第二幕

 四月中旬、演劇部でのオーディションの日。今日の部室はいつになく慌ただしく、足音と役になりきった声が絶えず響く。今日の重要さを考えればこの喧騒はごく当然であり、私も騒がしい空間を形成する一人となっていた。

 このオーディションでは、五月中旬に県内の幾多の高校演劇部が集まる交流会で披露する演劇の主演やヒロイン、その他の役を誰が務めるかが決まる。それぞれ自分がやりたい役の練習をしてきて、オーディションで競い、その出来を白金しろがね先生や染谷そめたに部長をはじめとした面々で審査して決定される仕組みだ。ちなみに私も二年生代表として審査員になっている。各々がこの日の為に朝や放課後や家で練習を重ねてきたのだ。

 うちの高校ではまずはこの交流会出演が公式大会へのワンステップとなる。演劇交流会自体は順位や優劣をつける場ではないのだが、うちの演劇部はかなり名が知られているので、生半可な気持ちで臨めば部活の、ひいては学校全体に泥を塗りたくることになる。つまり大会と同じ雰囲気、手抜きなど許されないということだ。

 そんな中私は今回、ヒロインである王女アルミリア役を目指している。王女でありながらも幼馴染だった近衛兵レオンに許されない恋心抱いてしまったという女性だ。

 そのレオンも物語の主人公となるわけだが、私はもっぱら男役はできないのでパス。おそらく高身長な三年生あたりが務めるのではないだろうか。

 で、アルミリア役の競争率なのだが、以前私が出馬表明した途端、

「え、くるみ出んの?」

「じゃ私ら無理じゃん。他の役にしなきゃ」

「ヒロインやってみたかったけど諦めるか〜」

 という感じになり、二年生からは私以外出馬者ゼロ。さらには三年生も、

「くるみちゃん出るんだよ、勝ち目ないでしょ」

「ワンチャンだよ、ワンチャン。私だって夢見たいし、やってみるよ」

 てことで一名出馬。ほとんどの競争相手は私のことをあまり知らない一年生から出るだろう。

 なんかここまで来ると褒められてるってより寧ろハブられてる気がする……

 前にそれが気になり過ぎて同学年に聞いてみたが、

「それぞれの役は一番うまくできる人が務めるべきだよ。くるみちゃんは女性役だったら何でもできるから私たちもそれに合わせる。演劇は個人よりも全体が大切だからね」

「まぁ勝ち目のない勝負で何の役ももらえないっていうのが一番悲惨だからな」

 と至極真っ当な正論で返されてしまった。だが依然として自分はやはり複雑な心境。

 それで、こう言ってしまうとおごっているようなのだが、今回に関してあまり心配はしていない。誰が相手でも全力の演技をしてみせる自信がある。とんでもない逸材、それこそ全国レベルの人が相手ではない限りヒロインの座は私が座る。

 唯一の不確定要素といえば一年生の実力が分からないことだろう。実はあの入学式の顔合わせ以来私は乙坂おとさかさん含め一年生とは会っていない(かるーくLINEはしたが)。

 というのも二年生は入学式翌日から放課後に春期課外学習なるものが入ってきたからだ。二年生は放課後始めの一時間ほど課外授業があり、一年生はまだ早めの下校時間が定められている。そういうわけでまだ一年生とは共に練習できていないのだった。ちなみにあの一年生五人は入学者説明会の段階で台本を貰っているはずなので抜かりはないはずだ。

 乙坂さんは何役なんだろうな? 最初のテンパりようを思い出すとどんな演技なのかめっちゃ気になる。

 演劇を小学生からやっているとは言っていたが、あの様子だと主役はやっぱり厳しいのかなと思わざるを得ない。高校入学して初の演劇なのだから、まずは脇役で場に慣れることが大切だろう。

