第五幕

「はい、ストップ」

 先生の声を聞き、私を含めた全ての演者は足を止め、ステージ下の先生を見下ろした。

「素晴らしい完成度です。この場面は完璧と言って差し支えないでしょう」

 先生の優しい口調の褒め言葉を聞き、皆一斉に胸を撫で下ろした。今回舞台に上がっていない部員からも拍手が送られる。

 ま、私達ならこれくらい当然かな。

 本番の交流会まで約一週間に迫った五月上旬。私達演劇部はかなり仕上がっていた。この調子なら本番は恥ずかしくない堂々たる演技を披露できるだろう。

桜木さくらぎさん」

 部隊から降り、意気揚々と凛のもとに向かったとき、先生に呼び止められた。

「さっきのレオンとの対話の場面、声の通りも表情も前より大きく成長してましたよ」

「ありがとうございます! 少し工夫してみたんですよ」

「役の心に共感できるようでした。その調子でね」

 先生は柔和な笑顔をつくった。しかしそれもすぐ不思議そうな顔に変わる。

「だけど、そうすると練習初日の不調はやっぱり何だったのでしょうね。あの桜木さんが、と印象的だったけど……」

「あーあれはですね……んーわ、若気の至りってやつですよー」

「は? 若気の至り?」

「そ、そんなことより、次の練習の間、個室で練習しててもいいですか? 次の場面は出番もないですし」

「ええ構いませんよ。最近熱心にやってるようですけど今日も乙坂おとさかさんとですか?」

「はい! 私達主演なので!」

 ニカっと笑い駆け出す。上履きがキュッと小気味良い音を発する。

 私の身の内を初めて開いたあの日から、私は本来の力を発揮することができるようになった。演技で変調をきたすことはなくなり、すこぶる調子がいい。きっと凛に対して正直になれたからだろう。対する凛も私を受け入れてくれており、凛との共演は息ピッタリ。心が踊るように楽しくて仕方がない。

 以心伝心、心を重ね合わせられるのってとっても嬉しい!

 しかし最近、重ね合わせるのは心だけに留まらない。

「りーん! 行こっ」

「あ、ちょっと先輩! もう」

 小走りの勢いそのまま、凛の細い手を取った。少なからず周囲の視線を感じながらも、気にせず個室の練習室へ。 

 ドア横のプラカードを裏返すとすぐに凛を連れて中へ飛び込む。内側から鍵を掛けるのを忘れない。

 今回はもう練習じゃないからね。

「凛〜ギュッてして?」

 尋ねたものの返事を聞かず、私から肩に腕を回す。ふくよかな体を体で感じる。

「まだ何も言ってないでしょ」

「えへへ、あったかくて柔らか〜い」

 半ば強引に誘ったことから、凛もだいたいは察していたに違いない。ポジティブに呆れつつも寛容だ。

「ほんと、甘えんぼさん」

 凛の左手が背中を伝い、右手が髪を触れる。

「ふぅ〜」

 温泉に浸かったように気持ちいい溜め息が流れ出た。

 あの日以降、私の演技が絶好調になっただけでなく、時間が空いてはこうして二人きりで逢瀬おうせを堪能していた。凛が甲斐甲斐しく私に寄り添ってくれるのだ。

 ちなみに記念すべき一度目の逢瀬はとても記憶に残っている。

「じゃ、じゃあ、抱きつくね」

「は、はい、どうぞ」

「では失礼します……」

 と、双方が謎に畏まっていたからだ。受け入れてくれると高らかに言ってくれたが、時が改まるとやはり変に緊張するのだろう。初々しいカップルみたいである意味いい思い出だ。

 今ではその緊張も無くなり、水入らずの時間を送るようになった。この密会が私の生活をつややかなものにし、日々の生きる糧となっているのだった。それは決して過言ではなく、授業中でも家にいるときでも凛のことばかり考えている。さすがに演技中は自粛しているが、そのぶん凛との共演が華やかに感じられるので問題ないのだった。

「凛、暖かい」

「よしよし、いい子いい子」

 凛の手のひらから注がれる癒しの温もりは私の全身をほぐすように血管を通って流れていく。昔の小さな頃に帰ったように、凛の頬に自分のそれを密着させる。

「ん、好き」

「私も大好きです。先輩」

「んふ〜」

 私は満たされている。しかし人間とは何と貪欲なのだろうか。私の身体はもっと深みへと進むことを欲していた。

「もっと欲しいの。凛を欲しいの」

 顔を向かい合わせる。それが言わんとしていることはただ一つ。

「私を……凜で満たして」

 彼女の顔がにわかに紅潮しはじめる。あれほど美しい凛がここまで反応してくれるとこちらも興奮せずにはいられない。

 きっと私はトロンとした目なんだろうな。

「後悔しても、知りませんよ」

 身体がぐいっと引き寄せられる。力強い。

 私たちの唇が重なった。

 きつく。

 厚く。

 強く。

 優しく。

「ん、凛」

「せんぱいっ」

 まつ毛とまつ毛が触れる距離。大きく色相が異なる絵の具がぐにゃりぐにゃりと混ざっていくように。柔らかな唇を接点として私たちは全てを忘れて溶け合った。くぐもった嬌声と鼻息をお互いにかけ合う。腕を身体に絡ませ引き合う。

「んん、んなっ!」

 身長において凛に一歩譲っている私は、膝を折るように後方に倒れた。自然と離れる官能に輝く唇。その間を結ぶ透明の糸。

 床へ仰向けになった私はお腹へのやんわりとした重みを感じて状況を把握する。凛は演劇で鍛えた真っ直ぐな背筋を伸び伸びと解放していた。その姿はさながら馬を操るジョッキー。そして跨られているのは私。

 ヤバ、なにこれ、ドキドキする。

 屹立きつりつした肢体。降ってくる視線。動けない身体。日常では体験できない状態に私の吐息がしっとり甘くなった。

「あれせんぱい? もしかして興奮してるんですか?」

 見上げる凛がとろりとゆるく話しかける。下から見ると彼女の胸が普段より大きく映る。

「そ、そんなこと……」

「ほんと?」

「ほんとだってぇ」

「ふーん」

 言葉とは裏腹に加速する心拍。

「じゃあ……」

 ドンッ!

