うさぎ⑤
○
竹本和菓子店を辞去して御堂神社の前まで帰ってきたはいいが、鳥居をくぐれずにいた。
日が沈んでしまったというのに、神社の前を行ったり来たりしている。かの子の脳裏には、朔に言われた言葉があった。
必要とされているのなら、竹本和菓子店に戻ったほうがいい。おまえは、おまえの人生を歩め。
応援してもらった気でいたが、実は、体よく神社を追い出されただけではないだろうか? 今になって思い返してみると、気の利いた別れ文句にも、厄介払いされたようにも感じる。
だんだん、そんな気がしてきた。考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってきた。
「……どうしよう」
そう
「姫っ!? 姫ではございませぬかっ!? お久しゅうございますっ! もう二度と会えぬと思っておりましたぞ!」
「な、な、何よ。もう帰って来たの? 仕方のないかの子ですわね!」
どこからともなく、くろまるとしぐれが現れたのだった。最後に会ってから半日ちょっとしか経っていないのに、ひどく懐かしい。ふたりの顔を見て、ほっとしたせいだろう。とうとう涙をこぼしてしまった。
「しぐれっ! 姫が泣いておりますぞっ!」
「ど、ど、どうしたのよっ!? どこか痛いのですのっ!?」
病気だと決めつけられそうになった。
「そうじゃないの」
蚊の鳴くような声で答えて、正直に、朔に厄介払いされた気がすると話した。彼の気持ちが分からないとも言った。
すると、ふたりが
「若の考えていることは、我にも分かりませぬぞ」
「くろまる、あんたは何も分からないのね。よく家令を名乗れますわ」
「では、しぐれは分かるのでございますか?」
「……分からないわ」
一緒に暮らしている
「頭を使いすぎて、お腹が
「そうね。かの子がどうしてもと言うのなら、わたくしも、お菓子を食べてあげてもよろしくてよ」
「作るのはいいけど──」
「決まりでございますなっ!」
「かのこ庵に行きますわよっ!」
逆らえない勢いがあった。ふたりに引っ張られるようにして店に着いた。
「勝手に使うのは、まずいと思うんだけど」
自分は、ここを出ていった身だ。かのこ庵の所有者は朔なのだ。常識的に考えて問題があるだろう。
だが、
「黙っていれば分かりませんぞっ!」
「その通りよ。朔は、自分の部屋にこもっていますわっ!」
あたかも正論であるかのように強い口調で言われ、結局、押し切られてしまった。かの子は、およそ半日ぶりに作業場に入った。自分の家に帰ってきたように、気持ちが落ち着いた。ここで働きたい、と改めて思った。
「わたくし、外におりますわ。和菓子ができるまで、待ってやらないこともなくてよ」
「
ふたりは出ていき、かの子はうさぎ
店前の縁台に運び、くろまるとしぐれの前に置いた。
「か、可愛くないこともなくてよ!」
「逸品でございますな!」
気に入ってくれたようだ。だが、お茶がなかった。うっかり忘れていた。ふたりは文句を言わないだろうけれど、和菓子にお茶は付きものだ。
「
そう断って、店内に戻った。慌てたせいでお盆を落として音を立ててしまったが、ちゃんと緑茶を淹れることはできた。
そのお茶をお盆に載せて、ふたたび外に出ようとしたときだ。二頭の犬の鳴き声が聞こえてきた。
「わんっ!」
「わんっ!」
天丸と地丸の声だ。おそるおそる窓の外をのぞくと、くろまるとしぐれが取り押さえられていた。
そして、朔がやって来た。
○
「事情は分かった」
朔は返事をした。かの子が帰ってくる。竹本和菓子店ではなく、かのこ庵を選んだのだ。御堂神社に住み、ここで働きたいと言っている。
お帰り、と言葉をかけようとしたとき、しぐれとくろまるが騒ぎ始めた。
「かの子が、どうしても帰って来たいそうですわよ!」
「若、めでとうございますな!」
その言葉が
「ふん。帰って来なくていいものを」
言わなくても、いい言葉だった。
(まずい)
そう思ったときには、遅かった。かの子が顔を伏せた。そして、肩が小刻みに震え始めた。泣かせてしまったようだ。
どうしていいか分からなかった。困った顔さえできない自分は、さぞや嫌な男に見えるだろう。
どうしようもない鎮守の
「かの子、泣いてはいけませんわっ! 今のはアレよっ!? アレ! そういう意味じゃありませんわっ!」
「そうですぞ、姫っ! アレですぞっ! アレ!」
