第一幕
私は地域の私立高校に通う高校生、
この春からは高校二年生になったし、もっともっと頑張らなくっちゃ。新一年生のお手本にもならなきゃだし。
そんな決意を握り締めて最近張り切りっぱなしの私は今日、新たな後輩ができる入学式の日を迎えた。天気も快晴、桜も満開、絶好の入学式日和だ。
「私たちも先輩になるのか〜」
「くるみ、ここんところずぅーっとそればっかり」
「だって後輩できるの嬉しいじゃん。中学校なんて、小学校で一緒だったあの子が中学生かーみたいで先輩後輩あんまりなかったでしょ。高校は知らない人ばっかりが後輩だから良いんだよ、人間関係広がるみたいな」
「まぁそれは一理あるな、それは思ってた。でもあんたが呼ばれるとき、くるみセンパイ! って言われんじゃない? 可愛らしい名前で威厳なくね」
「ちょっと何それ〜」
ボランティアやら検定やらのポスターが貼ってある廊下を
「千紗は千紗センパイ? あ! 略してちっぱいだぁ〜!」
「おうおう、喧嘩売ってんのか、あ?」
からかうと千紗はヤンキーっぽく拳を作り、シュッシュッとシャドウボクシングで私を相手取る。
身長低いからミスマッチ感すごいな。てか喧嘩もなにも千紗はちっぱいじゃないでしょ、私よりあるのに……
言葉にすると悲しくなるので心にしまっておく。
「二年か〜大変だな〜」
「早いね〜もう二年生だよ。この前入学したと思ったばっかりなのに」
時の流れをしみじみと感じながら私が言う。
「なに、もう歳? そんなおばあちゃんみたいな」
「違うよ、千紗は感じない?」
「私はまだ華の高校生なので」
「むぅ、私だって高校生ですよぉう」
適当な会話をしながら廊下を進む。早めに教室を出たので、周りに人影はない。比較的大きめの声でも問題なさそうだ。
川の流れで洗われる岩のように私の体に沿って前方に風が抜ける。それに乗って私と千紗の間を桜の花びらがひとひら。
屋内なのに花びらが舞ってるとは、どこかの窓が開いててそこから迷い込んだのかな。
はらはらと楽しそうなほど自由なピンクの妖精を目で追いながら歩いていると、それは不意にスピードを上げて、距離を離されてしまった。
「あっ……」
そして少し先の一人の女子生徒の肩にふわっと止まる。
ん? どうしたんだろう。
女の子は廊下の分かれ道で辺りを見回してオロオロしていた。学年ごとに割り当てられた上履きの色から察するに新一年生のようだ。
新一年生はまだ教室で待機のはずだけど、困ってそうなので声をかけることにしよう。
「君!」
女の子が肩をビクッと震わせこちらに気づく。私達がパタパタと近づくと目を泳がせ始めた。
「君新一年生だよね? ここでどうしたの?」
「はいっ⁉︎ え、あの……えと……」
何やら緊張しているようだ。
「わわわ……」
それも並大抵ではないしどろもどろさで、手を高速で縦に振っている。それはまさにスティックを手にしたドラマーのよう。人見知りなのだろうか、このままでは会話ができそうにないのでまずは落ち着かせる必要がありそうだ。
「ええと、まずは落ち着こうか、ね。はい、深呼吸〜」
「えぁ、はい」
安心させるべく、驚かせないように優しく肩に手を置いてあげる。それとは別に少し離れてニヤニヤしている千紗を横目でちらりと捉えた。
す〜〜ふぅ〜〜。
女の子の
まぁさっきの様子を考えればとても女傑とは言えないけど。
「吸って〜吐いて〜。どう、落ち着いた?」
「だ、大丈夫です。落ち着きました。ありがとうございます」
そう微笑むとぺこりと頭を下げた。
「それでさっきはどうしたのかな?」
「あ、その……トイレに来たら元の教室が分からなくなってしまいまして……」
体の前で手を組み、モジモジしながら答えた。
「ん? トイレで帰り道が分からなくなったの?」
そんなマンガみたいなことがあるとは。
「はい、えと……すごく急いでいたもので……通りすがりの先生に聞いてここに。だけどここの学校複雑で……」
「あーそう言えばそうだよね、ここ」
離れていた千紗が思い出したように声を上げた。
確かにうちの学校は立体的な階段があったり、渡り廊下が交差してたりと芸術的なことは認めるが妙にややこしい造りをしている。私達は慣れているが、初めてだと大変なのかもしれない。これも全て謎の趣味を持つうちの校長が原因だ。いつも独特な世界観のオーラを放っている強キャラにしてこの学校の長。中でもすごいのは中庭としてある和風庭園とそこに飾られている銅像だろう。二宮金次郎とか偉人ではなく謎のロボット像なのだ。
それでも毎年受験倍率は高いらしいんだけどね。
「それもそっか。まあ一年生の教室はあっちに進んで、あの階段を上がって、渡り廊下を渡って、それから……」
私は女の子が教室に戻れるように帰り道を説明する。女の子はさっきとは違い落ち着いて耳を傾けてきた。さっきは初日で迷子になってる時に先輩に話しかけられたのだ。私でも緊張するかもしれない。
しかし説明してて改めて思う。
複雑すぎん? この学校。
「なるほど。分かりました。ご、ご親切にありがとうございます」
「気にしないで、下級生を助けるのは先輩の務めだからね」
早速先輩感あって嬉しいし。
「は、はい、優しい先輩でよかったです。それでは失礼します!」
最初の固くなっていた顔とは見違えるように別れを告げた。
「このまま進んで、階段登って……」
そして、さっき教えた道をつぶやきながら歩いて行った。
う〜ん、ルックスと行動のギャップがすごいなぁ。黙っていればイケメン少女(?)なんだけど。
「いやぁ〜流石くるみ先輩っすね〜。早速ポイントゲットですか?」
女の子が遠くの階段へ消えたところで千紗が斜め下から顔を覗き込んできた。
「えっへん! 偉いでしょ。もう二年生なんだから」
腰に手を当て、胸を張る。ピタゴラ的なスイッチの偉い人のポーズだ。
下級生のお助けをするとは何と清々しいんだろう。今の私は海よりも広い寛大な気持……
「ふっ……無い……」
「あぁ?」
刹那、般若の形相で千紗に詰め寄る。
「何か言ったぁ?」
「ナニモイッテマセン」
「そう!」
私は満面の笑みを浮かべ、再び良い先輩のスタートを切った感傷に浸る。
優しい先輩。
その言葉が私の中で何度も跳ね返っては実感と充実の火花を散らした。
「て、てかさっきの子すごいよね。トイレ行ったら道に迷うってマンガみたい」
「それな! 私もちょうど思ったの〜」
「おお、気が合うじゃない」
千紗がすかさず話題を変えると、会話が弾みだす。
私達は射し込む日光で暖まった廊下をまた歩き始めた。
ふと窓の外に目をやると、中庭を挟んだ反対側の廊下でさっきの女の子が横切って行くのが見えた気がした。
あれ? さっき階段登ってたよね?