「ひゃあっ!」

 一切の抵抗なく倒れ込んでくる凛と床を揺らす重低音に思わず目を瞑ってしまう。恐る恐る目を開けるとほんのり紅くなった瑞々みずみずしいフェイスが眼前に。少しかかって凛が前腕をついて、覆いかぶさっているのだと分かった。

 これって床ドン⁉︎

「少しいたずらしちゃいますね」

「な、なに——んにゃっ!」

 予想だにしない方向からのくすぐるような刺激が襲う。それは耳をじんわりと湿らせるぬるい風だった。

「先輩、可愛い声出ちゃってますよ」

 凛が目を細めて扇情的に笑う。それを見て私は皮膚の裏側を撫でられるような心地よさを下腹部に覚えた。体験したことがない気持ちよさだった。

「い、今のは突然だったから!」

「じゃあ今からしても耐えられますね?」

「それはちがっ、うう〜」

 断続的に送り込まれる吐息が身を焦がす。ふぅーのときもあれば、はーのときもある。凛の熱が耳奥を甚振いたぶるか、全体を包むかの違いだった。

「んっ、んっ」

 どちらにしても私の身を震わせるのには十分すぎて、至近距離で放たれる微風を前に、声を殺す努力は何の成果もあげられなかった。今また一つ湿り気たっぷりの息に身をよじらせる。

 だめ、気持ちくて声が……

「先輩って、ドMさんだったんですね」

「うぅ〜〜」

 恥ずかしくて、凛のことを直視なんてできるはずがなかった。散々乱れる姿を晒したのだから、今更否定したってしきれるものではない。すぐにでも両手で顔を覆いたいが、両手首は床に押さえつけられてしまっていた。ハイペースな呼吸が漏れ出るだらしない顔を背けることだけが私にできる最後の抵抗だった。

 私だってこんなことで昂るなんて知らなかったよぉ。

 後輩に攻められる倒錯感がじりじりと身を焼く。それが気持ちよくて、嬉しくて。いや『後輩に』は違う。これは相手が凛だから悦んでしまうのだ。

「先輩、えっちです」

 温もりに満ちたふんわりとした手に頬を包まれる。

「ほら、こっち見て」

「恥ずかしいよぅ」

「見なさい」

 有無を言わせぬ冷たさを孕んだ命令に私の身体はびくんと跳ねる。私は抵抗する立場にいないという実感が官能を溢れさせた。

 大好きな凛に言われてる……

 自分の意思では抗えず、顔は凛を真っ直ぐ見据えた。

「いい子ね」

 両頬を固定された私に凛の唇が迫る。バードキス。小鳥がついばむように、可愛い唇をちゅっちゅと押しつけられた。そして凛の手は流れるように私の輪郭を伝う。頬から首へ。

「あ、んんっ!」

 風船から空気が逃げるように、たまらず恥ずかしい声をあげてしまった。そこは私の弱点ともいえる場所。昔からここのくすぐりには弱かった。

 図らずとも新しいおもちゃを見つけ、はっとした凛はにんまりと口角をあげた。そして何度も何度も細い指を往復させる。

「や、そこダメなの!」

 僅かな丘陵をつくる喉仏が小さな刺激でなぶられる。凛は乱れる私をあからさまに楽しんでいるが、私はそれどころじゃない。荒れ狂う痺れを発散する術がなかった。視界に段々とピンク色のフィルターがかかっていく。内側を走る快感は腰に向かって突き進み、秘所を暴くようにドンドンと叩いて止まなかった。

「あっ! ぁうう」

 蜜の蛇口と理性のたがは緩みきっていた。理性がどろどろになった私は凛の手首をぎゅっと捉える。

「先輩……」

「……お願い」

 私は空いた手で自らのジャージの襟を目いっぱい広げる。そこには二つの膨らみ。おかしくなった私は掴んだ手首を奥へと誘う。

 少しずつ、少しずつ。

 凛、りん……

 自分からこんなことをして、という恥じらいが消えたわけではない。凛を欲する気持ちがそれをゆうに越えてしまったのだ。二人の密室という状況が内なるくるみをはやすように焚きつけた結果だ。

 触れて……

 膝小僧をキュッと締める。

 私は目と鼻の先にある悦楽への期待に恍惚とした面持ちを浮かべた。

 今まさに。凛のしなやかな指が。私の胸に。


「はい、おしまい」

     

「……ふぇ?」

 どういうことか分からず間抜けに疑問符を浮かべる。

 え……? どうしたの?

 未だおさまりの見せない荒い呼吸をしながら、凛を見つめ続ける。

 一方凛はそんな私もお構い無しに、色慾にまみれた私の手からぱっと抜け出すと、のそのそと身を起こし呑気に伸びをし始めた。

「え? え?」

 現状が全く把握できない。あるのは伸びる凛が猫みたいだなぁ、的な小並感だけ。

「では、本来の目的、演技の練習に戻りましょうか」

 乱れた衣服を整えながらそう言った。そんな彼女の声色は例の演劇モードだった。つまりもうイチャイチャタイムは幕引きだということ。

「え、なんで?」

「なんでも何も、私達は演技練習のためにここを使っているんですから、練習しませんと。次のシーンは確か相当長いやつでしょう」

 何事もなかったような冷静な様子で告げた。

「でもでも、もうちょっとだったっていうか、もっと欲しいっていうか」

「それはまさか、演劇はないがしろにしてもいいと?」

 スッと細めた目で未だ横たわっている私を上から注視する。

「そ、そうじゃないけど……」

 ちょ、ちょっとそう思ってたけど……

「それなら良かったです。ほら、立ってください」

「そんな〜〜」

 不満を口にしながらも、出された手を助けにして立ち上がった。もう少しだったのにというやるせなさは拭えない。

「まぁ、よくできたら、ご褒美をあげますから」

 そう言うと、またもや妖しい笑みを向けてきた。

 しかし正直言うと、演劇に心を変えた凛もかなり好きだ。優しくて面白い普段に対してこっちはクールでカッコいい。しかも向けられる冷たい瞳や態度にはなぜかドキドキしてしまう。