勢いだけでフォローになっていない。朔以上にうろたえていた。まさか、かの子が泣くと思っていなかったようだ。
かの子が傷ついたのは事実だ。肩を震わせて泣くほど傷つけてしまったのだから、きちんと謝るべきだろう。朔は歩み寄り、そして気づいた。
「……何のつもりだ?」
問い詰めるように、かの子に言ったのだった。
「わ、若っ!?」
「ちょっと──」
くろまるとしぐれが慌てた。泣いているかの子を、朔が責めようとしていると思ったのだろう。
だが、違う。かの子は、泣いていなかった。声を立てないように、肩を震わせて笑っていた。
眷属ふたりも、そのことに気づいたらしく、不思議そうに顔を見合わせた。
「どういうことなのかしら?」
「はて?」
聞きたいのは、朔のほうだ。泣いていないのはよかったが、肩を震わせるほどに笑う場面とも思えない。かの子の顔は、やけにうれしそうだった。
「何がおかしい?」
「おかしいだなんて──」
打ち消そうとしているらしいが、かの子はしつこく笑っている。だんだん腹が立ってきた。
「笑っている理由を聞かせてもらおうか?」
「だって、ねこご」
かの子は答えたが、聞いたことのない言葉だった。もちろん、意味も分からない。
「ねこご?」
「はい。ねこごだったんです」
かの子の表情は明るく、幸せそうにさえ見えた。「帰って来なくていいものを」と言われたことがうれしいのだろうか?
女心は分からないと言うけれど、ここまで不可解なものだとは思わなかった。思わず腕を組むと、眷属と式神たちが騒ぎ出した。
「若、姫! お客どのが参りましたぞ!」
「商売でございますわ!」
「わんっ!」
「わんっ!」
神社のほうを見ると、いつかの三毛猫の姿をした妖が、かのこ庵に向かってきていた。また困ったことがあったらしく、あのときよりも、しょんぼりしている。
御堂神社には、悩み事を抱えた妖や幽霊が訪れる。彼らの力になるのが、鎮守である朔の役目だ。
大金を使ってかのこ庵を作ったのは、かの子と縁を結ぶためだけではない。落ち込んでいる妖や幽霊を元気づけるために、彼女の力が必要だと思ったからだ。
朔には〝力〟があるけれど、世の中の悩み事すべてを解決できるわけではない。力が及ばず、どうしようもないこともたくさんあった。逆恨みを受けたこともある。報われないことも多い仕事だ。鎮守じゃなかったら、今も両親と一緒に暮らしていただろう。
だけど、鎮守をやめようとは思わない。どうしようもないことから目を
理不尽な運命や親しい者の死に立ち向かうのは、生きている者の役目だ。ときには逃げてもいいが、生きている以上、逃げてばかりはいられない。向き合わなければならない瞬間が訪れる。
人は、がんばらなければ生きていけない。妖や幽霊だって同じだ。前を向かなければ転んでしまう。
神社も和菓子も、がんばって生きるものの手助けをする。転んだときには、起き上がれるように手を差し伸べる。朔も、手を差し伸べてもらった者の一人だ。
目の前には、朔と三毛猫を救ってくれたうさぎ饅頭がある。この和菓子には、やさしい気持ちが込められている。
杏崎玄が死んでしまった今、これを作れるのは、この世に一人しかいない。朔は、その一人に声をかけた。
「かの子、店を始めるぞ。休んでいる暇はない。一億円分、きっちり働いてもらうからな」
彼女の作る和菓子には、きっと一億円の価値がある。朔はそう信じていた。
「借金は一億円ではありませんわ。一億一千万円でしてよ」
しぐれが訂正して、かの子が「ええ……」と
いずれ、かの子は神社から離れていくだろう。人間相手の店に戻るかもしれないし、それこそ秩父に修業に行くかもしれない。
この神社から離れることのできない朔と別れる日は、絶対にやって来る。住んでいる世界が違うのだから──自分は鎮守なのだから仕方のないことだ。
でも、今は一緒にいられる。もう少し、この時間が続けば、自分も笑えるようになるのかもしれない。そんなふうに思った。
あやかし和菓子処かのこ庵 噓つきは猫の始まりです 高橋由太/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。【話題の新作!①巻丸読み】あやかし和菓子処かのこ庵 嘘つきは猫の始まりです/高橋由太の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます