第四幕
灰色の空の下、浅い水溜りのその上には次々と波紋が描かれていく。浮かんでは消えるの繰り返しはどこか琴線に触れなくもないが、今の私はそのキャンバスを容赦なく踏み抜いた。
昨晩に天気予報士が見事に天気を的中させてから雨が今朝までずっと続いている。別段勢いが強いわけではないのだが、やはり濡れてしまうのは気がいいものではない。
洗濯物も乾きづらいしなぁ。
家事をやる身としては週末に干しきれないのは結構な痛手なのだ。しかも湿度が上がるといたるところにカビが生える。一度だけカビのコロニー発生を許してしまったが、あれはマジでグロいので二度と見たくない。
おじさん達にねだって除湿機買ってもらおうかな。衣類乾燥機能つきのやつ。
「はぁ〜〜」
しかし足元を濡らしていく雨も、なかなか乾かない洗濯物も今の私には些末事に過ぎない。
今日はちゃんとできますように。
胸中では演劇ができるかどうかの心配だけがぐるぐると渦巻いている。一応、昨晩に一人で自主練はしたのだ。そのときは問題なくこなすことができていたので、あの調子でやれば昨日の名誉挽回もできるはず。
まぁ昨日だって事前に練習はちゃんとしてたはずなんだけどね。
「おっは〜」
「うーす」
途中で後ろから小ぶりな折り畳み傘を広げた
「どうすか〜調子は」
「依然変化無しね」
「ふ〜ん、そっか。でもあんま顔に出しすぎんなよ。昨日言った通りあんたは主役なんだから周りにも影響出ちゃうからな」
「そうプレッシャーかけられると顔に出ちゃうかもしんないよ?」
「えーじゃあなんて言えばいいんだろ……うむむむ……まぁ頑張れ?」
「ふふっ、ありがと」
割と真剣に言葉を選ぶ千紗がなんだか面白かった。それのおかげで心も少し柔らかくなった気がするので、ありがたいと思える。
これも千紗の計算通りだったりして。
「で、で、でだよ。昨日は?」
千紗は私の口元に握り拳を出してきた。多分エアマイクのつもりだろう。
「ん? デデデ大王?」
「違うわ、昨日だよ。昨日あの後どうだったの、
「どうって言われても。別に何も」
「本当に何にも?」
「うん」
「む〜でも彼女の性格を考えればそうか……」
凛に関しては本当に何もなかったので嘘ではないだろう。
昨日の光景を
今思うとやっぱり迷惑だったかもしれない。あのときは喉まで来た言葉を止めることができなかったが、まだ知り合って間も無い人のデリケートな話を聞かされる身は
これで気まずくなったら嫌だしなぁ。私の方からちょっと明るく接するべきかな。
余計な気遣いとかで後輩と友達になれるチャンスをふいにしたくはない。あれは一時の気の迷いだったのだ。千紗に告げた通り昨日は何も無くて、私はいつもと同じの
校門をくぐり、私達は演劇部の別棟に向かう。傘に音を鳴らす雨足は依然変わらない。私は雨が防げる屋根の下に入ると傘をバッサバッサと開いたり閉じたり。傘に付いた水滴が弾け飛んでいく。
「ふぅ〜ちぃと濡れちまったなぁ」
千紗は折り畳み傘を閉じると上下に降り始めた。
「あれ、どこかの
「悪霊退散、悪霊退散、困ったときは〜ってんなわけあるかい」
見事なノリツッコミだ。というかその歌知ってる高校生もなかなかいないだろう。
「神主さんのあの白いはたきみたいなやつ、
「へぇ〜、どうでもよ。ね、タオル貸して」
「はいよ」
「あざす」
中に入るともう結構な人数が集まっていた。各々が自分の練習を始めている。
「おーみんな土曜なのにご苦労なこった」と千紗が腰に手を当てると、
「当たり前だろ、というかお前はどういう立場でものを言っているんだ」
後ろから張りの効いた言葉が掛けられた。
「うっ、部長」
振り返ると
「偉そうにしてないで早く準備手伝え」
そう言うと奥に行ってしまう。カバンを持っていないということは少し外に出ていただけだろう。
「じゃまた後でね」
「はーい」
それに続いて千紗もパタパタと駆けてしまった。
さてと私も準備するか〜あれ?