「では皆さん。これより交流会にむけたオーディションを始めます」

 白金先生が口火を切るとライブイベントのようにわ〜っという声が上がる。

「えー最初にもう一度確認しますね。今回募集というか決める役は十一枠。これに対してオーディション参加者は十七名です」

 あの顔合わせから一年生はさらに三人増えたらしい。これで演劇部は合計二十三人。オーディションに参加しない六人は元より裏方志望だろう。

 照明担当や小道具担当など、裏方といっても重要さは演者とたいして変わらない。演者は裏方を必要とし、裏方も演者を必要としている相互依存関係。両者が足並みを揃えて初めて演劇が成り立つのだ。

「今回は全ての役に出演希望が出ており空きがありません。第一希望が通らない人が六人出ることになります。申し訳ありませんがその六人は裏方担当をお願いします」

 中には出演希望者が一人だけの枠も少なからずあるのだが、その人は無条件で決定となるわけでなく信任審査となる。見られなくて済むというほどオーディションは甘くは無いわけだ。

「説明は以上で終了です。では皆さん準備を始めてください」

 じゃあ私も行くか、審査員の仕事もあるし。

 目的地に向かう人の流れに乗るべくよっと立ち上がると、「くるみーん」と後ろから抱きつかれた。

「んっと、千紗ちさ? どした?」

「ふふん、くるみの演技楽しみにしてるぞ〜。頑張ってくれたまえ〜」

 そう言いながら何故か私の無い胸(悲)を下から寄せ上げるというドセクハラをかましてきた。この身長差だと親に何かをねだる子供のようだが、この腕は私を愚弄しているのか。

「おう、ありがとよ。刮目かつもくしてな」

 手刀で拘束の腕を斬り払う。

「大役のヒロイン、アルミリアだろ。どんなに凄い演技かなぁ」

 耳朶みみたぶをもみゅもみゅと摘み、丸められる。

「練習の成果は全部出すから」

 頭を振りかぶってそれから逃れる。

「でも本当に楽しみなのはくるみを初めて見る一年生の反応だけどね〜」

 今度は指先を喉元に滑らせてくる。

「んっ」

 これはマズイ。いろいろと。

「ああ、びっくりするくらいの演技を見せてやる……よッ!」

「どぅはぁっ!」

 肘からゴッと鈍い衝撃が走った。

「うわぁぁぁ、鼻がぁぁ!」

「何なんだお前は!」

 セクハラで訴えるぞ。今の感じ、余裕で勝てるぞ私。

 痛々しい悲鳴をあげ、顔面を覆いながら右へ左へ床をゴロゴロのたうちまわる千紗。それ以上されると我が身が危ないと感じたので背後の鼻っ面に肘鉄をぶちかましてやったのだ。

 私も少なからず痛かった肘をさすりながら、カビが生えたみかんを見るような目を向ける。

 こいつは何がしたいんだ、こんな大事なときに。長い付き合いだが考えが少しもトレースできん。

「先輩、あれ……」

「ううん、見ちゃダメ」

 近くにいた二年生と一年生がまるでタブーに触れたかのようにそそくさと離れて行く。新入生の教育にも悪いし、私も一緒だと思われたらイヤだな。ここで存在ごと消しておこうか。

「おい、ヤベェ奴に見られてるよ」

「をぉーん、鼻がぁ」

「そろそろ起きろ」

「折れたぁ、折れたぁ」

「あ、染谷部長が呼んでる」

「何ッ!」

 突然、鮮やかなネックスプリングで起き上がり(何でできんだよ)、慌てて部長の姿を探すカビみかん。そんな彼女に私は冷たく一言「嘘」と突きつけた。

「あ〜騙した〜」

「さも痛そうなフリして私を騙そうとしてたのは誰ですかね」

 千紗は特に何もなかったようにけろっとして私をぎゃんぎゃん喚いて指差す。

 さっきの痛がりようは心配のあまり誰かがいつ声をかけてもおかしくないくらいリアルな演技だったが、この私から言わせればオーバー過ぎだ。それに普段の千紗を加味すればおふざけだと容易に分かる。