 あれ、ほんとにMじゃん。

「それでこれはご褒美を少し前払い」

 ちゅ。

 私の顔はぱふっとやる気で火照る。

「がんばる! 私がんばる!」

 私はとてもちょろかった。自分でも呆れて笑っちゃうほどに。

 因みにこの日の夜は、個室での出来事を思い出すだけで興奮してしまい、深夜まで眠れなかったのは言うまでもない。

 

 

 

 そんな感じで演劇と二人の時間を程よく楽しみながら日々を過ごしていった。演劇は私達を含めた舞台組も部長率いる裏方組も万全といった様子を見せていた。部員全員が切磋琢磨してできることをやったのだから何ら問題はない。そう断言して私達は本番、県内の演劇部が一堂に会す演劇交流会を迎えた。

 ところどころ剥げ落ちている黒板。昔の空気を感じさせる木枠の窓。古い年月が記された借用机。クラシックな雰囲気が醸し出されたその部屋まるごとが私には見慣れないものだった。

 私達演劇部は交流会の会場となっているとある高校の一室にいた。この校舎は私達の校舎よりもずっと前に建設されたらしく、学校全体に年季が染みついている。

 こういう古風な感じも素敵だね。

「いつもとは違う機材なんだから操作確認ちゃんとしとけよ」

「こんな感じの飾り付けにしといて。そっちは取れやすいから頑丈に」

 道具が整然と並べられた一方では部長と千紗ちさが指示を発していた。

 輝かしく交流会のトップバッターを務めることになった私達は空き教室を借りて、着替えやら小道具やらの準備を進めている。もうリハはできないので個人的に空きスペースで済ませるしか他ない。それに折角の交流会だが一番最初を務めるにあたり、すぐ横の体育館で行われている開会式には出席できないのが残念に思われて仕方がない。

 そこへ風の気まぐれで挨拶が流れ聞こえて来た。

「晴れやかな空気だな、諸君! 今すぐにでも本ベルを鳴らしたいところだが、ありがたく開会の挨拶を賜わったため、少々時間を頂きたいと思う。今回諸君らがここに召集された理由、もちろん分かっているだろうな? そう! 己と他者の技量を認知し、磨き、讃えることにより相互的に成長し、次の段階へと変革することである!」

 あ、この熱い演説は我らが校長、旗越栄香はたごええいか先生だ。

 スピーカーは良いものなのだろうか、ここからでもいつもの五割増しくらいで聞こえてくる。

 高校演劇の権威としても名高い先生は確かオブサーバーとして参加していたはずだ。

「今日も校長先生熱血だねー」

「他校の生徒がびっくりしちゃうよね」

 二年部員が置き道具の細部をチェックしながら談笑していた。

 なんか、慣れってすごいな。

 きっと体育館内は某ガキ大将のリサイタル並みの暴音で溢れていることだろう。開会式にでなくて良かったかもしれない。

 一通りの準備が終わり、あとは運ぶだけとなったところで、白金しろがね先生が皆に呼びかけた。

「えーではみなさん。準備もあらかた終わったようですね。ここで先生から少し。言うまでもなく、今日は待ちに待った交流会です。オーディションで役を勝ち取った人、自分に、そして競った仲間に恥ずかしくない演技をしてください。もちろん裏方もです。順位はつきませんが他校を驚かせるような演技をしてやりましょう!」

 先生から激励の言葉が送られる。続けて「染谷そめたにさん、部長からもお願いします」と部長に言葉を求めた。

 先生の求めを頷くことで了承した部長が前に立つ。

「進級したみんながまず目標にしたのがここの舞台だろう。ここのために日々鍛錬を積み上げてきたはずだ。積み上げたそれを今日、全力でぶつけてこい。裏方がしっかりと支えてやるから演者は伸び伸びと自分らしく演じろ。それと一年にとっては初舞台になる。先輩の姿から学ぶのも忘れるな。二、三年は一年を引っ張って行け。以上だ」

「移動してくださーい」という運営のアナウンスを聞くと、みんなわらわらと移動の準備を始めた。

「くるみ先輩!」

 自分を呼ぶ声が聞こえる。きっと着替えのため先程から別行動していた凛だろう。私の着ているドレスは思いのほか早く着付けが終わったため先に出ていた。柔らかい布地にフリルとレースがふんだんに縫われたドレスだが、過去に何度か使われたようで、漂うお下がり感は否めない。

 凛のも使い古しだっけ。

 私は呼ばれた方へ裾を翻すと、予想を裏切られ目を丸くした。

 そこに立っていたのはパリッとした正装に身を包んだ凛だった。下は凛のスタイルによく合うスラッと伸びたタイトな白いパンツと黒い長ブーツ。上は青を基調としたフロックコートでカフスや縁など、ところどころに金糸の装飾があしらわれており、中世の匂いを漂わせている。締まった襟より上の髪型はいつもと違いボーイッシュに仕上がっている。そして一番目を引くのが左肩から靡かせるマント、近衛の証だろう。ダークブルーの生地に精緻で壮大な刺繍が己の正当な居場所を主張している。