ほとんどの部員が仲良し同士で練習し合っている。部屋を端から端まで見渡すとその点在するグループを避けるように隅っこの椅子に一人で腰掛ける少女の姿がある。見るからに取り残された感が漂っていて、表情は
「
少女に呼び掛けるとパッと顔を上げ、一瞬子犬のような目を向けるが、すぐに微妙な色に塗り替えられる。
「お、おはようございます」
凛はぎこちなく挨拶を返してくれた。その動きからはギッ、ギッっと錆びた駆動音が聞こえそうなほどだ。
あーこれは気にしてるわ、多分。絶対。
しかしここで私も微妙な雰囲気を出せば空気は最悪になってしまうのは必至だ。私が場を進めねばならない。そのためにも丁度いい話のタネを先程見つけたので、ここで一石投じることにする。
「ねね、凛ってさ」
「な、なんですか?」
「友達いないの?」
「うぅっ……!」
途端にお腹にストレートを食らったような声で
今もそうだが思い返してみても、凛が誰かと共にいるのを目撃したことがないのだ。演劇部で活動してもう数週間、もうどこかの仲良しグループの一員でも良いと思うのだが。
「今その話します?」
額にしわを寄せて私を見上げる。
「んーちょっと気になったから」
「はぁ……前にも言った通り私、本当に人見知りなんです。今こうして先輩と話せてるだけでも今までからは信じられない奇跡なんですよ」
「でも今はもう顔も苗字くらいも分かるでしょ? 同級生の」
「そうですけど……気づいたらもうグループが出来てて、今からそれに入るのもなんか難しいですし……」
「まぁ何かしらスゴい人って人気になるか、近寄られないかハッキリするからねぇ」
あまりに卓越した才能を持つ者や不思議なことができる超能力者が畏敬の念から避けられるように、凛もそうなのかもしれない。歴史的に見てもそういう不運な人は結構いる。知らんけども。
凛の場合は社交的じゃない性格がそれを増長させてるっぽいけどね。
「ていうか先輩! こういうナイーブな話は普通はあんまりするもんじゃないですからね!」
そう言うとぷくっと頰を膨らませて私に詰め寄ってきた。こんなことを今思うべきではないが、可愛らしい顔だ。
ほっぺぷにってしちゃおっかな。
「そ、そう? なんかごめんね」
私は慌てて手を合わせる。可愛らしいその顔が自分の目線より少し上にあるのが残念でもあり悔しくもあるのだが。
「ま、いいですけど」
凛に関わらずこの手の話題は以後気をつけよう。
「でも本当に友達つくったほうがいいんじゃない?」
部活の運営的に言わせてもらうとやはり同学年で繋がりは持っていて欲しい。何かの連絡があった場合にうまく
「えぇ別にいいですよ……中学のときもこんな感じでしたし。連絡も一応グループLINEはありますし」
そう言うと軽い溜め息をついた。
声に出さずとも私のさっきの心配事はあらかじめ対策済みのようだ。さす凛。
でも『分かりました』『了解です』くらいしか送ってないんだろうなぁ。
「それに……私には、くるみ先輩がいますし……」
「ん? 何て?」
「な、何でもないでーす」
斜め下に視線を落とした凛の言葉はゴニョゴニョで小さかったため、聞き逃してしまった。
凛の声はキレイだけど小さいから、ちゃんと聞いていないと通り過ぎて行っちゃう。演じてるときくらいで喋れば耳にもよく入るんだけどな。てか何で顔がやけに赤くなってるんだろ。
「それよりも調子はどうなんですか? 演技の」
「んーぼちぼちかな。でも絶対今日は迷惑かけないよう、頑張るからさ!」
そう言うと私は胸の前で『ぞいの構え』をつくる。
張り切る私を見て、それなら良かったです、と凛は嬉しそうに笑ってくれたが、正直なところ私の中には暗雲が立ちこめている。いくら振り払っても消える事はない。それでも虚勢を張ったのはやはり先輩としての立場は守る必要があるからだ。
これ以上弱いところは見せられない。有言実行、失敗は許されない。暗雲で何も見えないのなら最初から目など瞑ってしまえ。
やがて時間が経ち、今日の練習が始まった。皆が自分の持ち場に流れていく。
いくぞ、と背水の陣の心構えで練習に臨む私。
だが、しかし。
「では今日の練習は終了です。お疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね」
先生のその言葉を聞いて口々に、お疲れ様です、と残して出て行く部員達。私は安堵と拍子抜けの思いが入り混じった複雑など心境で見送る。
思えばあらかじめ気づくのは簡単なはずだったが、今日の練習範囲には凛と共に舞台に上がるシーンは無かった。そもそも平常心が保てなくなるのは決まって凛との演技だけなので、今日の私は何ら問題無かった。というわけで開始前の私の多くを占めていた気がかりは杞憂に終わってしまった。運が良いのか悪いのか。皆の前で再び醜態を晒すという最悪のケースを避けられたと思えるが、先延ばしにしたということもあり得る。
んまぁ主演の二人は午後練があるから決意はそのときまで抱いていよう。
「じゃあな、お二人さん頑張って」
「お疲れさん」
「お疲れ様でした」
この後友達とどこか遊びに行くらしい千紗を凛と一緒に見送ってから私たちは昼食を取るため大部屋の一角、テーブルセットに腰掛けた。
「わぁ〜すっごい可愛い!」
凛がシンプルな花柄のお弁当箱を開けると、中から可愛らしくデコレーションされた食材がこんにちはと挨拶をしてくる。珍しく騒がしい声をあげてしまった。
「えへへ、ありがとうございます」
凛は照れくさそうに目を細めた。
「それって手作りだよね? 凛が作ったの?」
「はい、趣味の一つなんです」
趣味というだけあってその出来栄えはかなりのものだ。美味しそうなおかずの数々はキュートな顔が描かれており、野菜などは花びらにカットされている。一つの完成した立体作品のようで箸を入れるのが勿体無いくらいだ。
レタスの草むらから顔を出すタコさんウインナーがめちゃ可愛いなぁ。あの玉子焼きも美味しそう。
「私、小学生の弟と妹がいるんですよ」
私がタコさんウインナーと見つめ合っていると凛は教えてくれた。タコさんの顔から凛の顔に視線を移す。
「その子達に楽しくご飯を食べて欲しいなぁってこういう風に作り始めたんですけど、結構楽しくてですね。自分のもこうなっちゃいました」
「へぇ弟くんと妹ちゃんかー」
「弟が四年生、妹が二年生です」
「子供盛りってときだね」
「二人とも本当に可愛いんですよ。この前なんかも、いつもありがとう、って二人で折り紙のプレゼントくれたんですよ。お花とネコちゃん」
間髪入れずに口を開く。今日の凛はえらく
「でもやんちゃなハプニングも時々あるんですけどね。遊び過ぎて汚しちゃったりとか——」
弟妹について語る凛は心から幸せそうだ。私は一人っ子で上も下もいないけど、聞いているだけで幸せな気分になる。知らない世界なので単純に興味深い。