 恐ろしく上手い演技、私じゃないと見逃しちゃうね。

「おま、部長で釣るのはずるいだろ。もしホントにホントで行かなかったら、どれくらいどやされるか分かってんのか⁉︎ 鮮血の海だぞ。阿鼻叫喚だぞ」

「へーへー、そうっすか。で、用事は何?」

 鮮血云々はめんどくさいのでテキトーに流す。

「暇だから応援ついでに遊びにきたの」

「うん、応援は嬉しいけど遊ぶな。てか暇ならオーディション受けりゃいいじゃん。さっきの海岸に打ち上げられた魚の演技、上手だったよ」

「いやいやあんたらみたいに大勢の目に晒されるなんて耐えられんわ。一生裏方、縁の下の力持ち、演者さんリスペクトって感じ」

 正面に立って、わざとらしく二拍手一礼。

「てかお前、さっきの魚じゃねぇかんな。ホントに鼻、マジで痛ぇかんな。はしもとか〜ん——ぐふっ!」

 おっといけない。膝が勝手に千紗の腹へ吸い込まれてしまったわ。

 苦悶の表情で大きく態勢を歪めた千紗はへなへなと倒れ伏してしまった。そこにはもう「……ざく……どむ……」と遺言とも呪詛ともつかぬ言葉を吐く物体があるだけだ。

 演劇を縁に親睦を深めてきた千紗だが実は演者ではなく裏方に名を連ねているのだ。それもかなりできる奴として。一年生で入部してから徹底して裏方しかしていない。その働きぶりは一流といってもよく、痒いところに手が届くように演者に合わせてくれる。先輩や先生にも一目置かれる存在であり、裏方を取り仕切る染谷部長の右腕も務めている。本人曰く、あくまでも演者を立てるのが楽しいらしく、演技の方は絶対にやらないと決めているそう。

「裏方は今日一日見てるだけだからな。審査員でもないし暇なんだよ」

 千紗は数十秒後にはやっぱり何もなかったように起き、やれやれといった感じ手を扇いだ。

「だからって演者さんの邪魔しちゃダメだからね」

「はいよー、仕方ない。新一年でも」

「だから邪魔すんな」

「え、まだ何も言ってないやん……」

 あ。

 ふと千紗の肩越しに壁際を見る。するとそこには例の一年生が一人、乙坂さんが寄り掛かっていた。しばらく見つめていると顔を上げた乙坂さんと目が合ったのだが、頼りなさげな彼女はすぐに目を落としてしまった。

「じゃあね、ちゃんと大人しく見ててよ」

「えーもうちょっと構ってよ〜」

「ハウス!」

「くぅ〜ん」

 私は千紗と一旦別れ、壁際に向かった。目的は彼女だ。さっきの様子から察するに、まぁそういうことなのだろう。自分のできることなら喜んで力になろう。

「乙坂さん久しぶり〜」

「あ、せ、先輩お久しぶりで……えっ⁉︎」

 私は乙坂さんの前に立って数秒、頭にポンっと手を置き、左右に動かして撫で始めた。

「せ、先輩⁉︎ なななな何ですか⁉︎」

「んん? だって乙坂さんまた緊張してるでしょ? 分かりやすすぎだもん」

「ええ⁉︎ でも……」

「いいから、いいから」

「うぅ……」

「リラックス」

 なでなで。

 赤面して恥ずかしそうに俯く乙坂さんを自分の小さい頃を思い出しながら優しく労わる。最初は肩に力をいれていた彼女だが、五往復ぐらいにはすっかり安心して、安らかな呼吸が聞こえてきた。周りの賑わいが嘘のように遠く感じられて、可愛らしい息吹だけが辺りを漂う。他の人から見たら結構シュールな光景だろう。

 それにしても、乙坂さんの髪綺麗だな。撫でてるだけでも手のひらが気持ちいいし。何かケアとかしてるのかな。

 そう考えたときには、気になるあまり指で彼女の髪をすくっていた。指にかけた髪の小束を親指でさする。

 すごい、この柔らかさ、絹糸みたいって言えばいいのかな。滑らかでいつまでも触ってたいけど、触り過ぎると壊れてしまいそうで……

「先輩」

「え、ああごめん。あまりにも髪が綺麗でさ。どう? 緊張解けた?」

 つい夢中になって、本来の目的を忘れるところだった。

「はい……大丈夫です。で、ですけど恥ずかしくて逆に……うぅんもう! 何て言えばいいか分からないです!」

「あれ、逆効果……だったかな?」

「それは……ありがとうございます。緊張はすっかり解けました」

 何故だか乙坂さんはぶっきらぼうに言った。

「怒ってる?」

「怒ってないです! さぁもう行きましょう」

 語気を強めると、私を置いて歩いて行ってしまう。

 あれ、乙坂さん今……笑ってた?

「ああちょっと待って!」

 そんな疑問もすぐに消し飛ばして隣に追いつく。

「乙坂さんは何の役を目指してるの?」

「えっと私はレオンです。主人公の」

 ほー。てっぺん目指すね。

 私の思惑を裏切って、志望は主人公。客観的に見て受かるかどうかは……う〜んという感じだが、チャレンジするのも悪くはないだろう。強者揃いの我が部の先輩に挑むその姿勢、讃えられるべきだ。

 先輩は応援するぞ(ニッコリ)。

「一年生から主人公希望か。なるほど、乙坂さんなら男役でもぴったりだね」

 何の他意もなく、純粋にそう思って言っただけなのだが、続いて返された言葉に焦らずにはいられない。

「それってもしかして私は女の子っぽくないってことですか?」

 またやらかした。失言だったかも。

「ええ、ちち違うの! そんな訳じゃなくてね……」

 くっ、相手は一つ下の女子なのに男が似合うなんて言葉は失礼かもしれない。何を考えてるんだ私は。演劇のやり過ぎで一般的な価値観を失ったか。 

 必死に弁明を図るが取り繕えば取り繕うほど口がまわらなくなる。乙坂さんからの視線が真っ直ぐで痛い。それに耐えられなくなり、次第に顔を背けたとき。

「ふふふ、冗談ですよ。自分でも分かってます」

 乙坂さんは不敵に笑い、私はキョトンとした。

「中学生の頃ぐらいから演じるのはこの身長とかが活かせる男役ですから。長いことやってるので自分の適正は分かってます」

「そ、そうだよね、小学生から演劇してるって言ってたから自分の役分かるよね。よく考えればそっか、うん」

 良かった〜。何か最近会話の失敗多いから気をつけないと。日本語って難しい。

 改めて乙坂さんの男役について誤解の無いように気をつけながら自分の意見を述べる。

「で、でもね初めて会ったときからただの『女の子』って感じじゃないなって思ったの。容姿というか何というか。ん〜イケメン感? 極端に言えば宝塚?」

「ええ? イケメンって言われたのは初めてですね。でも結構嬉しいかもです」

「女の子っぽくないってわけじゃないからね。乙坂さんの演技楽しみにしてるから」

「はい、頑張ります。えっと先輩はアルミリア役ですよね。千紗先輩から聞きました。私もエースの演技楽しみにしてます」

 乙坂さんはにやりと口角を上げた。

「ああ、さては千紗がまた有る事無い事吹き込んだでしょ」

「ふふ、仲良いですよね」

「全くあいつはマジの悪友だよ」

「羨ましいものです。それじゃレオンのが始まりそうなので行きますね」

「うん、それじゃあ頑張ってね!」

 手をグッとして見送る。乙坂さんは明るい表情で控え室に入って行った。その足取りはしっかりしている。

 あの様子だと緊張はすっかりほぐれてるな。私が来た甲斐があってよかったよかった。それじゃ審査席につくとするか!




 結論からいうと私は問題なくアルミリアの座を獲得することができた。競争相手は三年生一人に一年生一人で彼女らの演技も決して劣らず素晴らしかったが、私の本気の意思を具現化したような演技で封じることに成功。一年生と先輩には悪いがここは何があっても譲ることはできない。

 ということで私に関して言えば無事にヒロインゲット万々歳。

 それよりも特筆すべきは乙坂さんの演技だろう。

 私はそれに度肝を抜かれ、目の前の光景を信じることができなかったのだ。

 まず入場したとき。

「乙坂凛さん」

 ステージ下から白金先生のコールがかかったが、乙坂さんは入場して来なかった。

 否、入場して来たのが乙坂さんだと誰もが気がつかなかったのだ。

「え、誰?」

「あの大人しそうな子?」

「人が変わったみたいじゃん」

 観客の囁き声を諌めたかったが、内心私もそこに混ざりたかった。私も同じ反応だったからだ。

 凛々しい眼差しをたたえ、力強く踏みしめる一歩一歩。平生とは別人にしか思えないその姿に私を含め多くの部員が目を見開いていた。名簿上の私が知ってる乙坂さんとステージ上の乙坂と名乗る人物を恐らく十数回は照らし合わせただろう。それほどまでに彼女の表情、一挙手一投足そして醸し出されるオーラが違った。

 そして会場全員の注目を一身に背負った彼女は満を持してその唇を開いた。

「アルミリア‼︎」 

 緊張したときの怯えにも似た震えを一切感じさせないその声は覇気に溢れ、私の脳を大鐘を打つように震わせた。忠臣として膝を折り、手をかざすその姿。それはまさしくアルミリアの前に現れたプリンスだった。

貴女あなたを心から愛しております。この愛、貴女と神に誓いましょう」

 慈愛に満ちたそんな優しい声で愛をささやかれて何も思わない人はまずいないだろう。厳正な判断をせねばならない私も例外ではなく、彼女から発せられる暖かさを帯びた声に揺られていた。まるで氷漬けにされて生気が通っていなかった心の一部が融けだす、言葉にすればよく分からなくなるが、そんな感じがしたのだ。

 そんな風にして私は彼女の演技に心を奪われていた。それはもう審査ができないまでに。これは職務怠慢ではない。審査の必要性を感じさせないほどに文句なしなのだ。

 演技前の見ていてつい心配してしまう彼女とは全く別人だった。それは結果にも顕著に現れ、二、三年生の競争者を差し置いてぶっち切りの一位。見事主人公レオンの座を獲得したのだった。

「くるみ先輩! おめでとうございます!」

 オーディションの日程が終了し、配役が全て発表された後、私の元へやって来た乙坂さん。それを私は訝しげな表情で出迎えた。未だにさっきの光景が信じられない。

「えっと、乙坂さん?」

「はい、何ですか?」

「今は乙坂さん?」

「私はいつも私ですよ」

「さっきのも乙坂さん?」

「ああ、そういうことですね」

 乙坂さんは私が言いたいことを察したらしく納得の表情。

「いつもの私と演技中の私が違うって事ですよね」

 私はぶんぶんぶんと顔を上下に振る。

「あれはどういうことなのでしょうか……?」

 畏まって謎に敬語になる。

 目の前にいるのは人間じゃないのかもしれない。たまたま今は乙坂凛の姿をしている神に近い上位的な何かである可能性がある。だったら私は今すぐ土下座してお賽銭するだろう。お賽銭でいいのかは不明。

「ん〜あれ……何でしょう、演劇やるときの覚醒状態的な……」

 は……?

