第三幕
「今日も……私の、勝ちだな……」
翌日の金曜日、やたらと睡魔が襲い来る授業を何とか乗り越えた私は帰りのホームルームを迎えていた。この後は苦行である課外授業も無く、本格的な練習にようやく取り組めるので久しぶりに清々しい気分だ。
授業という名の敵を退けた私はぐわーっと伸びをした。
時間よりやや遅れ気味に入ってきた担任の先生が事務的に連絡事項を伝えていく。その最中は演劇と
凛が主演っていうことは私はあの別人格な凛を目の前にするってことだよね。あの名演技に私が対等にできるかな……でももう決まったんだし、できるかじゃなくてやらなきゃいけないんだけど……
スピーカーからチャイムの音が鳴った。ホームルームが終わり、帰りにどこに行くか友達と話し合う人、慌てた様子で部活へ行く準備をする人などが教室内で混ざり合う。私はそれに飲み込まれないうちに早足で教室を出た。
「あ! くるみ待ってよぉう」
すると後方から助けを乞う声が追いかけてくる。
いけない、考え事のせいで
「ごめん、ちょっと通るね」
千紗が人海を掻き分けて廊下に出て来た。放課後突入したての教室の混雑具合は並大抵ではない。ミニ渋谷スクランブル交差点が魔法のように出来上がるのだ。
千紗はまるで水から上がったようにぷはぁっと空気を吸ってから私に詰め寄ってきた。
「お主は我を見捨てたのか⁉︎」
「ごめんごめん、千紗なら大丈夫だろうって信じてたんだけど、やっぱりダメだったか。千紗ってばこの程度だったよね、過大評価してごめん」
私はあちゃーって感じで顔を手で覆う。
「は? これくらいどうってことねぇし。私にかかれば
「よぉし、それなら問題ないな。行くよ」
「あ、こら! 置いてくな」
千紗の話半分に歩き始め、部室を目指す。しかし部室と言っても向かうのは昇降口で、そのまま靴を履いて外へ。この高校の我らが演劇部は一般の教室がある校舎に属しておらず、敷地内に別の建物を持っているのだ。このことからもこの学校の演劇に対する熱い姿勢がよく分かる。この整った環境目当てで来る人も多い。
数分、千紗と並んで演劇棟へと続く石畳を歩いた。白塗りの壁と赤煉瓦、鋭角的な屋根という西洋デザインでまとめられた演劇棟は遠くからでもかなり目立つ。
「凛!」
「あ、くるみ先輩! それに千紗先輩も」
「やほ〜」
「凛は今来たとこ?」
「はい、ちょうど」
「放課後入ってすぐなのに早いね〜感心感心」
「早く練習したいですから」
「なるほど、意気込みも良しと」
そんな私達の会話を聞いていた千紗が不思議そうに口を挟む。
「あのさ、くるみっていつから
「え、ん? そそそそれは……」
すると凛は慌てふためきだした。
どうして凛は慌ててるんだろう。千紗にも人見知り?
「昨日だよ。凛が後輩に対してさん付けはおかしいって」
私が対照的に至って平然と答えると、
「そうです! おかしいので!」
凛が同調してきた。
「……ははぁ〜」
それを聞いた千紗は納得したようで、「なるほどね。じゃあ私は先に入ってるから、乙坂さん」と何故か最後の『乙坂さん』を耳に残るように強調して先に入ってしまった。
人見知りは杞憂だったようだ。何だか千紗も凛と仲が良さそう。友達は多い方が良いもんね。
「それじゃ中入ろっか」
「うぅ……はい」
「……なんか疲れてる?」
「いえ大丈夫です」
凛の様子を気にしつつ入ると、先に入ったはずの千紗が下履きのまま立っていた。そしてその前には腕組みをして立つ
「
「はっ! 了解であります!」
「頼んだぞ」
それを聞いた千紗は水を得た魚のように駆け出して行った。
千紗はすごいなぁ。さぞ部長に信頼されているんだろう。
千紗に話を終えた部長は今私達に気づいたようで、軽く片手を上げながらゆらりとこちらを向いた。
「おう、
「「はい、分かりました!」」
「うむ」
返事を聞くと颯爽と私と入れ違うように外に出て行ってしまった。漂う大物感。
「染谷先輩ってなんというか雰囲気凄いですよね」
出て行った扉を見ながら凛がしみじみと言った。
「部長はここの姉御って感じだからね。みんな尊敬してるし」
「裏方代表になってますけど、演者はしないんですかね」
「うーん一年のときは演者もしていたらしいよ。でも二年から裏方専門になったみたいだから私も見てないの」
「そうなんですか」
「頼めばやってくれるかもよ」
「そんな畏れ多いですよ。さ、行きましょう」
部長に関する話を適度に切り上げ、顧問部屋へ向かうために靴を履き替え(演劇部員は校舎用とは別の演劇棟用の上履きを持っている)、昇降口から右に曲がった。顧問部屋はあまり入ることがないので新鮮だ。凛は初めてだろう。
「失礼します」とノックに次いで扉を開けるとそこには自分のデスクで椅子に腰掛けた先生がなにやら手帳とにらめっこをしていた。
「白金先生」
「あ、来たわね、桜木さん、乙坂さん。とりあえず座って」
先生は応接セットを指差して勧めた。
「はい、失礼します」
凛を先に座らせてから自分も座って辺りを見渡す。あまり大きくはない小部屋。壁の本棚には隙間なく台本や音響用CDが詰められている。窓際のガラスケースには数々の大会で獲得したトロフィーや盾が収められており、凛はそこを注視しているようだ。今座っている革張りのソファや低めのテーブルからは高級感を感じる。
ここには偉い人も来るのかな?
壁の一角に目をやると、違和感しか感じない和風な掛け軸を見つけた。
あぁここも校長先生の息がかかっているのか……生態痕跡発見。
「ええとまずは桜木さん、乙坂さん、主演決定おめでとうね」
先生は私達の反対側に座って言った。
「二人とも本当に良い演技してましたよ。特に乙坂さん、一年生でしかも入学して一回目で主演獲得なんて本当に素晴らしいです」
「あ、ありがとうございます」
「それでなんですが、二人とも分かってる通りレオンとアルミリアはこの演劇の顔です。二人の恋愛の物語なんですから、この二役が演劇の出来を左右するといっても過言ではありません」
先生は真剣な面持ちで語る。
「ただまぁ私も
「はい、あります」
「わ、私もあります」
「出してもらってもいいかな」
私はペールトーンの可愛い手帳、凛は黒のシックな手帳を取り出す。
凛、大人っぽい。
「主演の二人には他の役より力を入れるため、特別練習の時間を設けたいと思っています。それで土曜日の午前は部員全員の練習っていうか活動日として入っているから、日曜日の午前を二人の特別練習日にするつもりです。あ、それと土曜日の午後とかもですね。現時点で来れない日はありますか?」
「私は……大丈夫です。全部空いてます」
「私も予定はありません」
「では今のところは毎週末練習するっていう方向で」
私達は二人揃って頷いた。そして交流会までの全ての日曜日に『特別練習』と書き入れていく。
「話はそれだけです。まぁ出来具合によってだったり希望があれば特別練習は増やすので……何かあればいつでも言ってください。予定は確認しておきますので」
「分かりました」
「では今日の練習を始めますか、行きましょう」
こうして私達の練習時間が増えたのだった。主演なので多くの練習が必要なのは覚悟していた。週末が潰れるとなると家事を考え直さなければいけないが、主演として舞台に立てるのだからそんなことは些末事だ。私にとっては演劇が何よりの楽しみであるので苦でもない。寧ろ家よりしっかりと練習できるので嬉しい限りだ。
凛は入部早々大変じゃないかな。
今日の練習準備をしながら凛に尋ねてみる。
「毎週末練習で潰れちゃったけど大丈夫?」
「全然大丈夫ですよ。演劇本当に好きなんで逆に嬉しいですよ」
明るく話す彼女を見ると、どうやら杞憂だったようだ。そもそも昨日あんなに演劇について熱く語っていたのに嫌いなわけがない。同じように嬉しく感じているとは、私達は気が合っているようだ。
「でも、やっぱり家族との時間が減っちゃうのはなぁ……埋め合わせを考えなきゃ……」
凛の誰に聞かせるわけでもない呟きはパンパンという先生が手を鳴らす音に掻き消される。
「では全員揃ったみたいですね。昨日配役が決まったので今日からは合わせでの練習を行います。皆さん自分のセリフや動きはもう覚えていますね」
うちの部では本格的な練習の前に各々の演技を身に付けているのは当たり前だ。でないと合わせ練習が円滑に進められない。
「ストーリーの最初から各場面を合わせて練習していきます。裏方も今日入れますね?」
「問題ありません」
先生が裏方に尋ねると、部長がすぐに返事を返した。
「OKです。今日は冒頭から二つ目か三つ目の場面まで進めることを目標にやっていきましょう。合わせのときに分かる改善点はその都度解決していきます。それでは取り掛かりましょう!」
一斉に返事の声が返り、皆が動き始めた。そんな中先生がこちらへやって来た。
「桜木さん、乙坂さん」
「はい、何でしょうか?」
追加の連絡事項だろうか。
「もう一つ二人にお願いがあるんだけど、今日の最後にラストシーンをみんなの前でやってくれない?」
「ラスト……シーンですか?」
凛が聞き返した。
「ええ。ラストシーンってクライマックスでしょ。そのクライマックスを皆に見てもらえればモチベーションが上がると思うの」
そのラストシーンとは国を追われた後、逃亡先でレオンがアルミリアに愛を誓い、それをアルミリアが受け入れるというこの劇の一番と言っても過言ではない最も重要なシーンだ。そして二人は告白の最後にお互いに口付けを……するギリギリまで顔を近づけるのだ。高校の演劇ではその辺の接触を実際にしてしまうとルール違反になってしまい、失格だ。教育上行き過ぎた行為として見られるからだろう。
「それにあなた達の演技は昨日見た限り、現時点でも十分素晴らしいからお手本にもなると思う。どうできそう?」
もちろん内容は昨日やったので全て頭に入っている。合わせの練習をすればできるはずだ。問題は凛だが……
「私は全然できますよ。先輩は大丈夫ですか?」
私はまた凛のことを過小評価しちゃってたみたい。
「うん、いけるよ」
「大丈夫そうね。二人は第二場面では出番無いからそのときに個室で練習しておいて」
「了解しました」
私が承諾すると先生は「頼みましたよ」と残して指導席についてしまった。
間も無く各々が体操着ではあるもののしっかりと自身の役に成り切り始めた。ステージの上を縦横無尽に動き回り、スポットライトが遅れないよう追尾して光を注ぐ。
第一場面は最初ということもあり、出演者の誰もが完璧にこなせている。注意点は多少出るが、ほとんどが合わせに際して生じるタイミングや位置関係で、すぐに改善されていく。裏方も初めてにもかかわらず十分に演者を立たせていてバッチリだ。
舞台上に多くの演者が集まるシーン。皆と同じように私もそつなくこなすことができているのだが、自然と目線は凛の方へ向かってしまう。凛は今観客側を見ながら腕を広げ、よく響く声を発している。
練習直前、隣で空気がバッと変わったかのように感じ、横に目をやると、凛は演劇モードに切り替わっていた。「頑張りましょう」と去り際に残し、私とは反対の舞台袖に力強く歩いて行った。その様子は道を塞いで読み合わせをしていた二年生がサッと身を引き、道を開けたことからも分かるだろう。
凛の変化には未だに驚きが消えることはないが、目に映る彼女の姿はとても様になっている。
凛、何というかカッコいい……
「はい、止めて」
突然、先生が手を挙げ、冷たい声が響く。
「桜木さん」
周りの視線が自分に集まるのを感じ、肌をピリピリと
やば、やらかしちゃったかな。
「ここでのアルミリアは自分の感情を整理できていない状態ですので演技では俯いていたほうがいいかもしれません。レオンに目をやるのは登場した最初だけで結構です」
「わ、分かりました。すみません」
「気をつけてくださいね」
どうやら凛を見ていたことが相当目立っていたらしい。
何やってるの自分! 集中しなきゃ。
「はいお疲れ様です。ではすぐ第二場面を始めるので出番が無い人は降りて、出演者は準備してください」
「おつかれ〜」
「よくできてたよ」
「私のセリフのところさ……」
一声かけながらあるいはアドバイスのやり取りをしながら人の入れ替えが始まる。次に出番が無い人達は休憩できるが、私と凛はラストシーンの練習を行わなければならない。
「二場面が終わったら呼びに来てもらえる?」
「オッケーいいよ」
同じく出番が無い二年の部員に知らせを頼み、私達は別室へと向かった。そこは現在練習が行われている大部屋とは廊下を挟んだ個室。個人でもしくは少人数で練習をする部屋だが防音設備が備わっているのでBGMをかけたり、声を張ることができる。演劇棟にはこんな部屋がいくつか連なって設けてあるのだ。
「では始めましょうか」
『IN USE』と記されたポップなプラカードを掛けてから、少し重たい扉を押し開けると凛が早速始めようとする。声色から分かるが凛は今も演劇モードだ。
「そうだね。ええと、じゃあどこからやろうか」
台本をパラパラめくりながら考える。
「クライマックスと言っていたので、最初の逃げてくるシーンはいらないと思います」
「じゃあ逃げ切ってからの告白シーン、だね」
「はい、そこからでいいかと」
「おっけ。じゃあ凛はそこらへんで私は……この辺で始めるか」
それぞれの位置に立ってスタンバイ。
「それじゃ凛のタイミングで」
「はい」
凛は目を閉じ、一呼吸入れる。
そして目を見開いた。
「アルミリア様……」
「はぁ……はぁ……何でしょうレオン……」
走りに走った後のはずの私は息を切らしながらも返事をする。
「この先さらなる追手が迫ってくるでしょう。そのとき私はこの命に代えても
レオンは胸に手を当て頭を垂れた。その声は苦渋に満ちている。
「しかしながら貴女もご存知の通り敵は我が国の精鋭。数も察する通りです。それらに相見えた際、私は彼等の刃に
「レオン‼︎」
私の一喝が部屋にこだまする。レオンは思い詰めていた顔をハッと上げた。
「貴方はそんな弱気な考えをずっと持っていたのですか⁉︎ 私と添い遂げると、私と共に
私の豪然たる声は確かにレオンの脳を、意思を、心を震わせているはずだ。
「生きなさい。何としても……生きて……でないと、私は……」
声が涙ぐむ。すすり泣きながら膝から崩れ落ちた。
うんうん、練習通りに良い感じにできてるぞ。
「アルミリア!」
すかさずレオンは私を優しく抱きとめる。容姿端麗。ドキリとする甘いマスクを腕の中から見上げる。
ん? え、え、え⁉︎
そこで私は今まで感じたことがない名状し難い謎の違和感に襲われた。まるで身体の奥底から沸々と泡の如く浮かんでくる感じ。一つとしておかしなことはしていないのに何なのだろう、このモヤモヤは。
「すまない、アルミリア。お前を不安にさせてしまった……」
王女を支えるその姿は最早近衛兵では無く、想い人を前にした一人の恋人だった。
そのときまで役にのめり込み、アルミリアに成りきっていた私だったが素の自分に引き戻されて突然焦りと戸惑いを感じ始めた。
すすすすごく近い⁉︎ じゃなくて、つつ次のセリフは⁉︎ えっと⁉︎
「わ、分かれば良いのです……」
最初の方が不自然に上擦ってしまった。冷たい汗が背中を伝う。
「さっきの私はどうかしていたのだろう。このアルミリアを想う気持ちがあれば死にはしないよ」
んんんん⁉︎
レオンが、いや凛が抱き抱えた私の後頭部に優しくゆっくり手を添える。それに対して私の頭は原因不明の沸騰を始める。そして胸の鼓動。視界がぐるぐると回り、目の前にある凛の顔に焦点が合わない。
何これ⁉︎ 私どうしたの⁉︎
自分で自分が分からないという不安が押し寄せる。
「しかしアルミリア、私はこの気持ちを今、どうしても伝えたい。これが最後にならないことを固く約束する。そしてアルミリア、よければお前からも想いを聞きたい……」
凛の艶めいた唇の動きがスローモーションに映った。
だめ……今は何も言えないから……
「貴女を心から愛しております。この愛、貴女と神に誓いま…………先輩?」
「えい!」
「きゃっ!」
凛が私の異変に気付いた瞬間、抱き抱えられた私は思わずその腕から強行脱出。床をゴロゴロと転がり、取り敢えず壁まで逃げる。
ど、どうしたの私⁉︎
自分でも自分の心境と行動が全く分からない。私の中に自分じゃない別人がいるようで……
「はぁ……はぁ……」
「せ、先輩?」
自分の心を整理しようとしたが、声の方を見ると、いつの間にか通常モードに戻った凛が大きく尻餅をついていた。
「凛⁉︎ ご、ごめん!」
私は即座に立ち上がり、急いで凛に駆け寄る。
全く私は何してんの⁉︎ 凛にも迷惑かけて……
「凛、大丈夫⁉︎ 怪我とかしてないよね⁉︎」
「ええ、自分は大丈夫ですけど」
凛に手を差し出して立つのを助ける。
「ありがとうございます。先輩こそ大丈夫ですか?」
「え?」
「だって先輩、顔真っ赤でしたし、なんか目がぐるぐるしてましたし」
「え、あぁうん」
今はさっきの
「な、何だろうね。自分でもよく分からない……」
自分の頬をペチペチと叩いて、
「一応保健室行きます? 大事だとマズイですし……」
「そこまでは大丈夫だよ!」
心配してくれるのは嬉しいがすぐに彼女の申し出を断る。皆の前で見せるからにはここで練習を重ねておきたい。
「さぁ練習再開しよ!」
ちょっと空気が変になってしまったので、明るい声で切り換える。
「先輩がそう言うなら……」
凛も渋々と言った様子で応じてくれた。
「では……抱き抱えたシーンから再開しましょう」
凛は言葉の途中で様子を変化させた。
「オッケー」
気持ちを入れ換えて先程と同じ場所に力強く立った。
よし、やるぞ!
「……」
「……」
「先輩」
「どうした、いいよ」
「あの……抱き抱えたシーンですから、ちょっと姿勢を低くしていただかないと……」
「ん? ああ、そ、そうだね、抱き抱えたシーンだから……」
そうだよ抱き抱えたシーンなんだから私が体勢を……
抱き……抱えた……
その言葉を反芻した途端、また頭が熱くなり始めた。身体に鉄筋が通ったように固くなるのを感じる。
あれ? 私、また⁉︎
「先輩?」
「うぅあい⁉︎ いいよ、どんと来い!」
私は抱えやすいようにしゃがみこんだ。
ダメだよ! 集中! 集中! 遊びじゃないんだから!
よく分からないこの気持ちを演劇に対する真剣さで吹き飛ばす。おまけにさっきの変な返事も恥ずかしいから忘れる。
「では……お言葉通り……」
ぽふっ。
私の身体は凛のやわらかい手で自由を奪われた。その感触は暖かく、心地よい。揺り籠の中のように寝かされて小さな頃を思い出し……
だあああああ! 集中っ! 集中っ!
「しかしアルミリア、私はこの気持ちを今、どうしても伝えたい。これが最後にならないことを固く約束する。そしてアルミリア、よければお前からも想いを聞きたい……」
目をギュッとして、この後のセリフをちゃんと思い出す。握り拳をつくって、変な考えは浮かべない。
これを言い終えれば、取り敢えず一段落なはず。練習の終わりに全員の前で言うセリフもそれが最後だから、そこまでできれば今日のところはオッケー!
「貴女を心から愛しております。この愛、貴女と神に誓いましょう」
信じられない速度で心臓が動いている。その速さに口が同調しないように気をつけながら言葉を絞り出す。
「ア、アナタの想い、しかと受け止めました。ソノ誇り高き騎士の言葉、私も王女としてでは無く、ヒトリノ女性としてその気持ちにコタエマショウ」
よし、いける! カタコト? 知るか!
「私もあなたを愛しているわ、レオン」
よぉし! 言い切った! やり切った!
頭の中でファンファーレが高らかに演奏され、クラッカーの紐が盛大に引かれた。正体不明の緊張に負けることなく、やり切ったことに歓喜して、自分を褒めちぎる。
本気で臨めば、乗り越えられないものなどないのだ! HAHAHA!
心と同期して、顔も自然と
よぉしこれで取り敢えずはオッケーだね。ええと次は……
目と鼻のすぐ先にある凛の顔はなんともカッコよく、魅力的に見えた。凛が私の顔にかかった前髪をそっと
あれ? 確かこの次って……
後頭部の手が少し直される。凛がふぅーっと熱い息を吐いて、微笑みながらゆっくりと近づいて来た。私の目は柔らかそうで魅惑的なピンクの唇に吸い寄せられる。
あ、あ、あ。
最後に見た景色はキメ細やかでとてもキレイな凛の肌だった。
そして私は目を閉じる。さっきまでとは違い、不思議と心は穏やかだった。
ん…………私の…初め……
「桜木さん、乙坂さん! 終わった……よ」
「あ」
「あ」
先程、呼ぶように頼んだ部員と目が合う。
彼女は扉を開いた姿のまま硬直している。
「「「…………」」」
三人の内誰も口を開かない。
『さて問題です(デデン)! 彼女には私達がどう見えているでしょう!』
脳内で突然開催されたクイズ番組で回答席に座る私は某鏡餅のCMの速さでピンポンを鳴らした。
『後輩が先輩を抱き、唇を近づけている様子、キスです!』
『正解!』
やはりさっきと同じようにファンファーレとクラッカーが響くが今は喜んでいる場合ではない。事実、彼女は何も言わずにそのままそっと出て行こうと、静かに扉を閉じようとしている。
ちょ、このまま戻られると確実にヤバい!
「ちょちょちょっと待って! 絶対勘違いしてる! これ演技だから! あのラストシーンの! ストーリー知ってるよね⁉︎ ね!」
私は急いでこの怪しい体勢から離れ、彼女の誤解を解こうとする。
「え? ラスト、シーン?」
「ほらクライマックスで告白する!」
「あ、あーラストシーン……あ、あったあった。あそこの練習してたのね」
「そうそうそうそう!」
「そ、そっか、そうだよね。いやービックリしちゃったよ。あ、あははー」
「演技だよーもうー」
ふぅ、ひとまずは……大丈夫かな。
なんとか誤解は解けたのでほっと胸を撫で下ろす。もしかしたら演技してるときよりもデカい声を出したかもしれない。
「はービックリ。ええと次は確か桜木さんは出番ないよね?」
「そ、そうだよ。次の出演は凛だね」
「はい」
凛は立ち上がってこちらに来た。
「じゃあ私はちょっと一人で練習してるから、頑張ってね、凛」
「分かりました、では行ってきます」
「じゃ桜木さん、また後でね」
二人が立ち去り、バタンと扉が閉まる。
静寂。
教室の隅の椅子にノロノロと腰を下ろす。
「うああああああああああああああッ!」
ピンと張り詰めた静寂を豪快に切り裂くように声を喉の奥から
誤解解けて良かったぁぁぁッ!