 か、か、カッコいい……

 今にも颯爽と馬に跨り、駆けていってもおかしくない。そしてできるなら私もその後ろに乗って、風と凛を感じたい。

「すごいじゃん、凛! カッコいい! どうしたのこれ⁉︎」

 興奮する私を見て凛は照れたように微笑んだ。

 前にも数回、衣装を着ての練習はしており、凛の正装も目にしていた。しかしそのときには金糸の飾りやマントは無かったはずで、もっとくたびれていたきがする。もしかして新しく買ったのだろうか。

「ふふふ、これは買ったんじゃないぞ〜」

 チッチッチッと千紗が表れ、後ろから凛の肩を掴んだ。

 こいつッ……私の心の中を読んで⁉︎ てか、私の凛だぞ、離れなさい。

 だが千紗は身長が低いため凛の肩越しから顔を出せない。仕方なく、渋々横からその童顔を見せてきた。

「こいつは私が手掛けたんだぞ。マントも手作りでコートの装飾もお手製だ」

「え、ホント⁉︎ だってこれすごい細かいよ⁉︎」

 私は思わず手にとって肌触りを確かめる。綻び一つなく、整っている。古着の姿は見る影もない。

「お店で並んでもおかしくないくらいですよね! くるみ先輩!」

 確かにその通りだ。どこかの衣装のお店に卸せば、一万、二万はくだらないだろう。

「ふっ私、衣装関係もできちゃうんです。えっへん」

 口々に褒められて喜色満面。

「たまにはいい仕事するもんだね」

「おいおい、『いつも』の間違いじゃないかい? 私は君達が合法的に公衆の面前でイチャコラできるよう、ここ数日は被服部にずっと入り浸っていてね——」

「ほう、だから最近見かけなかったのか」

「そうそ……え?」

 あ。

 凛の後ろの千紗の更に後ろ、その強大な影は静かにけれども確かに佇《たたずんでいた。

「どこにいるかと結構探したのだが、まさか被服部とはな」

「あー染谷先輩……?」

 千紗はギギギと今にも軋んだ音を鳴らすように振り向いた。

「連絡も入れたはずだったんたが」

 声だけで人を殺せそうなドスの効いた声。近衛の凛もこれには堪らずそそくさとこちらに避難してきた。

 流血沙汰になったらどうしよ。衣装は汚したくないな。

「え、いや、みんながいるから大丈夫かな〜と」

「返信は?」

「いや〜ちょっと今月のギガがですね〜」

 今月のギガってまだ五月半ばだぞ。何に無駄使いしたらそうなるんだ。今流行りのアプリ『平野運動』でもやってんのか。

「ギガは何に?」

「……『平野運動』です」

 やってんのかよ。

「……歯ぁ食い縛れ」

「……はい」

 告げられた死の宣告に千紗は覚悟を決めたようだ。脚を開き、首を据え衝撃に備える。

「くるみ先輩」

「仕方ないよ。諦めよう」

 この空気に耐え切れず凛が私に助けを求めるが私にもどうしようもできない。せめて遺体は静かに葬ってやろう。『平野運動』グッズも一緒に火葬だ。

 そうして誰もが息を呑む中、染谷部長の制裁が突き刺さったのだった。

 

 デコピンの制裁が。

 

「全く、お前の言う通り、お前が指導した一年はよく働くよ。正直驚きだ」

 染谷先輩は苦笑まじりにそう言った。

「あいつらはもっと成長するだろうな」

「いつつっ、将来有望ですよね!」

 染谷先輩の圧力が消えた途端、デコを押さえながらも千紗はいつもの雰囲気に戻った。

「それにその作った衣装もかなり上出来で目を見張るものがある。乙坂も喜んでいるようだし今回はお咎めなしだ。ただ、連絡は忘れるなといつも言ってるだろ」

「はい、すんません」

 さっきの険悪な空気はどこへやら。凛は状況がうまく飲み込めていないようだ。

桜木さくらぎ乙坂おとさか

「「はい」」

「こいつが丹精込めて作ったんだ。それに見合う演技をしてこないとこいつがどうなるか分かっているな」

「ええぇっ⁉︎ 私が⁉︎」

 先輩が大きな手で千紗の頭をガッシと掴む。脅しのような言葉とは裏腹に染谷先輩と凛は共に笑みを浮かべていた。

 それから数回言葉を交わした後、凛が「そいじゃ頑張ってね」と励ましを残し、二人は搬出作業に向かった。

「なんか平和? ですね」

「凛は見るの初めてだよね。時々ああやってじゃれるっていうのか分かんないけど、やってるんだ」

「本当に怒ってるものだと思ってました。殺されるかと思いましたし、てかくるみ先輩も軽すぎでしょ」

「結構見てきたからね」

「むーでもあの染谷先輩がですか。なんか意外ですねー」

「んーいろいろ考えると、あの二人ってお似合いなのかもね」

 女同士でイチャイチャしてる自分がいるのだから、千紗と先輩がその線というのも十分あり得る。先程の様子、特に『それに見合う演技を』云々の言葉は心から千紗を信頼してるからこそ出る言葉だろう。

 一つの荷物を協力して運んでいる二人を見やる。歩幅が大きく違う二人。けれどその後ろ姿からははっきりとした繋がりが見えた気がしてなんだか愛おしい気持ちになった。

 開演まで十五分を切ったところで私達も渡り廊下から体育館に入った。あまり邪魔にならないよう、袖から緞帳どんちょうに隠れた舞台を見ると、裏方組が忙しなく動いていた。否応無しにもうすぐ本番という緊張が私を圧迫してくる。ただこの緊張が適度なアドレナリンを促し、より良い演技ができるので、消し去るというわけにもいかない。難儀なものだ。