「桜のかほりがするな……いい風だ……おはよう! 諸君。諸君らの我が校への着任に際して、祝辞の言葉、即ち! おめでとうという言葉を送ろう! 我々は諸君らの着任を心から歓迎する! 諸君らはきっと数多の厳しい訓練と試験をくぐり抜けここに来たのだろう。だが! 決してここが終わりではない! 諸君らはこれからさらなる——」
壁に紅白幕が張られ歓迎ムード一色の体育館。壇上では女性が握り拳を片手に熱弁をふるっている。この学校の校長、
一年間生活してるけど、やっぱりあの人はよく分からないなぁ。てか教育委員会的にはどうなんだろう。
性格は特異に塊みたいな存在だが、一からこの学校を創設しただけあって、
周りを見てみると、あの校長に驚いている人はそんなに多くないようだ。入学生もその保護者もきっと事前の入学者説明会で目にしたからだろう。もっとも、説明会での彼らの戸惑いようは想像するのに
かと思えば私の前列では既に男子一名が睡魔にされるがままになっている。あの校長の前で居眠りできるとは余程図太い神経の持ち主か昨晩に夜更かししたかのどちらかだ。もし見つかればビームでも飛んできそうなのに、よくもそんな醜態を晒していられるものだと呆れてしまう。
私はパイプ椅子のお粗末なクッションにやられたお尻を重心をずらすことで労わった。
今年の入学生は私達より多いらしいけど演劇部には何人くらい入部するんだろうな。中学でも演劇やってたような人が多く来ると嬉しいんだけど。
「以上をもって私からの祝辞として代えさせて頂く」
やっぱりどこの学校も校長先生の話は長いものなのかなぁ。
「入学生起立。礼」
司会者の言葉がスピーカーから響き、それに合わせて入学生はザッと立ち上がり礼をする。校長先生はというと頭を下げる代わりにビシィッと効果音がつくかと思う敬礼をして、「諸君らの健闘を期待する」と返した。
どこかの軍隊みたい。
その後も式典は粛々と進み、校長祝辞以外の目立ったこともなく(校長先生が目立ちすぎではあるが)入学生退場を迎えた。退場のBGMが流れ始め、体育館にいる人が拍手を打ち鳴らす。私も周りに従いながら一人一人と視界に入っては退場口へ外れていく入学生をぼんやりと見つめる。
「お」
そんな中に先程助けた女の子を見つけた。やはりあのルックスと高身長のため文字通り一つ抜きん出ている。
女の子の顔を見ていると、向こうもこちらに気づいたらしく固い顔からぎこちなく笑顔をほころばせた。どうやら入学式でまた緊張していたようだ。私もニッコリと笑顔を返して見送る。
目を合わせられたのは一瞬だったが、不思議と長く見つめ合っていた気がする。
是非とも仲良くなりたいんだけど、クラスも名前も分からないし難しいかなぁ。名前聞いておけば良かった。でもま、いつかすれ違ったりして会えるでしょ。目立つから見つけやすいし。
思考をプラスに切り替えて、これからに期待しながら入学式を終えた。しかしその期待の瞬間は意外にもすぐ訪れたのだった。
マジか、こんなにも早く会えるなんてビックリ……
まだ入学式の余韻が冷めぬ放課後、私は今演劇部の部室にいる。それも朝助けた女の子の前にだ。
「それではみなさん静かに」
演劇部顧問の
「みなさん午前中の入学式お疲れ様でした。それでですね、ここに並んでいる一年生が事前の入学者説明会から演劇部に入部希望を出していた新部員になります」
白金先生は、少し緊張した面持ちの一年生を手で示しながら説明した。説明を耳に入れつつ今朝の女の子を見ると、彼女は直立不動で先生の方を向いていた。
偶然というか何というか。
また会えるのは当分先だと思っていたため部室に入ったときには心底驚いた。驚いたのは向こうも同じようで、私を見つけた瞬間「えっ」という声とともに戸惑いと嬉しさが入り混じったような顔をしていた。
あの顔はもしかして向こうも私に会いたいと思ってたのかも。それだったら嬉しいな。
少し自惚れが過ぎるだろうか。
しかし演劇部に来るとは完全に盲点だった。緊張と焦りであたふたと落ち着かない姿を見て、人前に進んで立たなければならない演劇部に来る可能性を無意識に除外していたのかもしれない。
「ええと、それじゃあ自己紹介をしましょうか。では一年生、右から順にお願いね」