「何というか〜演技始めるとき心のスイッチ? みたいなのを切り替えるんですよ、パチって」

 人差し指でスイッチを切り替えるジェスチャーをしながらもどかしそうに言葉を絞った。

「……やる気スイッチ?」

「そんな感じですかね。そうすると魅せてやるぞ! ってなって、緊張しなくなって不思議と伸び伸び堂々とできるんです」

「何かヤバい……」

 凄すぎて私の語彙力までヤバい。今の私は相当間抜けな顔をしてるだろう。

 演技の覚醒スイッチ? 何だそれは。私が演劇の世界に入り込んで早数年、そんな伝説、どの書物でもネット記事でも見たことも聞いたこともないぞ。というかそれチートやん。私にもちょーだいよ、それ。

「でもそのスイッチが入るまでがいっつも本当に大変なんです。心臓バクバクで。今日は先輩が落ち着かせてくれたおかげですぐに切り替えられました。もうほんとに感謝です」

「はぁ、役に立てたなら良かったよ」

 正直、高次元の話過ぎて反応に困る。

 天はこんなにも素晴らしい才をお与えになることがあるのか……

「そんなことより先輩、アルミリア役おめでとうございます! 先輩と一緒に主役になれて良かったです!」

「あ、ありがとうね」

 上位存在から賞賛のお言葉を賜ったことで、ようやく自分でもついていける話題にレベルが下がった。

「先輩の演技、感動しました。本当に王女が乗り移ったみたいで……」

「いやいや乙坂さんの方が凄かったよ」

「いえ! だって先輩の王の間で王と対峙たいじしたときの演技。あの手指をこう、わなわな震わせるのとか不安げな目線の動きとか、王女の迷いをよく表してて……」

「え、あれ、気づいたの⁉︎」

 それは白金先生にも言わずに独自でつけた所作しょさだった。行なっていること自体は気づかれないかもしれないが、さりげなく含めることによって自然なアルミリアを表せると思っている。

「そりゃそうですよ。やってない他の人と比べたら、感じられるアルミリアの臨場感が全然違いますもん」

 何かが演技をよりリアルにしているけど、その何かが分からない。それくらいの隠し味的な自然な感じを目標にやっていたのだが見破ってくるとは、正直驚きだ。演じるだけでなく見る側としてもさといとは、やはりこの子は只者ではない。

「私感動しました。先輩ってこんな細かな演技ができるんだなって。普通の人だったらそこまで気が向きませんもん」

「もう誰にも見破られなくて逆に意味ないかなって思ってたんだけど」

 私は嬉しいのと照れくささのあまり襟足を指でねじってしまう。

「あれは分かる人にはちゃんと分かりますよ。ほとんどの人は『すごくリアルだなぁ』くらいだと思いますけど」

「いやぁ自分の密かな工夫に気づいてもらえるとはやってる甲斐があるよ、ありがと」

 通り一遍なものではなく、造詣が深い人の理解ある褒め言葉だとやっぱり嬉しさは段違いだ。

 しかしそこで乙坂さんのその造詣の深さについて率直な疑問が思い浮かんだので尋ねてみる。

「それにしても乙坂さんは一体何者なの?」

「何者って、ただの演劇が大好きな人ですよ」

 何言ってるんだみたいな顔をされる。それはそうだろう。けどそんな風な聞き方しかできなかった。

「うーん中学での成績は?」

 だったらその長年のキャリアに背負った成績を一つの物差しとして乙坂さんの演劇を測るしかない。そう考えて軽い気持ちで尋ねてみたのだが。

「あ、それなら三年生のときに演劇部で全国準優勝しました」

「ゑ……?」

 それだよ‼︎

 だらしなく開いて塞がらない口の代わりに心の中で激しくツッコミを入れる。

 納得だよ! なにがただの演劇好きだ、ヤベェ奴やん! ちくせう。

 どうやらこの演劇部にはとんでもない逸材が入って来たようだ。この子には何から何までとことん驚かされる。一年生だから、初対面が心許こころもとないからとか勝手な理由で判断して舐めていた。ごめんなさい、上位者様。