 それにしても……

「んー」

「どうかしたんですか?」

「いやね、どうせだったら私の衣装も補修して欲しかったなぁって」

 裾をひらひらと振り、ぼやく。それに合わせてラメが輝きを振りまいた。

「千紗先輩でも二着は難しかったんですよ」

「それは分かってるけど」

 凛のと見比べれば、見比べるほど、口を尖らせずにはいられない。

「その……これじゃ凛に釣り合わないんじゃないかって思えてさ」

 それが気掛かりで仕方がないのだ。仮にも演じるのは一国の王女だ。演技がうまくできても華やかでなければ違和感があるのではないだろうか。周りは誤差の範囲だと言っていたが、実際に着ている身としては気になってしまう。

「なんだそんなことですか」

「そんなことって」

「先輩は素が綺麗ですから大丈夫ですよ。服装が足りなくても自身でカバーできます」

 凛は笑顔を浮かべて平然と言ってきた。

「え、ぁ、ありがと……」

 あまりにもナチュラルに告げられたお褒めの言葉に対応できず頬を赤く染めてしまった。お世辞で言ったという様子もない。

「もっと自分に自信を持ってください」

 ……なんか悔しい。

 凛は特別なことはしていないといった澄まし顔で動き回る人を見ている。なのに私は一方的に赤くされたのがなんだか腑に落ちないで悶々としている。

 私だけ照れて、これじゃまるで後輩にマウントを取られているようではないか。いつもは自分から明け渡しているが。

 しかしプライベートとは違い、今の私は先輩、これでは納得がいかない。凛も同じく赤くしてやりたいと対抗心とも呼べる何かが私を煽り立ててきた。

 そこでふと思い出す。それは確かオーディションのときのこと。

 ——でもそのスイッチが入るまでがいっつも本当に大変なんです。心臓バクバクで——

 オーディション終わりの会話で凛は確かにそう言っていたはずだ。これから親密になろうというときの会話だ。よく覚えている。

 だったらやることは一つしかないよね。

 次の行動を決定したところで所在無さげに目を動かす凛の正面に立った。

「自信を持つ……それは凛にも言えることじゃないの?」

「……?」

「えいっ!」

 掛け声ともに凛をしっかりと抱き寄せた。私の持ってる全ての優しさを注ぐ。

「せ、先輩⁉︎」

 聴こえる。

 ドクンドクンドクン。

 凛の胸の中から響く一定のリズム。命を絶やさないために必要な生命の音だ。

「やっぱりね。凛、緊張してる」

 凛のリズムは私が響かせているそれより明らかに速い。

「……気づかれちゃいましたか」

「……うん」

「高校の初舞台で主演って考えだすといつもよりもひどく緊張しちゃって。ここに来て急に」

「それが普通だよ。私を頼って。支えてあげるから」

 それを聞くと凛は安心したようにそっと顎を私の左肩に乗せてきた。こうしていると胸の鼓動が共鳴して、一つになってしまいそうだ。私が送った血流が凛に届き、凛の血流が私に流れる錯覚。

 周りに喧騒が広がっていても私達の音は決して掻き消されない。今はつかの間二人の時間を噛みしめる。

「ほら深呼吸」

 いつかのときと同じようにポンポンと叩いて促す。

 ゆっくりと耳元で感じる深い深い息吹。これは私にもリラックス効果大だ。

 あぁなんか、キスしたい。

 彼女の唇はすぐ横にある。ちょーとずれればすぐにでも……

 ダメダメ、何考えてんの私。みんなの前で。

 これでは凛が落ち着いても今度は私が落ち着かなくなる。お楽しみのキスは後にとっておこう。

 そうして数分抱きしめ、凛の緊張が解けたころ、彼女は今更思い出したように言ってきた。

「ていうか先輩、こういうのは本来なら私の仕事ですよ……」

 最後の方は私の肩に口を押し当てたようで、言葉がくぐもってしまった。押し当てられた所が吐息で少し温まる。

 お、これは照れてるのか?

「私がお姉ちゃんなんですからね……」

 ぎゅっと背中に手を回してくる。心なしかいつもより腕のかける力が強い。

 これは照れてる。

 見ることはできないが凛のことだ、きっと頬も赤く染めてるに違いない。これは仕返し成功。心の中でガッツポーズ。

「でもここでは私が先輩だよ、お姉ちゃん」

「……先輩、バカにしてるでしょ」

「痛ててっ」

 凛は不貞腐れた声で私の右のほっぺをつねってきた。柔らかい痛みが丁度心地よい。

「では板付きさんは入ってくださーい」

 開幕時に初めから舞台に立っている演者、俗に言う板付きを誘導する声が後ろの方から聞こえてきた。私達はそれではないが、板付きの誘導が始まったということはもう開幕するぞという合図だ。

「じゃ行こうか」

 私は小さく呟いた。しかし凛はなかなか離れようとしない。それどころか私のドレスをむぎゅっと握ってきた。

「凛?」

 いやいやと首を振る。

 まだこうしていたいと? かわええ。

 平時ならいくらでもこうしていても構わない。寧ろ私がこうしていたい。しかし悲しいかな、今は本番間近でコールもかかっている。心苦しいがなんとかせねば。

「凛お姉ちゃん?」

 そこでいつもとは違う呼び方で揺さぶりをかけてみる。というかこの呼び方は初めてのはず。

 ふっ、妹にゾッコンお姉ちゃんか。

 そう呼ばれれば凛も無視はできないようで私の肩から離れ、ほんのり上気した顔で私を見る。

「うーそれを言うのはずるいんじゃないですか? さっき言ってることと違います、くるみせ・ん・ぱ・い!」

 凛はムッとして『先輩』を主張するように強調した。そうすると思いがけない行動に出た。柔肌が視界いっぱいに広がる。凛が互いの吐息がかかる間合いに詰めてきたと気づく。

 え、キス⁉︎ と驚くが、それを言わせぬように目を閉じて躊躇なく触れた。

 