「でも朝からお弁当作るのって大変だよね。眠いし、フライパンとか油とか使いたくないし。洗い物が嫌でさ」
「ん〜確かに早く起きる必要はありますけど、やっぱり私は作るのが楽しいですし、なにより二人のためですから」
うわぁ、すっごい聖人だ。私なんか朝は片付け面倒だから冷凍食品の詰め合わせなのに。
「先輩はどういうお弁当なんですか?」
海苔アートで飾られたご飯を
早速痛いところを……聖人じゃないかも。
凛に非なんてあるはずもないが勝手な評価を下す。
「私なんか全然だよ。恥ずかしいけど冷食詰めただけだから」
「そんなことないですよ。朝から自分のお弁当の用意ってだけでもしっかりしてると思います」
屈託の無い純粋な顔を向けて言ってくれるが正直複雑な気分。
私が卑屈なだけか。
その後も凛は弟妹達との数々のエピソードに花を咲かせた。運動会での活躍や一緒に作ったハンバーグなどその思い出は多種多様にあり、私を飽きさせることは一度も無かった。もちろんその話が面白いということもあるのだが、凛の新たな一面を知れたことが無性に嬉しく思えた。
私の胸の中のメモ帳、凛の項目に『うっかり』『女優』『コミュ障』に続いて新たなワード『お姉ちゃん』が加わる。
演劇と弟妹にはしっかりしているけど、自分に関しては抜けているって感じかな。う〜んなかなか。
話が一旦落ち着き、それから私達はお互いにあまり進んでいなかった箸を再始動させた。
んーキレイな玉子焼き。
黙々と食べていると、反対側のお弁当箱に自然と目が移ってしまう。それは机上で私の目を奪うアイドルのような華やかさである。思わず自分の手元の冷凍ミニオムレツと見比べる。
全っ然違ぇ。
向こうのはきめ細やかな黄色をベースに程よく茶色と白色が混ざっており、前に何かで見た有名料理店のものを想起させる。これに立ち昇る湯気が加われば見た目はパーフェクトだろう。一方私の方などお察しだ。冷凍食品会社の企業努力には申し訳ないが、比べるのも
「先輩、もしかして……食べたいんですか?」
「え?」
「さっきからずっと見てるじゃないですか、この玉子焼き」
私ってばそんなに
恥ずかしい気持ちが湧いてくる。しかしあの宝石を口にできるというなら是非とも甘えさせてもらおう。絶好の機会だ。
「じゃあ……一個もらおっかな」
「いいですよ」
凛は快く了承してくれた。自分のお弁当箱から玉子焼きをつまんで持ち上げて……
「……」
「……」
あれ? さっき、いいって言ったよね?
何故だか凛は玉子焼きを挟んだまま動かなくなっている。
「えぇと、もらっても……いいんだよね?」
「ええ⁉︎ はい! もちろんですよ⁉︎」
そう驚いた後も少しの間固まっていたが、やがてゆっくりと私に差し出してくれた。
左手で受け皿をつくり、玉子焼きを挟んだ箸を唇の高さで。
「……」
えっと……これは
多分普通に渡そうとするならば直接私のお弁当箱に入れるだろう。しかしこの高さということは……つまりそういうことなのか。
真意を質そうと凛の顔を見るが。
チラッ、チラッ。
顔を横に向け、時折目だけをこっちに動かすのみ。
何か言うか、こっちを向けぇい!
しかし疑問に思うことはあっても、別段断る理由はない。仲良くなるためのスキンシップの一環なのだろう。
私が知らないだけで、案外友達同士は普通なことなのかも。最近の若いピッチピチ高校生はあ〜んくらい、呼吸みたいな感覚でやるくらいフレンドリーなのだきっと。私だって若いが?
