょっか!」

「やけにテンション高いな」

 そりゃそうだろう。

 完全無欠で洗練された染谷先輩の意外でキュート一面を知ることができた。これだけでもう頭弾けそうなのに二人だけで交わされた秘めごとである。そしておまけにデートの承諾。

 私大丈夫? こんな幸せで刺されない? 夜道怖い。

 もし世界の幸せの均衡が保たれる何らかの力があるとしたら私は間違いなくターゲットにされてしまう気がする。気をつけよう。

 先輩と並んで歩く廊下。今日はこのまま一緒に下校しよう。

「ふふ〜先輩一緒にお出かけするの約束ですよ? お買い物してお揃いのパンツ買いましょ!」

「はぁ⁉︎ 何で……」

「かわいいやつ選んであげますよぉぅ。とびっきりの!」

「別にいらん!」

 素直じゃないなぁもう。

 でもこういう人は実物前にしたら流される気がする。

「ああもう、ほんと厄介なやつに知られたよな。いいか、他言しないように、これからはお前に対する監視を一層強化する。お前の行動はマークしておくからな。覚悟しとけ」

 それって……

 厳しい文言に反して、染谷先輩は期待感に胸躍らせた愉快な顔色をしていた。

 初めて見るな……

「ふふふっ」

「お前、今そのままのノリで口外するなよ。したら……」

「言うわけないですよ! だって」

 私は駆け出してからふんわり振り返り、ニッと笑顔を送った。

 

「秘密なんですもん!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私を抱きとめてくれたのは後輩の女の子でした トッチー @Toccy520

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