 唇ではなく、鼻頭と鼻頭をくっつけるキスだった。

 

 鼻キスとでも言うのだろうか。触れ合ったのは一瞬で、すぐに凛は離れたが、口とは違う官能が焼きつく。口でするのは熱情的な酔いしれるキスだとするなら、今のは相手の信頼を確かめ合うようなそんなキスだった。

 思わず手で自分の鼻をさすって、まだ自分の鼻に残る凛の体温を探した。

 惚けた私を見て、凛はしてやったりといった微笑みを浮かべる。いつのまにか始まったこの相手を萌えさせる勝負、どうやら私の負けのようだ。

 皆の前でこんなことできちゃうなんて、私達バカップルみたいだな。

 苦笑しながらそう思う。

 駅前でよく見かけるカップル達。彼らも今の私と同じ幸せを味わっているのだろう。そう考えるとどこでも共にくっついていたいのも共感できる気がした。

 私もあっちの仲間入りか。

「さてと、では先輩」

 けれどもそこで何か引っかかるのを感じた。あっちの仲間入りと言っても大切なもの、当然あるべきものを忘れている気がする。その正体を掴もうと手を伸ばすがするりと逃げてしまい悶々とする。

 何だろうこの感じ。

「行きましょ」

 カップル……?

 そこではたと気付く。

 

 私達って……カップルだっけ?

 

 いや、常日頃していることを見ればカップルだろう。それもバカが付くくらいの。けれどあることを忘れている。カップルになる儀式、即ち告白が終わってないのだ。

「どうかしました?」

 凛に計らずとも視線が吸い込まれる。

 私を抱き締めてくれた忘れられないあの日、凛は確かに告白しようとしてくれていた。それを私が遮ったために、最後まで愛の言葉を聞けず、私も返事をしないでうやむやになってしまっていた。

 私と凛はとんでもないことを見逃していたようだ。告白のエピソードが無いカップルなんて寂しすぎる。

 だったら……

「ううん、何でもないよ」

 私は凛に高く手を掲げた。

 凛は私の望むことをすぐに察して手を掲げる。

「じゃあ、最高の演劇にしてきましょっ!」

「りょーかいっ!」

 二人の手のひらが勢いよくぶつかり、破裂に似た結束の音を鳴らした。

 だったら、この舞台を完璧に成功させて、改めて私から告白しよう。そうして正式な恋人、凛の彼女になって凛を彼女にするのだ。初舞台の成功に合わせた告白、演劇好きの私達にはぴったりじゃないか。

 その決意を抱いて、準備を終えたとき、開幕を知らせる高らかなブザーが体育館を駆け巡った。

 

 

 

 教育委員会の役員やオブサーバーらが最前席に座り、その後ろに多くの生徒や先生がパイプ椅子に座っていた。誰かのひそひそ声や椅子の軋む音が妙に大きく伝播してしまう。唯一見えるのは最前席の手元用ライトと鈍い緑色の緊急避難灯の微弱な光だけ。そんな空間だ。

 多くの観客が固唾を呑んで見守るなか、ステージを隠していた緞帳が上がる布擦れの音が人々の耳に届く。静寂と暗闇が跋扈ばっこする体育館。静寂を打ち破ったのは男性のナレーションだった。

 ナレーションによるとこの劇で描かれるのはラグーテと呼ばれる小国らしい。彼の国は内陸国で東の国ザットとの戦時下にあるようだ。ラグーテの第二王女アルミリアは幼馴染のレオンを近衛兵として王宮で不自由ない生活をしていた。ある日の午後、南の大国カレスとの会談を終えたラグーテ国王が王の間に帰還したところから物語が始まる。

 バチンという音と共に地明じあかりが灯され館内唯一の強い光源として、光を振りまいた。直に照らされるステージの上、そこには豪華絢爛ごうかけんらんな衣に身を包んだ男が玉座に座っていた。豊かな髭を蓄えた男がそのいかにも重そうな口を開く。

「アルミリアを呼べい」

 地を這うような低い声は側近をすぐに動かす。そうして上手かみてからドレスを纏った美しい女性がカツカツと現れた。男と同じように煌びやかな装飾をつけ、その背後には正装姿の近衛兵を従えている。

「ご無事で何よりです、父上」

 アルミリアと呼ばれた女性が己の胸に手を当てうやうやしく跪いた。

「お前も知っておろうが、今我が国は隣国ザットとの長きに渡る戦争で疲弊しきっている。このままでは王家のお前にも厳しい生活を強いることになろう」

「国のためなら何を強いられてもどうということはありません」

「頼もしい言葉だ……その言葉信じさせてもらうぞ」

「……と仰りますと?」

「カレスとの会談の結果、ついに彼の王は我が国へ物質的・軍事的な協力をしてくれると約束してくれた」

「……どういった条件ででしょうか?」

 本来なら諸手もろてを挙げて喜ぶ知らせだがアルミリアはその裏を邪推する。その様子からは賢明さがうかがえた。

「それなのだがな、お前にはカレスへと嫁いでもらう。今月中だ」

「嫁ぐ⁉︎ それもそんな急に⁉︎」

 予想を遥かに上回る条件だったようでアルミリアは立ち上がり驚愕を露わにした。

「カレスは極悪非道な政略を行うと聞いております! そこへ嫁ぐなど私は人質当然ではありませんか⁉︎ それにこの前まで父上は結婚に関して意思を尊重すると——」

「状況が変わったのだ! こうするしかない、話は終わりだ」

「そんな⁉︎」

 アルミリアの全身で表す主張は重い言葉で一蹴されてしまった。

「レオン、その日まで此奴こやつを頼むぞ」

「み、御心の、ままに……」

 レオンの戸惑いが残響するなか舞台は暗転した。

 やがてスポットライトが灯り、ステージ上にこしらえられたアルミリアの部屋が観衆の目に触れる。天蓋とレースに覆われたベッドに座り、一人照らされるアルミリアは独白を始めた。