『おめでとうございます! 見事問題正解で——』
『うるせぇッ!』
マイク片手に近寄ってくるクイズ番組司会者を遥か後方へと拳で吹き飛ばす。
「はぁ〜〜〜」
あのまま戻られてたらどうなってただろう。先輩と後輩が小部屋で淫行だ。社会的立場を失うか、卒業まで晒し者になるか。どちらに転んでも身の毛がよだつほど恐ろしい。もしかしたら退部まであったかもしれない。いや、事実ただの演技なのだが。
安堵の気持ちでビダンと机に突っ伏す。木の冷たい温度が頬に吸い付いて来た。
もう、ホント最悪のタイミングだよ。なんであんなに丁度良くキスのときに……
キス。
その瞬間を思い出した途端に顔が
え、私変な顔してなかったよね⁉︎ 私の大事なファーストキスなんだから気持ち悪い顔してたら……って違うあれは演技でしょ! なんで本気になってんのよバカ! バカくるみ! え、でも私あのとき、すごく本気の顔してなかった⁉︎ してたかも⁉︎ 嘘⁉︎ もうバカバカバカ!
「うぅ〜〜〜〜〜〜」
机に突っ伏しながらガシガシと頭を掻く。
私ったら何で演劇なのに本気にしてんのよ。
「はぁ〜〜〜〜〜〜」
身を起こして、とてつもなく大きい溜め息をついてから今度は頬杖をつく。この部屋が防音で本当に良かった。ここの設計者に是非ともグッドデザイン賞を贈りたい。
私ったらホントにどうしちゃったんだろう、今日。抱えられるシーンとかキ、キス……のシーンとか今まで何回もやってきたのに……
それが自分にも本当に分からないのだった。演劇五年目となれば、ある程度の場数は踏んでいる。それこそ告白とかキスみたいに顔を近づけるシーンは数え切れない。今まではそれで気が動転したことなど一度も無かったのだ。
それに比べて今日はどうだろうか。思い出すだけでも恥ずかしい。まともじゃなかったと思う。というか思い出す記憶が残っているかすらも怪しい。
ぼんやりと虚空を見つめる。
一度きちんと心を整理した方が良いのだろうか。二年生に進級してから環境も変わり、後輩もできて無意識に疲れているのかもしれない。
日曜の午後は映画でも観に行こうかな。
しかしながら今早急に考えるべきはそんなことではない。この後のことだ。皆の前で演じるのにこんな体たらくでは言語道断だ。何が何でも上手くやり切らなくてはいけない。私は主役、王女アルミリアなのだ。
はぁ、戻るか。
ズッシリと構える防音扉を開けるのも
私の出番が無い第三場面の練習はかなり早く終わった。そこそこ長い場面のはずだが、演者全員の練習の
「みなさんお疲れ様でした。練習初日でこれだけできればかなり良い方だと思われます。これからもこの調子で励んでください」
本日の練習が終わり、大部屋の中央に皆が集まって、先生の話を聞いている。俗に言う帰りの会ってやつだ。
「それでなんですが、今から主演二人にクライマックスのシーンを演じてもらいたいと思います。桜木さん、乙坂さんはともに主演に値するのに相応しい演技をしてくれます。二人の演技を是非参考にしてみてください。ではお願いします」
拍手に背中を押されながらステージの階段を上る。持ち上げる足の高さなんてたかが知れているけれど、私にとっては一段一段に体育のハードルみたいな思い切りが求められた。
自分の立ち位置を確認し、凛とアイコンタクト。
目が合った瞬間、同時に動き出した。
「アルミリア様……」
「はぁ……はぁ……何でしょうレオン……」
スタートは順調、後は落ち着いてやるだけ。うまくやること以外考えない。
そう思ったがしかしストーリーが展開するにつれて、心臓は私の意に反して速くなる。交感神経のオーバーワークで血流が早くなり体温が高くなる。
「アルミリア!」
ん……
崩れ落ちた私を凛はしっかりと抱きとめた。
マズい、もう心臓バクバクだ。
「さっきの私はどうかしていたのだろう。このアルミリアを想う気持ちがあれば死にはしないよ」
凛の間を取る一拍。
対して上がる私の心拍。
「しかしアルミリア、私はこの気持ちを今、どうしても伝えたい。これが最後にならないことを固く約束する。そしてアルミリア、よければお前からも想いを聞きたい……」
身体が固くなる。たまらず目を瞑ってしまった。
ダメ……私、目を開けて、やり切るの!