「えーものすごい経歴持ってんじゃんよ。どうしてそれを言わなかったの?」

「んー過去の経歴を笠に着るって何か変じゃないですか?」

 ぐふっ。

『全国大会出場と女優賞の肩書きを買われたらしく、一応そこのエースとしてやらせてもらってる』

 心の何処かにいた真っ赤に鼻を伸ばした私が倒れた気がする。

「先輩?」

「うん、そうだよね……」

 最近千紗に煽てられてどこかまんざらでもなくなっていたのは否めない。これからは粛々と生きよう……

「明日からもう合わせての練習が始まるそうですよ」

 そうだ。とりあえず今はまだスタートラインに立っただけだ。いよいよ本腰を入れて取り組まねばならない。過去がダメなら新しい栄光を重ねよう。

「そうだね。それじゃ改めてよろしくね、乙坂さん」

「はい! こちらこそお願いします」

 私が右手を出すと乙坂さんはギュッと握り返してくれた。私達二人が主人公ということは、演技する上でのある種のバディというわけだ。

「あとなんですけど……」

 乙坂さんは手を離さぬまま少し視線をずらして口を開いた。

「ん?」

「その……私のことは……り、凛、でいいですよ……先輩が後半にさん付けっておかしいですもん……ね⁉︎」

「うん? 私は別に気にしてないよ?」

「え? あ、え、その……」

 急に乙坂さんは困りだした。どうしたのだろうか。

「えっと……その……そう! 折角せっかくお友達ってことになったので凛でいいです!」

「ううん、乙坂さんがそうしたいならいいけど?」

「そそそうしたいっていうか、そうした方が自然かなーっていうか? あはは」

 乙坂さんは勢い良くまくし立て始めた。

 なんか乙坂さん、初めて会ったときに戻ってない? やっぱりさっきのは別人?

 いや、ここで侮ってはいけない。人は見た目で判断しちゃいけないというのはさっき思い知ったばかりだ。もしかしたら今も何かを演じている説だってある。

「んー乙坂さんは呼び方とか気にするタイプだったりする?」

「え? あ、はい気になっちゃうんですよねーなんかー」

「おっけ。そういうことなら。よろしくね凛!」

「はい!」

 凛はなんだか嬉しそうなので私も良しとしよう。

「先輩って家はどちらの方なんですか?」

「方向は駅のほうだよ。凛は?」

「良かった、私も駅方向なんです。それじゃ一緒に帰りませんか?」

「うんいいよ」

 私はいつも一緒に帰る千紗に断ってから凛とともに帰路についた。

 道中の話は今まで話すことができなかった分の埋め合わせかのように会話が弾んだ。中学生の凛の演劇や私の演技など話題は自然と演劇の方に偏ったが、活き活きと語り、私の演劇の思い出に真摯に耳を傾けるその姿を見ると、いかに演劇が好きかが分かる。しかしただ好きなだけではなく、その話の着眼点や的を射ている意見からは彼女の才能を窺うこともできる。

 凛といれば私の演技もさらにスキルアップできるかな。

「凛達って今日から下校時間が私達と同じなんでしょ?」

「そうなんですよ。ようやく長く練習できるんです。家を空ける時間も長くなるのは残念ですけどね〜」

 凛は心底待ちわびたという様子だが、長時間練習に思うところはあるようだ。しかし主役を引き受けた以上、そこは飲み込んでもらわなければならない。

「私達も今日で課外期間が終わったから明日からフルで練習できるの」

「そうなんですか! それは良かったです」

 凛は嬉しそうにこちらに向き直った。

 やっぱり相手がいたほうがいい練習になるもんね。

「明日から一緒に練習、楽しみだね」

「え⁉︎」

「練習相手がいるとはかどるから」

「えあぁ、そうですね。捗りますからね」

 そのまま駄弁りながら駅前まで行き、そこからはそれぞれの帰る場所を目指した。

 また明日も一緒に帰れたらいいな。

 凛とは話が合うことが多く、これからも有意義な時間を過ごせるだろう。一人で歩く帰り道、脚を一歩動かすごとに明日を待ち遠しく思う気持ちが募っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る