演劇部の黒板の前には五人の一年生が横並びの列を作っている。現時点では二年生八人に対して少ないものの、まだ体験入部期間があるのでこれで確定ではないだろう。
「初めまして。私は一年……」
右端の一年生から自己紹介が始まった。今朝の女の子は左端なので自己紹介は最後だろう。
これから一緒に活動していくんだから、他の人の名前もきっちり覚えないと。
テンポよく各々の名前やクラス、経歴、意気込みなどが発表される。予想はしていたが事前に入部希望を出していただけあって、全員が小さい頃から演劇をしているとか、地域の劇団に所属しているとかだ。これは目覚ましい活躍に期待できるかもしれない。
四人の自己紹介が終わり、遂に順番が回った。女の子はしずしずと一歩踏み出し、機械仕掛けのようなお辞儀をする。
あ、緊張してる。すっごく分かりやすい。
「は、初めまして。えと、一年四組の
ぱらぱらぱらと拍手が響いた。
乙坂凛さん……小学生からか。キャリアすごいな。
名前とクラスを脳裏に刻みつける。新しい友達をつくるチャンス。逃すわけにはいかない。
「これから一緒に活動していく仲間ですのでよろしくね。じゃあ次は二年生、三年生の自己紹介にしましょうか」
白金先生が司会進行する。
「最初は部長さんから。お願いね」
先生のすぐ横に腰掛けていた女子生徒がすっくと立ち上がった。
「私がこの演劇部の部長を務めている
ときたま茶々が入れられたりして和やかなムードがつくられながら、多い人数を消化するため一年生よりも早いペースで自己紹介が進む。ちなみに三年生は七人所属しており、二年生と合わせて十五人、部としては平均的な所帯だ。
「では次は桜木さん」
そしてあっという間に私の番になった。
別に舞台じゃないんだから自然に。
席を立つと同時に周りの視線が一斉に集まるのを感じる。自分を取り巻く空気がまるで重い粘土で私の型を取るように肌に貼りついてくるような。そんな言葉でしか説明できない『見られる』という不思議な感覚。人の注目をこうして意識できるようになったのも演劇を始めてからだ。
「みなさんこんにちは。二年二組の桜木くるみです。中一から演劇を続けてます。えっと愛がテーマの劇が好みだったりします。早くみなさんと演技できたら良いなって思ってますのでよろしくお願いします」
よしよし無難無難。
そのまま何事もなく席に戻ろうとしたその時。
「え、それで終わりぃ? もっと言うことあんでしょ。ほら、エースやってるんで
「ええ、じ、自分で言ったらおかしいでしょ! てか私そんな言い方しないもん! け、決して普段はそんなキャラじゃないからね、みんな! 勘違いしないでね!」
千紗がすかさず、からかってきて部屋に笑い声が響いた。
うぅ恥ずかしい。スケバンって思われたらどうしよ。
「あーあ。おもろ。えっと、この子の演技ホントすごいんで覚悟してね。んで私は七瀬千紗、二年二組。明るい雰囲気でやってるんで……まぁそんな感じでよろしくね」
混乱というか騒がしさに乗じて、さらっと自己紹介を終えてしまった千紗が拍手の音と共に着席する。変に視線を浴びてやりにくくなることを嫌ったのか、注目管理が上手い。
私をダシにしながら勝手にハードル上げやがって……
横を見ると千紗がにへらっと笑ってきたので、思わず真顔で静かに肘打ちを入れてしまった。
「ぐふぉっ」
千紗は苦しげに腰を折り、その隣が席を立つ。
そんなこんなで残る人の紹介も終わって、部活の紹介、説明をして今日の活動は一区切りだ。
「今日は新入生との顔合わせということで、終わりです。二、三年生はまだ続けますが、一年生はほかより早く下校時間が決まってるはずなので時間までに帰るように。よろしいですね? では一旦お疲れ様でした」
「「「お疲れ様でした〜」」」
ガヤガヤと部員達が席を立つ。
「あ、来週のオーディションに向けての練習は明日から開始ですので〜」
先生が忘れかけたように伝えた。
私はとにかく話をしたいがため速足に乙坂さんのもとへ向かう。
「乙坂さん、やっほ〜」
「あ、桜木先輩……ですよね。今朝はありがとうございました。まさか演劇部だったなんて驚きました」