「貴女を心から愛しております。この愛、貴女と神に誓いましょう」
凛も流石に私の異変に気づいたようで、レオンの顔をしながら心配そうな表情をする。
私のせいでちゃんと演技してる凛がこんな顔に……
ただでさえいっぱいいっぱいな心に罪悪感まで流れ込んでくる。
ごめんね、凛。
「あ、あなたの想い、しかと受け止めました」
あと少し……あと少し……
「その誇り高き騎士の言葉、私も王女としてでは無く、一人の、女性として」
「ストップ」
突如先生の声が聞こえた。それは最後の審判を下すような重たさで、私を吊る細く脆い糸は容易く千切れてしまった。
「そこで終わりにしてください」
困り顔を浮かべながら凛は私を優しく床に下ろした。
「桜木さん」
「はい……」
返事をして立ち上がる。
「さっきのセリフ、まるで熱意がこもっていませんでした。スピードが異様にアンバランス、そして棒読み、みなさんに見せるべきでないと思い中断しました、分かりますね」
「はい、すみま……」
「あなた、今日どこかおかしいですよ。あんなセリフの読み方したことないですよね。第一場面のときのミスもいつものあなただったら考えられませんし。体調が悪いのならきちんと整えてください。自分が主役であることを忘れずに。また明日からに期待します」
「はい」
「乙坂さんですが——」
「はぁ〜やっちゃった」
「元気だしな。あれ行こうか? 駅前のアイス屋」
「ううん、いいよ」
部活で失敗した帰り道。夏に一歩ずつ近づいているはずだが、夜が遅くなっているとはまだ感じられない。電灯で照らされた歩道を千紗と凛と一緒に歩いている。
「シャッキリしろ。幸せが逃げるぞ」
「だけどさ〜ホントに私どうしちゃったんだろ。バグったわ」
「たまたまだよ、ねぇ乙坂さん」
「そうですよ、私だって上手くできないときありますし、先輩はそれが偶然今日だっただけですよ」
凛は私の肩に手を置いてくれた。
「ごめんね、凛。私のせいで中断させちゃって」
「大丈夫です、気にしないでください」
結局あれから、もう一度やることもできずそのまま部活は終了してしまった。大勢の部員が私を心配してくれたが、そこはとてもじゃない雰囲気になってしまっていた。
「はぁ明日もあるのか〜」
大好きな演劇部の活動を憂鬱に思うなんて生まれて初めてだ。
「明日になれば案外治るかもよ」
「そんな無責任な」
「そもそも原因はなんなの? 風邪とか?」
「そんなことないよ。いたって健康体」
「じゃ分かった。あれよ、生」
「違ぇかんな」
「ははは、冗談だよ、冗談。くるみの周期はアプリで覚えているからね〜」
「きっしょ。本当にきしょい」
千紗は私の肩をバシバシと叩いてきた。凛とはまるで大違いだ。
こういうあっけらかんとした態度、嫌いじゃないけど。
「で、マジで心当たりは無いの?」
「無いってば。あれば自分でどうにかしようとしてるし」
「そうだよなー」
「はぁ」
今日何回目か分からない溜め息が空を漂った。私達は駅へと通じる大通りに出る。ここは今まで歩いてきたところよりも断然交通量が多い通りだ。
「うーん、いつからその……おかしく? なったの?」
「最初は……小部屋でクライマックスのシーンを練習してるとき……だよね凛?」
「はい、すごく慌てていて、床を転がってました」
「二人で練習してたの?」
「そうだよ」
「え? じゃあ具体的には?」
「それで確か……あの抱き抱えられたときとか、キ、キス、みたいに顔を近づけられたときにおかしくなったの……」
言葉にすると少し恥ずかしくなった。
「そうでしたね、私が先輩に尻餅つかされちゃったのもそのときでした」
「ホントにそれはごめんって」
「あ、嫌、別に皮肉で言ったわけじゃないです、すみません」
「おい、ちょっと待って二人とも。くるみはそこからおかしくなったの? 乙坂さんと二人で?」
そこで千紗は何か
「そうなんだよ。今まではそういうシーンやっても全然普通だったんだけど」
それを聞いて千紗は足を止めてぽかんとしてしまった。
あれ、私変なこと言ったかな。
凛を振り返っても、同じく静寂を不思議そうに感じている様子だった。
「……ねぇ本気で言ってる?」
しばらくして千紗が口を開く。
「は? 何が?」
「からかってないよね」
「んなわけないでしょ」
「……は〜呆れた」
千紗は堪らずといった様子で目頭を押さえた。その姿が車道を走る大型バスに照らされる。
「待って、何、じゃあ乙坂さんはわざとやってるの?」
「わ、わざとって何をですか? 私は別に……」
「うっわ、コイツらバカだ。演劇バカだ」
凛の答えを聞いて、千紗は苦笑いをしながら私達を罵ってきた。
「ちょ、バカとは何よ、バカとは。誠に遺憾でありますぅ」
「いや、バカとしか言えないだろ〜」
千紗はついに頭を抱えてしまった。
「千紗先輩! 何か分かったなら教えてくださいよ。私までバカだなんて心外です」
おい、『まで』ってなんだ。聞こえたぞ。私はいいのか。
私は凛に顔をしかめたが、対して向こうは気づいてない。多分勢いで出ちゃったやつだろう。そうに決まっている。そうじゃなかったら悲しい。
「うーん、くるみはともかく乙坂さんもだったとは。てっきりそういうのが好きなのかと」
「ふぇ? そういうの?」
「よし、おじさんがいいこと教えてあげるからこっちに来なさい」
「え、ちょっと……」
千紗は危ない犯罪者のような口調で、私から少し離れた自動販売機の陰に凛の手を引く。妙に板についていると思うのは気のせいだろうか。
「凛だけなの? 私にも教えてよー」
「くるみはそこで待ってなさい。あとで本人から直接聞きなー」
そう言うと、二人は私に見えないように隠れて何かを話し始めた。時折「違います!」とか「え? そうなんですか⁉︎」とか「で、でも!」とか隠しきれてない凛の声が聞こえてくる。
どんな会話してるのよ、気になる〜
それでも秘密の話を無理に聞くほど私は無粋ではない。することもないので仕方なく車道を行き交う車を数えて物思いに
明日はちゃんとできるかなぁ。これ以上酷いと降板させられるとかありそうで怖い。だとすると一回先生に相談するのもありだよな。ワンチャン良いアドバイスとか貰えるかもしれないし。でも今日の先生、ちょっと怖かったしな。私が悪いんだけど。