とにかくこのままでは私がノリの悪い奴になってしまう。凛の細い腕もぷるぷる震えだして大変そうなので受け入れることにする。
いただきます。
目を閉じて徐々に近づく。
「んっ……」
流石に箸を咥えるのはいけない気がするので、唇で玉子焼きを挟みこむ。そして口の中に招き入れた。
歯で崩す。途端に広がる鰹出汁の風。口の内壁を駆け巡ると、それは鼻から流れて出ていく。それが玉子本来の甘みと絡み合い私の味覚を刺激した。
はふぅ〜〜
玉子焼きといえば味付け次第でおかずにもスイーツにもなり得るが、これは完全に前者だ。あったかい白米によく合いそう。私の短い人生で一番美味しい。
「おいひい〜」
私はキャピキャピJKのように嬉々として賞賛する。
うん、これは若い。ピッチピチだ。
しかしそれに対して凛は肘を膝にピンと突き立てて足元を見つめるばかりで反応はイマイチ薄い。
「いや、お世辞とかじゃなくてね、本当に美味しいよ! 香りとか食感とかね!」
「えぁ……ありがとうございます……」
私が感想を高らかに語ると凛は絞り出すように答えてくれた。
「いやホント。これじゃ弟くん達も幸せだなー」
「……」
「だってこんな美人で優しいお姉ちゃんにこんな絶品お弁当とか面倒見てもらえるんだもんなぁ」
はぁ〜、と羨望の溜め息。
「そ、そんなこと……ないですから……」
プシュゥっと湯気が凛のつむじから立ち昇ったのは気のせいだろうか。
それからの凛もさっきの饒舌な姿とは打って変わり、借りてきた猫のように静かになってしまった。一人騒ぎ立てるのもあれなので、なんとなく私もその空気に合わせ静かに食事を終わらせた。その間に先ほどの『あ〜ん』が何度もフラッシュバックしたのはきっと玉子焼きの美味しさ故だろう。
「ごめんなさい。職員室でちょっと用事が入っちゃったから、自主練しててもらえる?」
昼食を終えた私達のもとにやってきた
教師ってなにかと大変だな。
「多分一時間くらい掛かると思うから。申し訳ないけどよろしくね」
「分かりました」
「そうそう、昨日
そう言葉を残すと先生はせかせかと出て行ってしまった。
まーそうだろうな。
昨日の様子があれだったのだから、午後練はラストシーンの練習だろうと薄々予想はしていた。先生が不在というのは予想外だが。ただ自分で理解しているのと、いざ直接言われるのはまた心持ちに違いがある。
先生が来てからどやされないように万全にしておこう。まず第一は平常心で演技をするところからだ。
演劇初心者かよ、私。
気持ちの変動で演技ができないなんてまるで新米じゃないか。そう思うと自分が情けなく思え、数年来のプライドが傷つくような気がした。
「それじゃ凛、始めよ」
何か考え込んでいる様子の凛を促し、私達はワックスで輝くステージへの階段を上った。
「ステージライトは点ける?」
「本番通り点けてやりましょう」
「りょーかい」
一瞬の会話で凛の例のスイッチが入っていると分かる。便利だな、と思わずにはいられない。横に並んだ鋭い眼差しを
私も凛みたいに気持ちをパシッと変えられれば、こんな苦労はしないのになぁ。
脚を伸ばし、肩を回し、身体全体をウォーミングアップしながら考える。その間隣の凛を意識せずにはいられない。
凛は私みたいに悩むことってあるのかな。いや多分ないんだろうな。
普段の生活はさておいて、演劇に関して言えば、失敗したところは一度も見たことない。精神が未熟な私と違って鋼の意思を持っているだろう。彼女にとっての緊張とは私のような体のバグとかではなく、身を引き締めるほどよい刺激に違いない。というか彼女が悩みに頭を抱える姿は想像できない。
「それじゃ始めましょう」
「う、うん」
凛に貫くような視線に撃たれ、声が上擦ってしまった。
マズい、大丈夫かな。
一瞬怪訝な顔を向けてきたが、すぐに騎士は走り出した。その背中を追い王女の私も走り出す。
「はぁ、はぁ」
「こ、ここまで来れば、大丈夫じゃないでしょうか……」
二人とも膝に手をつき後ろを振り返る。
「はぁ、そうですね。あそこの木の陰で、休憩を取ることにしましょう。どうぞ、お手を」
「ありがとう……」
凛に先導され光が照らすステージ中央へ。そこはスポットライトが熱を注ぐ。しかし私が感じる熱はそれだけではない。右手から流れ込む人肌の温もりにドキドキが止められない。
また変なことを!