「それはこっちのセリフだよ。乙坂さんってその……うっかりさんっていうか、落ち着かないっていうか……。まさか演劇なんて思わなくって」
「そ、そうですよね……」
すると乙坂さんは見るからにしょんぼりする。
「ああ! ごめんごめん! 別に悪く言うつもりは無かったんだ。その意外……そう、ギャップがすごいなって」
「大丈夫ですよ。よく言われるので……」
ヤバい、名前を聞いてからの初手がこんな風になっちゃうなんて。
「で、その……朝の出会いとか、同じ部活になったのも何かの縁っていうことでお友達になれたらいいなぁとか思ったりして」
「お友達……私なんかでいいんですか?」
「もちろんだよ。寧ろお願いしますって感じかな。LINEとかは……」
「こ、交換しますか?」
「是非とも!」
私がはしゃぐように喜ぶと乙坂さんも今日イチの笑顔を向けてくれた。少しおぼつかない手を使ってポケットからスマホを引っ張り出す。やらかしちゃったかと思ったが案外いい雰囲気なので一安心。
「初めての場所で仲良くできる人が居ればすごしやすいので私も嬉しいです」
「そりゃ良かった! ウィンウィンってやつだね」
「それと……」
「……?」
「えっと、何だが桜木先輩だと親しみやすさを感じるんです。朝見た通り私極度のあがり症なんですけど、先輩が落ち着かせてくれたら治まったんです」
乙坂さんは胸に両手を当てた。自分の心を他者に伝えるため、言葉を探しながら、確かに一歩ずつ伝えてくれる。
「いつもは止まらなくって……もっと苦労してるんですよ。今日も入学式とかさっきの自己紹介だって。でも先輩のこと見てからいくらか落ち着いてっていうか、こうぽわぁっていうか。自分でも不思議なんですけど……」
「そんな〜買い被りだよ。私はそんな特殊スキルは身につけてないし」
そんなあがり症なのに演劇をやってるのかという一抹の疑問を抱きつつ謙遜する。事実そんなことを言われたのは初めてなのでうまい返しが思いつかない。
「きっと先輩の明るい雰囲気がそうさせてくれてるんですね」
「もう〜褒めても何もでないよ。それだったらさ……」
「おーい、桜木。オーディションについてちょっといいか?」
談笑していると私を呼ぶ部長、染谷先輩の声が聞こえてきた。
「あーごめんね。ちょっと行ってくる」
「大丈夫です。というか自分もそろそろ下校時間なので」
乙坂さんはスマホで時間を確かめる。
「じゃあお話はまた今度にしよっか」
「了解です。今日は何から何まで本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。それじゃ気をつけて帰ってね」
手を振りながら、お疲れと告げてから染谷先輩の元に急いだ。
——でも先輩のこと見てからいくらか落ち着いて——
——きっと先輩の明るい雰囲気がそうさせてくれてるんですよ——
……良かった。
私はうまく役を立ち回れているようだ。乙坂さんがくれた言葉が私の心をポッと暖めてくれる。他者を受け入れ、その腕を広げる。きっと二人もこんな感覚を抱いていたのだろう。でも……
「おい、桜木」
でも、空いた穴から吹く隙間風が絶えることはない。風は意地悪く、折角暖まった心を冷やそうとぶつかってくる。私はいつかこの隙間を塞げるのだろうか。
「はい! なんでしょう、先輩!」
愛用カバンから年季を感じさせるストラップがついた鍵を取り出す。一応周りに誰もいないことを確認してから、鍵を挿しガチャリと回すとドアは滑らかに道を開けた。
三日月が綺麗に浮かぶ午後七時半、私は部活を終え自分のアパートに帰り着いた。春といっても流石にこの時間は暗い。夜道を歩くことに抵抗感を覚えるが、幸いにもこの辺は町の中心部なので電灯や歩道はちゃんと整備され、人や車の往来は中々だ。町外れの方から通う人に比べれば恵まれているだろう。
「ただいま」と入り扉を閉める。それに次いでちゃんと鍵もかけた。朝に脱いだときと同じ位置を保つスリッパに足を通し、シンとした廊下、自分の部屋に向かう。
今日のやることはえっと……食料品の注文か。洗濯は明日でいいや。
フローリング中央に敷かれたカーペットとその上のローテーブル。壁際にはベッドや勉強机、埋め込み本棚など設備は充分な自室だ。勉強机にカバンを下ろしスマホに通知がないことを確認した私はキッチンへ。
今日の夕飯は〜っと。この前伯母さんが作ってくれた冷凍カレーがあるな。おかずは昨日つくったスープでいいや。
冷蔵庫から朝炊いたご飯、伯母のカレー、昨日のスープを取り出す。ご飯は小ぶりなお茶碗からカレーが盛れる大皿に移してから順番に電子レンジへ。最後のカレーは冷凍してあるぶん、タイマーを長くセット。夕飯はいつも通りのこんな感じでいいだろう。
三分ほどの手持ち無沙汰。スマホでもいじろうと自分の部屋に行こうとすると、棚に目が止まる。
あ、ちゃんと言ってなかったな。
棚の前まで進み、目を閉じる。そして手を合わせ、
「ただいま。お父さん、お母さん」
棚の上には造花で飾られた二つの立派な額縁。その中には衰えを感じさせない
チーン。
しばらくそのままでいると電子レンジの合図が聞こえてくる。この音も悲しいことに生活の一部になってしまった。
スマホはいいや、ご飯食べよ〜。今日は面白そうな番組はあるかな。
リモコンをひっつかんで音の鳴った方へ向かう。結局夕飯はクイズバラエティ番組であれこれ思案しながらスプーンを進めた。やはり伯母のカレーは絶品だ。自己流のスパイスの賜物だろう。私も真似してみているのだが残念ながらできる
やっぱり特訓してもらわなきゃダメかな……あぁ美味。
二十分程で「ごちそうさま」を言い、皿を洗い、炊飯器の予約を翌朝にする。食物繊維が取れる麦ご飯だ。そして歯磨き後にはシャワーを浴びるためお風呂場へ。それら全てを終えて壁の時計を見るとその針は九時に差し掛かろうとしていた。
早! 注文も宿題もやらなきゃなのに!
焦りから髪を乾かすドライヤーをやめ、代わりに乾いたタオルを頭に乗っけてから机に向かう。今日はできれば変更が入ったセリフの確認がしたいのだ。かと言って夜更かしは決してしない。てかできない。私は夜が弱いので遅くに何かしようものなら、台本を枕にして机で朝日を拝むことになる。
私はガサガサと注文書を取り出した。カタログから欲しいものを記し、配達員に渡せば次の週には商品が届くという素晴らしいシステム。カタログには食料品や生活必需品、消耗品などなんでもござれで、買い物に行く暇もない私は大変重宝している。配達は私の代わりに一階の大家さんが対応してくれる。改めて大家さんと便利な世の中に感謝の念を抱きつつシャーペンを滑らせる。
冷凍ハンバーグに冷凍コロッケ、豚挽肉、人参。来週はホワイトシチューが食べたいからじゃがいもと牛乳も買っとこうかな。この前ボディソープを詰め替えたから買っといて。あ、トイレの電球ってあったっけ?
私は電球に『大特価』とデカデカ書かれた記事を目にし、数週間前にトイレの電球を換えたことを思い出した。
あったかもしれないけどサイズが違うかもな……う〜ん確認するか。
そんなに頻繁に換えるものでもあるまいし値段もそこそこ張るのでとりあえず買っとこうという考えにはならない。今現在ストックが一個あれば十分だろう。そう考えダイニングキッチンの開き戸に向かう。小さいものの収納スペースだ。
「探し物はなんですか〜♪ 見つけにくいものですか〜♪」
何かを探すときの定番テーマを口ずさんで漁ること数分、目的のものは見つかった。
あった、あった。サイズは……
しかしその姿を見ることはできても手にすることはできない。取り出そうとするも周りのものが私の手を隔てうまく取れないのだ。
む〜取れん。誰だこんな奥に仕舞ったのは。ええい、そこをどけぇい。桜木くるみの御前であるぞ。
大方昔の私の仕業だろうが、悔いたところでどうにもならないので、仕方なく手前から一つ一つ取り除いていく。この経験を忘れず、今度からは取りやすいように置いとかねば。
開き戸に空間ができるのに反比例して私の周りは物で埋まっていった。そうして周りがフリーマーケットのように散らかったとき、ようやく電球を捕まえることに成功する。苦心して捕まえた電球のサイズは問題は無し。これなら新たに買う必要はないだろう。
これにて任務達成! なんだけど、これを片付けなきゃなぁ。
自分の周りを見渡して少し憂鬱。電池やらカイロやらクリアファイルやら。もう使わないだろうと見受けられるもの多数。また同じ思いをしないように丁寧に片付けていこう。そう考え手近なクリアファイルを手に取る。
書類関係の棚は隣なんだけど、いつ間違えたかな。
そのときクリアファイルの中身が滑り出てしまった。散らかった床がさらに散らかる。
「あーあ、もう、大惨事だ。全く……」
私の目がばら撒かれた書類の中にある封筒を真っ直ぐ捉えた。
瞬間息を呑む。
身体の奥に冷たいものが落ちるのを感じる。
可愛らしい柄にハートのシールで封がされた封筒。それは私の過去の記憶の覚醒を促した。
私は……あれを知っている。遠くて、深い奥底で……憶えている。
今まで記憶の底に埋もれていた封筒に手を伸ばす。私の手は微かに震えていた。封筒の表には少し歪み、未だ幼さを感じる文字で「お母さんとお父さんへ」と記されている。
慎重に封を開けて中の便箋を取り出すとそこには封筒の文字と同じような拙い文字が羅列されている。間違いない。これは私が小学六年生の時にお母さんとお父さんに宛てた手紙だ。卒業記念に親子で手紙を交換するという企画のもの。
手紙の交換……
『くるみ、もう読み終わった?』
確かその時の母は自分たちの手紙を読ませた後に、預からせてほしいと頼んできたはずだ。親子の手紙をまとめて保管したいからという理由だった気がする。だとしたら……
私は床の書類の中から別の封筒を急いで探す。床一面が白くなり足の踏み場が無くなるが構いもせず一心不乱に漁る。
この近く……この辺に……。
本来の目的なんてとっくにどうでもよかった。私には今思い出さなければならないものがある。
しかしどれだけ念入りに探しても見つからない。逸る気持ちのまま他の場所を探そうと立ち上がったとき、膝から滑り落ちた私の封筒がまだほんの少しの厚みを持っていることに気づいた。落ちた封筒を拾い上げ、中を覗くと「くるみへ」と書かれた一回り小さい封筒が見える。
「これだ……」
そっと取り出して確認する。一度だけ見たはずの、動物がプリントされている封筒。封として貼られた星シールの周りは少し剥げて毛羽立っていた。粘着力は最早弱く容易に開けることができ、中には封筒と同じデザインの便箋があった。便箋の真ん中に真っ直ぐのびる線。それより上にはお母さんの丸い文字、下にはお父さんのクセが強い文字。
心臓が早鐘を打つ。私は深呼吸をしてから数年ぶりにまた読み始めた。
目に飛び込んでくる二人の文字。それらは頭の中でそれぞれの声で再生される。忘れもしないお母さんとお父さんの声。私の将来と家族みんなの幸せへの祈りが綴られている。
しかしその後者が実現することは決して無い。もうみんなで笑い合うことはできないのだ。
『くるみが立派で心優しい人になることを願っています』
便箋が震え出した。
違う、私の手が勝手に震え出したのだ。
小学六年生の私はこれを読んだとき何を思ったのだろう。ここに書かれたことは約束されたことであると妄信していただろう。実現しないとは疑いもしなかったはずだ。幸せな未来を来るべくして来ると。しかしそれは間違いだった。絶対など無い。
『これからも家族仲良く暮らそうね』
しゃくり上げる声が漏れる。視界が滲み始め文字を映すことができなくなってきた。その一方で脳裏には過去の思い出が鮮明に映し出される。多くは小さいときの二人によく甘えた思い出。
『しょうがないなぁ、くるみは』
そう言いつつ頭を撫で、抱きしめてくれた。大きくなっても私は甘えん坊のままだったがそれでも愛情を持って受け入れてくれた。
頭の中が飽和状態になってくる。心のダムは悲しみを抑えきれず決壊し始めてボロボロだった。溢れた悲しみは嗚咽と涙と震えに変換されていく。思考が保てない。
「お……母さ……お……父……さん……」
涙が滴り落ち、スカートに染みが一つ二つとできる。私は便箋を両手で掴み強く胸に押し当てた。
会いたいよ。会ってそのまま飛び込んで、抱き締めて、胸の中で泣きたい。
だけどもそれは叶わない。
誰か……私を……私を受け止めて……
悲哀の渦の中しばらく私は独りで泣き続けた。
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