「レオン、あなたは私が行ってしまってもいいの? 私は父が自由な結婚を約束してくれたとき、あなたとの愛を願ったのに。あなたも私と同じように思ったのではなくて? 言葉にせずとも私達は分かり合えていると思っているわ。だから、お願い。何か言って。じゃないと私——」

 独白の後には親友との相談や結婚を祝うパーティーでの騒動、そしてレオンへ泣きついたことなどもあったがどれも結婚の取り消しには至らなかった。

 そうして場面は結婚式へと移り変わる。

 アルミリアの隣には本来望むレオンではなく、丸々と肥え太ったカレスの王子が立っていた。粛々と進む結婚式。しかし俯いたアルミリアの瞳には何も映っていない。瞳など最初から無く、二つの眼窩がんかだけがぽっかりとあるようだ。細腕をしっかり組んで離さない王子の太腕は鎖のようにしか見えない。

 聖書を読む神父も長椅子に腰掛ける両国の重鎮も、もちろん隣の醜い男も、そんなアルミリアを気遣う者など一人もいなかった。綺麗事を並べ立てる神父が誓いの言葉を促した。王子は躊躇無くそれを口にする。

「あぁ、私もここまでね」 

 アルミリアが諦めの心情をこぼし、生ける屍になろうと心を決めたとき。

「彼女を離したまえ!」

 スポットライトに照らされながらレオンが下手しもてから駆けてきた。そのまま腰から提げた剣を引き抜き王子に向ける。

「カレスの王子よ、その手を離せっ!」

「だ、誰だお前は⁉︎ 警備兵! 警備兵ぇーっ!」

「王女よ、暫しお待ちを」

「レオン⁉︎」

 ドタドタと両国の警備兵が数名、レオンを取り囲むように剣を抜く。

 沈黙の攻防。相手は式の警護を任された精鋭。数秒見合った後、警備兵が勢いよく斬りかかった。レオンはそれを物ともせず、ひらりと躱し、相手の剣を打ち払う。甲高い音が響き渡り、警備兵の剣は遠くに弾き落とされてしまった。

「何っ⁉︎」

 その兵は一瞬動揺を見せたものの、素早く腰から代わりのダガーを引き抜く。

 レオンと兵達の大立ち回り。兇刃きょうじんに掛けようと襲いかかってくる兵をレオンは不殺のスタンスで構える。振るわれる剣をいなし、柄と体術で相手を地に伏せる。

 しかしそこを弱点と見た兵は浅いものながら、いくつかの傷をじわじわと負わせていく。

「くっ、この程度、怪我のうちに入らん!」

 己に喝を入れながら得物を構え、再び剣舞に臨むレオン。そうして数分後、倒れる音を最後に舞台は静まり返る。本物の果たし合いかと見紛うばかりの戦いを終え、最後に立っていたのは近衛であるレオンただ一人だった。

 レオンは王子に歩み寄り、首元にその切先きっさきを突きつけた。

「彼女を離せ」

「ひいぃっ」

 悪鬼羅刹あっきらせつが宿ったかのように吐き捨てた言葉は王子を震え上がらせるには十分すぎるものだった。王子は情けなく転がるように舞台袖へと消えて行った。

「レオン……!」

「遅れのほどお許しください」

「そんなの、許すに決まっているでしょう」

「有難き幸せ。では、行きましょう!」

「はい!」

 二人は追手から遠く逃れるために駆けたところで舞台は暗転した。

 またぞろ館内を静と黒が支配する。だが開幕前と違い、些細な音が大きく聞こえるということは無かった。誰もが息を呑んで、身動みじろぎ一つせずに世界観にのめり込んでいたからだ。ひょうきんな男子生徒も笑い声が大きい女子生徒もだ。

 彼女らの演技には観客にそうさせるほどのリアリティと引き込む力があり、ほぼ全ての人を捕らえて離さないのだった。人々が今か今かと静かに明転を待つ。

 

 最前列の端で舟を漕ぐたった一人を除いて。

 

 ホリゾント幕に薄暗い緑が映された。どうやらレオンとアルミリアは森へ逃げ込んだらしい。

 二人は息も絶え絶えに袖から姿を現した。

「はぁ……はぁ……」

「こ、ここまで来れば、大丈夫じゃないでしょうか……」

 膝に手を置くことで体を支え、呼吸をいち早く整えようとする。かなり体力を消耗したようだ。

「はぁ、そうですね。あそこの木の陰で、休憩を取ることにしましょう。どうぞ、お手を」

「……はぁ、ありがとう」

 二人は大樹の根本にふらつきながらももたれかかる。活力みなぎるような草木が彼女らをその懐へ隠した。

「アルミリア様……」

「何でしょう……」

「この先さらなる追手が迫ってくるでしょう。そのとき私はこの命に代えても貴女をお守り致します」

 レオンは王女の前に跪き胸に手を当て頭を垂れた。先程負った傷と疲労のせいだろう、口から出る言葉は内容とは対照的に弱々しい。

「しかしながら貴女もご存知の通り敵は我が国の精鋭。数も察する通りです。それらに相見えた際、私は彼等の刃に斃れるやもしれません。それ故……」

「レオン!」 

 そのとき空気を震わせる凛とした声がこだました。

「貴方はそんな弱気な考えをずっと持っていたのですか⁉︎ 私と添い遂げると、私と共に天寿を全うすると言ったのは誰です⁉︎ 貴方でしょう⁉︎ こんなところで地に伏すなど私は決して許しません!」

 アルミリアの声が矢として射られ、レオンの胸、観客の胸までをも貫く。

「生きなさい。何としても…生きて……でないと、私は……」 

「アルミリアっ!」

 感情が昂りすぎた王女は涙ながらに顔を抑え、膝を折ってしまった。レオンが素早くその背中を抑え、抱き留める。同時にホリゾントライトが落とされ、代わりに一台のサスペンションライトが真上から光を注ぎだす。

「すまない、アルミリア。お前を不安にさせてしまった……」 

 自分の発言に後悔を感じたレオンは腕の中の瞳を見つめながら謝罪した。

「分かれば、良いのです……」

「さっきの私はどうかしていたのだろう。このアルミリアを想う気持ちがあれば死にはしないよ」

 レオンは泣きじゃくるアルミリアの後頭部をそっと支え、顔を一つ彼女に近づけた。

「しかしアルミリア、私はこの気持ちを今、どうしても伝えたい。これが最後にならないことを固く約束する。そしてアルミリア、よければお前からも想いを聞きたい……」

「……」

「貴女を心から愛しております。この愛、貴女と神に誓いましょう、アルミリア」

 視線を絡ませ合う二人。

 彼女らは暗闇に咲く一輪の花だった。まるで洞窟の奥底で、隙間からの陽光を浴び輝く一輪の花。観客も一様に目が離せず、アルミリアの返事を待った。

 数秒の沈黙の後、彼女は一つ一つの言葉を噛みしめるように紡ぐ。

「あなたの想い、しかと受け止めました。その誇り高き騎士の言葉、私も王女としてでは無く、一人の女性としてその気持ちに答えましょう。私もあなたを愛しているわ、レオン」 

 その言葉を理解したレオンは幸せそうに喜びを頬に浮かべる。彼女もそれにつられて口角を上げた。

 心が結ばれた二人は体も一つに結ぼうとしている。

 レオンは手の上の彼女の頭を据えるとゆっくりと唇を近づけ始めた。

 

 それは空気をばらばらに砕くけたたましい音が人々の間を走り抜けるのと同時だった。

 

 

 

「私もあなたを愛しているわ、レオン」

 アルミリアとして恋人レオンに愛を誓う。しかしそこには桜木くるみとしての凛に対する愛も少し含んでいた。

 いつ見ても惹かれる凛の顔だが、今日はどんなときよりも輝いて見える。

 この世界一綺麗な女優をすぐそばで見上げられる、こんな特等席は他に無いな。

 凛は私を見据え微笑んだ。私も答えるように笑みを返した。

 そしてクライマックス。

 凛が徐々に私に近づいてくる。

 だがしかし。

 それを切り裂くようにあまりにも騒がしい音が鳴り響いた。何かが倒れるような音と金属が崩れるような音が同時に。それは皆が保ってきた静の下地に対しては鮮明すぎる音だった。

 観客席がどよめき、凛も音に目を向けることさえしないが、動きを止めてしまう。私達にはまだはっきりとした隙間がある。これでは演技としてキスには見られないだろう。このままではまずい。凛が隠し切れない不安げな表情を面に出す。

 そのとき私は知覚した。

 数多ある観衆の注目の方向を知る。

 観客席の全員、審査員も生徒もそして同じ演劇部の仲間達も皆総じて音の発生源に目を向けていた。音が何たるかを知りたい彼らの中にこちらを注目する目、見られる感覚は無い。長年の演劇で培ってきた、特技とも言える鋭敏な神経がはっきりと教えてくれた。

 この騒動の原因もだいたい目星は付いている。演技を中断するほど緊急事態でもない。

 

 だから、私は己に従って動いた。

 

 私から首を突き出し凛の唇を奪う。

「……!」

 数日ぶりに味わう凛の唇。前と比べれば随分と浅い口づけだが、この幸福感は全く衰えを見せない。それどころか身に付けている衣装による没入感と人目を盗んでの口付けという倒錯感が脊髄を痺れさせ、より高揚してしまう。

 驚いていた凛も落ち着きを取り戻し、向こうからも加圧してくれた。それが嬉しくて胸がじんわりと熟れる。私は束の間の水面に揺蕩たゆたうような夢心地に身を任せた。

 凛、大好き……

 ゆっくり、どちらからともなく唇を離した。実際にキスをしていたのはほんの数秒だったが、私にはとても長いものに感じられた。唇を重ねていたときだけ、時間の流れが止まったいたような気さえする。

 会場からはざわめきが引き始め、それに反比例して私達に注目が集まりだす。

 視界の隅にぺこぺこと周囲に頭を下げるスーツの男性が映る。はた迷惑な音の原因、居眠りのあまり椅子ごと倒れてしまった男性だ。赤べこのようにうつらうつらする姿は演技中でも目立ち、ひどく滑稽だった。

 ふん、私達の演技中に居眠りなんて、とっても損してるよ。

 胸中でほくそ笑みながら思う。だが彼がいなかったら、キスはできなかったわけで、多少は感謝しなければならない。関係者の身分であると考えればけしからんが。

 とりあえずあとは凛に手を引かれて、下手しもてに消えて行くだけだ。特別難しいことはない。抱えられた状態から解放してもらうべく凛にアイコンタクトを送る。すると凛は動いたか動かないかぐらいの私だけに見える頷きで答えてくれた。

 よし、これで劇は大成功——

 突如突き飛ばされたような衝撃が背後から私を襲う。抗う暇もなく衝撃に流されて凛にもたれかかる。

 いつも吸っている大好きで大切な人の香りがした。

 突き飛ばされたわけではなく、思いっきり抱き寄せられた、と気づいたのは私の顔が凛の肩に、彼女の手によって押しつけられたときだった。

 ちょっと痛いくらいの力で絡みつくつたのように強く、強く抱き締められる。けどこの痛さは凛の愛情の大きさと私は知っているから、全然苦ではなかった。

 凛が私だけのためにそっと囁いた。

「先輩、大好き」

「私も」

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