「アルミリア様……」
「はぃ! 何でしょうレオン……」
騎士の声がまるで私を咎めるように聞こえてしまい、またもや声が上擦る。
「この先さらなる追手が迫ってくるでしょう。そのとき私はこの命に代えても貴女をお守り致します。しかしながら貴女もご存知の通り敵は我が国の精鋭。数も察する通りです。それらに相見えた際、私は彼等の刃に斃れるやもしれません。それ故……」
「レ、レオン!」
レオンに刺さる鋭い一喝。のはずだが今の声は震え切っていた。
「あ、貴方はそんな弱気な考えをずっと持っていたのですか。私と添い遂げると、私と共に天寿を全うすると言ったのは誰です。貴方でしょう? こんなところで地に伏すなど私は決して許しません」
震えた声のまま脳に刻まれたセリフを発する。
「生きなさい。何としても……生きて……でないと、私は……」
あらかじめ決められたプログラムに従うように身体が崩れ落ちる。
「アルミリア!」
そこをレオンが素早く、されど大切に抱きとめる。床を鳴らす靴の音が響いた。
すごいな、凛は。
「すまない、アルミリア。不安にさせてしまった……」
原因不明の不調により、最早機械のようにしか動かない自分とは違う。活き活きとした動きとは比べ物にならない。
「分かれば良いのです……」
ひどく無様でかっこ悪い私。しかしながらその内側では訳の分からない熱の奔流が全身を巡っていた。
もう私、おかしくなったんだ……
「さっきの私はどうかしていたのだろう。このアルミリアを想う気持ちがあれば死にはしないよ」
どうかしているのは今の私だ。熱の奔流と一緒に自己嫌悪も流れ始めた。
「しかしアルミリア、私はこの気持ちを今、どうしても伝えたい。これが最後にならないことを固く約束する。そしてアルミリア、よければお前からも想いを聞きたい……」
レオンが、凛が腕の中の私を眼球の裏を透視するように見つめる。
今の私を、見ないで……
それに耐えられなくなり、顔を背ける。
異常な速さの心臓。今にも破裂しそうだ。いや、このまま破裂してしまえばいいのかもしれない。
「貴女を心から愛しております。この愛、貴女と神に誓いましょう」
「……」
次のセリフは私……か。
働かない脳でぼんやりと思う。そうは分かっても内容は浮かんでこない。
演者もできず更には機械にもなれないとは。とんだ足手まといだ。
まるで他人事のように諦念を持つ。
先生に言ってもう主役は諦めよう。私には務まらない。もっと上手く、堂々とできる人がいるはずだ。皆に迷惑をかけるのは心苦しい。これ以上は——
「……ぁ」
優しい指使いでそっと顎を持ち上げられる。
そして柔らかい温もりが唇に触れた。
凛の唇。
脳がそう判断を下すのに数秒を要した。さっき取られた手とは別の温もりが流れ込む。それは口から入り、私の中心に到達し、私の体温と混ざり合う。
目の前の長く揃った睫毛。それが上下に割れた。
「……ん」
甘い吐息とともに端正な顔が距離を開ける。
「……先輩、どうして先輩がちゃんと演技できないか、分かりますか?」
「ぇ……」
私の頬に手を添えたまま問いかけてくる。全てを知り尽くした人による教え諭すような口調に私は戸惑いを露わにする。凛の発言の意図が全くもって分からない。
凛が私の理由を知っているの?
「それはですね……」
凛の表情が私の視界を通り過ぎる。そして吐息が耳の皮膚を震わせるような距離で低く呟いた。
「先輩が、私を好きだから……私に恋してるからです」
私が……恋……
「千紗先輩が言ってました。私とこんなにも近づいておかしくなるのは私が先輩の好きな人だからだって」
甘く溶かされるような心地の良い声。私の鼓膜を震わせ、思考力を徐々に奪っていく。考えも焦点も定まらない。
「それに私がどうしてこんなこと、すると思いますか?」
凛の顔が私の真正面の視界に戻り、再び見つめ、問いかけてくる。
どうして……
投げかけられた言葉を崩れかけた思考の中で
「私も先輩のことが、好き、だからです」
私を好き。
それを確認した瞬間、思考の崩壊が止まるのを感じる。まるで降り注ぐ雨が空中で固められたように。そして散らばった感情、記憶、意思が息を吹き返す。それらが逆再生のように元の位置に戻り、正常な思考回路をつくり直す。
『私を好き』
それは絶対にダメだ!
「入学式の日に助けてもらってからずっと、気遣ってくれたり、話しかけてくれたり、一緒に帰ってくれたり。その度にドキドキしていたんですよ。全てが嬉しくて堪らなかったんです。ステージの上にいない私を見てくれる存在として」
「……め……」
「だから先輩、好きです」
ダメ……
「私と付き合——」
「ダメッ‼︎」
半ば絶叫にも聞こえる否定とともに、固まっていた体に力を込め、凛の腕の中から逃げ出す。
やめて……!
そのまま消えてしまおうと舞台袖に走り込み姿を隠す。が、急激な運動によってもつれた足が私を床へ転ばし、それを邪魔した。
「あぅっ!」
胴体が床にぶつかる衝撃で苦悶の声を上げてしまう。
「先輩!」
「私が恋なんてッ!」
駆け寄る凛を叫びで制止した。数歩離れた背後で立ち止まったのが分かる。
倒れた身をのそのそと起こし、その場でぺたんと座り込んだ。
「私は……もう恋なんて……できないって……」
ところどころしゃくり上げながら声を振り絞る。目に映る風景が滲んで、ぼやけて、見えなくなる。
代わりに罪として刻まれた過去が瞼の裏に浮かぶ。
「……そういう奥底の暗い部分が自分の本当の恋心を隠そうとしているんですよ」
「でも!」
私はかぶりを振って、耳に入る言葉を否定する。それを肯定したら、それを認めてしまったら、今までの私は何だったというのだ。一緒にいる時間が長くなればなるほど、私だって凛の持ってる暖かさが私の理想だって薄々気づいた。レオンのときから滲み出る凛自身の慈愛やさっきの家族への愛がそれを物語っている。でもそれを気付かないふりをして必死に目を逸らしていたのだ。
「先輩の直感は、体は正直だったじゃないですか? それが何よりの証拠です」
「だけど……昨日言ったでしょ? 私は、歪んでるって……他の人とは、違うって……」
「……」
そうだ、凛には昨日話した。だったら私の考えも分かるはずだ。凛の暖かさに身を預ければ、凛は私の重みで潰れてしまう。かつて私が押し潰した彼のように。凛にそんな思いはしてほしくない。
「私なんか……好きになったら、ダメだよ……私の我儘で凛が不幸になっちゃう、悲しませちゃうから!」
「だったら、私も言ったはずですよ?」
はっとして顔を上げた。凛の声色がいつものように戻っている。演技のときとは違う、閉ざされた心の隙間から入り込み、内側からほぐしてくれるような優しい声。
私の体とその周囲を影が覆った。そのまま影に全身を包み込まれる。
「私はお姉ちゃんなんですよ。甘えられるなんてどんとこいです」
「あぁ……」
長い腕で抱擁された身体から強張りが引いて行った。そしてその抱擁は私の心をも包み込みどす黒い部分を溶解させる。
無意識に咎や罪悪感、諦念に塗り固められていた本心が露わになる。自分自身さえ気づくことができなかった『凛が好き』という本心。
なんだ、こんなにもシンプルなことだったのか。
涙が
だけど、そんなシンプルなことがとても愛おしい。凛が持つ暖かさに散々目を背けて、逃げ回っていたけれど、私の体だけは本当に正直だったわけだ。全細胞は凛の暖かさに恋をして止まなかった。
「好きな人から甘えられるなんてこの上ない幸せですよ」
「いいの……?」
「思う存分甘えていいんです。妹が一人増えたくらいどうってことないですから」
それを聞き、私は全体重を凛に預けた。凛はそれに全く動じずしっかりと受け止めてくれる。その感触は父や母の愛情にとてもよく似ているものだった。
「ぅ……ぁ……ぐす……」
喜びの涙でいっぱいの私をあやすため、凛がそっと私の頭を撫でる。数年前に喪い、求めてきたものを私はやっと得ることができたのだった。
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