私の高校と同じ制服に身を包んだ知らない生徒達が立ち尽くす私を追い抜いて行く。縁石に溜まった僅かな土に枯れかけの花が揺れている。雲が遠くに浮かぶ月を隠した。
「おまたせ〜。それじゃ帰ろっか」
数えた車が二十台目に差し掛かろうかというときに、やっと二人は帰ってきた。
「ねぇどんな話? あとで直接聞きなっていつよ」
「それは私じゃなくて乙坂さん次第だって、ね」
意味深な視線を向ける千紗。その視線を向けられた凛は戻ってきてから手を組み、ずっと下を向いている。いったい何を吹き込んだのか。あの様子だとよほど重大なことだと思われる。だがこれ以上問いても二人は口を割ることはなさそうなので足を動かすしかない。
「てか何について話してたんだっけ、最初。くるみのこと?」
しばらくして千紗が尋ねてきた。
「私の主演が危ういってこと」
そのことを再確認するたびに気分が落ち込んでしまう。そして溜め息。
「あーそうだった。それ以外のことですっかり抜けちゃった」
「そこ一番大事。でさこのこと先生に相談するのはどう思う?」
「良きでは。ちゃんと聞いて、アドバイスくれるかも。今日のは結構冷たかったけど」
「ほんそれ」
「でもそんなに気にすることないでしょ。そう長引かないだろうし」
「えー何を根拠にそんな。千紗様助けてくださいよ〜」
私は千紗に肩に腕を回して、助けを求める。いつもやるのだが千紗は身長的に腕を置きやすい。
「ったくしゃーねーな」
すると千紗は立ち止まり、自分の顎に手を当て考え始めた。
「お」
その表情は真剣そのもの。私の今後について我が身のように考えを巡らせてくれているのだ。
私も腕を離し、千紗の啓示を待つ。凛も横で足を止めた。
なんだかんだ言っても親友だな。
「やっぱりさ……」
「うん」
「やっぱり、今日の夕飯はシチューにしようと思——」
「行こっか、凛」
「えっ⁉︎ 先輩!」
凛の腕を掴んで早足で立ち去る。
やっぱり千紗に助言を求めるなど間違いだったのだ。あいつはずっと私に寄り添う仮面の下で夕飯のことを考えていたのだ。私のことなんてどうでもいいんだ。許せん! 何がシチューだ。ちなみにシチューはホワイトが好きだ! ビーフシチューだったらカレーでよくね⁉︎
「せ、先輩⁉︎」
そんなくだらないことを思いながらちょっと進んだところで違和感を覚える。いつも通りなら千紗はこの辺で「冗談だよ〜」とか言って小走りで追いついてくるのだが、今日は一向にその気配が無い。こんな茶番は過去何回もやっているのだが。
立ち止まって振り返ると、千紗はふん反り返って立っていた。
「私が追いかけてくることを期待していたようだが残念だったな! これを見な!」
「あー」
指された方を見ると錆が浮き出た商店の看板。文字が流れてなんと書いてあるかも分からない。目印のこの看板があるということはここはいつも千紗と別れる場所だということだ。千紗はこの看板を曲がって帰るのだ。暗いのと演劇のことで頭がいっぱいだったことで、もうここまで来ていたことに気づかなかった。
「ということでじゃあの、お二人さん」
「うん、また明日」
「お疲れ様でした」
私達は手を振って見送る。
「乙坂さん」
すると千紗は凛に向かって親指を立てグッ。そしてそのまま曲がって行った。
「……さっき何言われたの?」
「べ、別になんでもないんです」
何でもなくはないんだろうな〜
そのまま駅へ向かったのだが、その後の凛の様子は明らかに落ち着きが無かった。様子が違うだけならまだしもコケそうになったり、電柱にぶつかりそうになったりと危なっかしいので始末に負えない。けろっとしてればこちらとしても何もないのだが、あからさまにおかしいと気にならないものも気になってしまう。
これで何でもないは無理があるだろ。私のおかしくなっちゃう病がうつったかな。
「ねぇ」
「あの」
たまらず声をかけたのだが、言い出しが重なってしまった。
「お先どうぞ、先輩」
「え、うん。その〜気をつけて歩いてね。さっきからちょっと危ないから。
「はい、すみません」
「……」
「……」
「あの先輩」
「ん?」
「変なこと聞いてもいいですか?」
内容が分からないのでは、いいも悪いも無い気がする。
「変なことにもよるけどある程度は」
「じゃあ……」
頭上の電灯が小さな点滅を始めた。寿命が近いのだろうか。
「先輩って好きな人、いますか……」
好きな人。
「……別に、いないよ」
今は。
思い出しても快くない記憶。蓋をして隠したはずの罪の意識が少し漏れてきた。それは
「じゃ、じゃあ好きなタイプってどんな人ですか」
「好きなタイプ、ね」
好み。そんなものは誰にも打ち明けたことはない。あまりそういう話をしないのもあるが、誰に言ってもきっと理解されないとなんとなく思っているからだ。それは千紗も例外ではない。それに、境遇を話して空気を重くしたくないというのもある。聞いて面白い話ではないだろう。
私よりもほんの少し高い凛の顔。しかしそれは俯いてばかりで低く見えた。
今、好みについて、何故だか凛には教えてみてもいいかなと思っている自分がいる。歳下の後輩だから、もっと仲良くなりたいから、あるいは演技でレオンのときに垣間見えたそれ故か。
理由ははっきりしないが私は教えてみようという結論に至った。私の境遇についてはいずれ話そうと思っていたので丁度いいだろう。
「私のタイプはね、母性っていうか、親みたいに優しく受け止めてくれる暖かさを持った人かな」
「親みたいな暖かさ、ですか」
凛は鸚鵡返しできょとんとする。予想だにしない答えだったのだろう。
「そう。って言ってもイマイチ分からないよね」
カッコいいやカワイイみたいな普通の高校生の答えではないだろう。
「私はね」
この話を口にすること自体少ないが、そのときはいつも緊張感に包まれてしまう。それに相手の反応が気になって仕方がない。
「高一の夏休みにね、交通事故で両親を亡くしたの」
「えっ」
凛が足を止める。まるで知ってはいけないようなことを知ってしまったリアクションだ。
こういう反応を見る方もなんだか辛いんだよなぁ。
慣れたつもりでも慣れない。
「ごめんなさい……」
「いいのいいの。気にしないで。いずれ話すつもりだったから、本当に」
私は凛の謝罪を軽く受け流す。
「それで今はそのままのアパートで一人暮らしなんだ。両親の親族とかいろんな人に助けてもらいながらね」
「一人暮らしってことは部活の上にバイトとかもしてるんですか?」
「さすがに収入は無いよ。ちゃんと気兼ねなーく高校生活できるように両方のおじおばさんが助けてくれてるから」
交通事故以来、母方と父方の親族はよりお互いに交遊を深め、私をサポートしてくれるようになった。それで共に生活することを何回も提案してきたのだが、敢えて一人暮らしを選んだのはやはりこの高校で演劇をしたかったからだ。ここで学べることを誰よりも両親は願ってくれていた。このチャンスを無下にするのは両親に申し訳が立たない。そういうことでかなり無理を聞いてもらって今の生活があるのだ。
「だけどね、やっぱり一人じゃ寂しいの」
誰にも言ったことがない本当の気持ちを吐露する。
「私って昔っからすごい甘えん坊だったんだよ。中学生くらいからはさすがにベタベタはしなくなったけど、それでも
話し始めた私の歩幅は自然と短くなったが、凛は寄り添うように合わせてくれた。
駅まではもう少しかかりそうだな。
「けどそんな心の拠り所みたいなのが無くなって、家に帰っても誰も居なくて、一人でやってっていうのが……ちょっと辛いんだ。だからその寂しさを埋めてくれるような暖かい人がいいかな。まぁザックリ言うと甘えられる人だね」
そう言うと、私は凛に笑顔を向ける。それとは対照的に凛は沈鬱な面持ちだ。そうして少しの間静けさが訪れたが、やがて凛は返す言葉が整ったようで口を開く。
「……先輩がそんなふうに大変だったなんて意外です。暖かさが欲しいってのも、その、明るい姿が印象的ですし、私を励ましてくれたときからは想像できないっていうか」
「あぁ、それはねーこれ以上周りに心配かけたくないっていうのがあるから。私は大丈夫だっていう風につくってるの」
自分の胸に手を添える。
「それに、あとは自分の裏返しもあるかな」
「裏返し……」
「私は誰かの温もりが欲しい。けどそれはどうせ叶わない。だったらせめて私の求めるものを誰かにあげて満足しようみたいなね」
ある種のどうしようもない自己満足なのだろう。それは自分だって理解している。でもそうしないと、その自己満足さえ禁じられたら、私は独りの家の中で少しずつ虚無に侵されてしまう。染みが一点から自らの存在を押し広げていくように、内側から食い破られてしまう。高校生ともなれば親の愛など必要としなくなる人がほとんどだろうが、私はそんなに強くはできていない。
心のどこかで永遠に『届かないもの』に虚しく手を伸ばし続けながら、表面では擬似的な『届かないもの』を振り撒く存在でいる。その行いこそ私の人生における『演劇』なのだ。
「そんなの……悲しすぎますよ……」
凛は声を絞り出して呟いた。その声からは悲哀が滲んでいる。
「それにどうせ叶わないなんて、そんなことないと思います」
凛の顔にザザッとノイズが走る。
ああ、やだ。
「諦めちゃダメですよ」
凛の顔が揺らいだかと思うと、代わりに彼の顔が映った。彼も最初は同じようなことを言って励ましてくれてた気がする。
「高校生活もまだありますし、それに——」
「ダメ、だったんだよね」
「え? ダメって……」
「私にもね……彼氏がいたんだ。この前の冬ぐらい。同じ中学から親しかった同学年のね。面倒見が良い人だった」
言ってしまった。
ここまで話してはもう引っ込みがつかない。むしろ胸の奥から込み上げてくるものを吐き出さないと気持ち悪い。我慢できない。
「そのときの私は一人が耐えられなくなって、
そのときの様子は容易く思い出せる。放課後の教室での告白。手を取ってくれた彼。忘れられるわけがない。それは私の罪なのだから。
「でもその関係はすぐに上手くいかなくなった。面倒見が良くても、友達と恋人は違うんだよね。彼が求めていたのは高校生らしい恋愛、私が求めていたのは空いた心を埋める一方的な愛。上手くいくわけないよね。私は何も与えないで、自分に与えられるのを待ってたんだもん」
「……」
十代後半の姿をした雛鳥。何と醜いことか。
両親にしてたように甘えれば、また前みたいな充足感を味わえる、心が支えられる。そう思っていた。だが相手は親どころか大人でもない、青さが残る高校生だ。そんな少年とも言える彼に私はあまりにも重過ぎたのだ。
そうして私は理解した。今までの私が許されていたのは相手が肉親だからだと。私の恋愛観は周りとは違うのだと。
「そしてお互いにギスギスして、空気に耐えられなくなって……私から伝えたの。別れよって。サイッテーでしょ、自分から告って、自分から振ったんだから」
最後は我知らず妙に明るい口調になった。
こんなにも本当をぶちまけたのに、まだ私は上っ面を取り繕いたいのだろうか。自分のことながら理解できず、呆れる。こびりついた演技の癖は想像以上に深く根を張っているらしい。
「だからもう私は誰も傷つけたくないの。私は普通の高校生とは考え方が違うから……」
誰かを傷つけて苦しむくらいなら、私一人で閉じ篭って苦しむ方がまだマシだ。これ以上我儘で周りを振り回すのはごめんだ。
――ごめんな……――
思い出す彼の言葉には純粋な謝罪と微量の解放感があった。
彼も辛かっただろう。彼なりの恋愛の憧れだってあったはずなのに、私の悲劇みたいで繊細なバックボーンを思うと何も言えない。私の振る舞いが口を閉じさせたのだ。
私のせいだよ。
私のせいで他人を傷つけたくない。
私のせいで他人に迷惑かけたくない。
きっと私は繰り返す。未熟な人間性だから。だから誰からも距離を置く。それが正解に決まっている。
上空の黒は一層濃くなってきた。陽が
天気予報は今夜から雨って言ってたかな。
「さてっと、変なことばっか話してごめんね。大分暗くなったし、早く帰ろっか。雨はやだな〜」
「……」
いつも通りの元気な仮面を被り直して、駅への足を踏み出す。もう私なんかの身の上話は終わりだ。
夜はどんどん深くなる。
前方には明るく光る駅が見えてきた。
さらに交通量が増す。帰宅ラッシュが始まっているのだ。
通り過ぎて行く一台の車。
その車から放たれるハイビームが、私の頬を不自然なまでに輝かせていることに、私自身が気づく
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