うさぎ⑤

   ○


 竹本和菓子店を辞去して御堂神社の前まで帰ってきたはいいが、鳥居をくぐれずにいた。

 日が沈んでしまったというのに、神社の前を行ったり来たりしている。かの子の脳裏には、朔に言われた言葉があった。


 必要とされているのなら、竹本和菓子店に戻ったほうがいい。おまえは、おまえの人生を歩め。


 応援してもらった気でいたが、実は、体よく神社を追い出されただけではないだろうか? 今になって思い返してみると、気の利いた別れ文句にも、厄介払いされたようにも感じる。

 だんだん、そんな気がしてきた。考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってきた。

「……どうしよう」

 そうつぶやいたときだ。二つの声が飛んできた。

「姫っ!? 姫ではございませぬかっ!? お久しゅうございますっ! もう二度と会えぬと思っておりましたぞ!」

「な、な、何よ。もう帰って来たの? 仕方のないかの子ですわね!」

 どこからともなく、くろまるとしぐれが現れたのだった。最後に会ってから半日ちょっとしか経っていないのに、ひどく懐かしい。ふたりの顔を見て、ほっとしたせいだろう。とうとう涙をこぼしてしまった。

「しぐれっ! 姫が泣いておりますぞっ!」

「ど、ど、どうしたのよっ!? どこか痛いのですのっ!?」

 病気だと決めつけられそうになった。

「そうじゃないの」

 蚊の鳴くような声で答えて、正直に、朔に厄介払いされた気がすると話した。彼の気持ちが分からないとも言った。

 すると、ふたりがまゆを寄せるような顔をした。

「若の考えていることは、我にも分かりませぬぞ」

「くろまる、あんたは何も分からないのね。よく家令を名乗れますわ」

「では、しぐれは分かるのでございますか?」

「……分からないわ」

 一緒に暮らしているけんぞくでも、見当をつけられないようだ。かの子の悩みは解決しなかった。さんにんで考え込んでいたが、五分もしないうちに、くろまるとしぐれが言い出した。

「頭を使いすぎて、お腹がきましたぞ! 姫、何か作ってくだされ! 我は菓子を所望いたしまするっ!」

「そうね。かの子がどうしてもと言うのなら、わたくしも、お菓子を食べてあげてもよろしくてよ」

「作るのはいいけど──」

「決まりでございますなっ!」

「かのこ庵に行きますわよっ!」

 逆らえない勢いがあった。ふたりに引っ張られるようにして店に着いた。

「勝手に使うのは、まずいと思うんだけど」

 自分は、ここを出ていった身だ。かのこ庵の所有者は朔なのだ。常識的に考えて問題があるだろう。

 だが、あやかしと幽霊は常識など気にしなかった。

「黙っていれば分かりませんぞっ!」

「その通りよ。朔は、自分の部屋にこもっていますわっ!」

 あたかも正論であるかのように強い口調で言われ、結局、押し切られてしまった。かの子は、およそ半日ぶりに作業場に入った。自分の家に帰ってきたように、気持ちが落ち着いた。ここで働きたい、と改めて思った。

「わたくし、外におりますわ。和菓子ができるまで、待ってやらないこともなくてよ」

美味おいしいのを頼みますぞ!」

 ふたりは出ていき、かの子はうさぎまんじゆうを作った。祖父がよく作っていた和菓子の一つだ。

 店前の縁台に運び、くろまるとしぐれの前に置いた。

「か、可愛くないこともなくてよ!」

「逸品でございますな!」

 気に入ってくれたようだ。だが、お茶がなかった。うっかり忘れていた。ふたりは文句を言わないだろうけれど、和菓子にお茶は付きものだ。

れてくる」

 そう断って、店内に戻った。慌てたせいでお盆を落として音を立ててしまったが、ちゃんと緑茶を淹れることはできた。

 そのお茶をお盆に載せて、ふたたび外に出ようとしたときだ。二頭の犬の鳴き声が聞こえてきた。

「わんっ!」

「わんっ!」

 天丸と地丸の声だ。おそるおそる窓の外をのぞくと、くろまるとしぐれが取り押さえられていた。

 そして、朔がやって来た。


    ○


「事情は分かった」

 朔は返事をした。かの子が帰ってくる。竹本和菓子店ではなく、かのこ庵を選んだのだ。御堂神社に住み、ここで働きたいと言っている。

 お帰り、と言葉をかけようとしたとき、しぐれとくろまるが騒ぎ始めた。

「かの子が、どうしても帰って来たいそうですわよ!」

「若、めでとうございますな!」

 その言葉がかんに障った。かの子を待っていたことを見透かされたと思ったのかもしれない。照れもあっただろう。柄にもなく言い返してしまった。

「ふん。帰って来なくていいものを」

 言わなくても、いい言葉だった。

(まずい)

 そう思ったときには、遅かった。かの子が顔を伏せた。そして、肩が小刻みに震え始めた。泣かせてしまったようだ。

 どうしていいか分からなかった。困った顔さえできない自分は、さぞや嫌な男に見えるだろう。

 どうしようもない鎮守のしりぬぐいをすべく、しぐれとくろまるがフォローに入ってくれた。

「かの子、泣いてはいけませんわっ! 今のはアレよっ!? アレ! そういう意味じゃありませんわっ!」

「そうですぞ、姫っ! アレですぞっ! アレ!」

 勢いだけでフォローになっていない。朔以上にうろたえていた。まさか、かの子が泣くと思っていなかったようだ。

 かの子が傷ついたのは事実だ。肩を震わせて泣くほど傷つけてしまったのだから、きちんと謝るべきだろう。朔は歩み寄り、そして気づいた。

「……何のつもりだ?」

 問い詰めるように、かの子に言ったのだった。

「わ、若っ!?」

「ちょっと──」

 くろまるとしぐれが慌てた。泣いているかの子を、朔が責めようとしていると思ったのだろう。

 だが、違う。かの子は、泣いていなかった。声を立てないように、肩を震わせて笑っていた。

 眷属ふたりも、そのことに気づいたらしく、不思議そうに顔を見合わせた。

「どういうことなのかしら?」

「はて?」

 聞きたいのは、朔のほうだ。泣いていないのはよかったが、肩を震わせるほどに笑う場面とも思えない。かの子の顔は、やけにうれしそうだった。

「何がおかしい?」

「おかしいだなんて──」

 打ち消そうとしているらしいが、かの子はしつこく笑っている。だんだん腹が立ってきた。

「笑っている理由を聞かせてもらおうか?」

「だって、

 かの子は答えたが、聞いたことのない言葉だった。もちろん、意味も分からない。

「ねこご?」

「はい。ねこごだったんです」

 かの子の表情は明るく、幸せそうにさえ見えた。「帰って来なくていいものを」と言われたことがうれしいのだろうか?

 女心は分からないと言うけれど、ここまで不可解なものだとは思わなかった。思わず腕を組むと、眷属と式神たちが騒ぎ出した。

「若、姫! お客どのが参りましたぞ!」

「商売でございますわ!」

「わんっ!」

「わんっ!」

 神社のほうを見ると、いつかの三毛猫の姿をした妖が、かのこ庵に向かってきていた。また困ったことがあったらしく、あのときよりも、しょんぼりしている。

 御堂神社には、悩み事を抱えた妖や幽霊が訪れる。彼らの力になるのが、鎮守である朔の役目だ。

 大金を使ってかのこ庵を作ったのは、かの子と縁を結ぶためだけではない。落ち込んでいる妖や幽霊を元気づけるために、彼女の力が必要だと思ったからだ。

 朔には〝力〟があるけれど、世の中の悩み事すべてを解決できるわけではない。力が及ばず、どうしようもないこともたくさんあった。逆恨みを受けたこともある。報われないことも多い仕事だ。鎮守じゃなかったら、今も両親と一緒に暮らしていただろう。

 だけど、鎮守をやめようとは思わない。どうしようもないことから目をらそうとも思わない。

 理不尽な運命や親しい者の死に立ち向かうのは、生きている者の役目だ。ときには逃げてもいいが、生きている以上、逃げてばかりはいられない。向き合わなければならない瞬間が訪れる。

 人は、がんばらなければ生きていけない。妖や幽霊だって同じだ。前を向かなければ転んでしまう。

 神社も和菓子も、がんばって生きるの手助けをする。転んだときには、起き上がれるように手を差し伸べる。朔も、手を差し伸べてもらった者の一人だ。

 目の前には、朔と三毛猫を救ってくれたうさぎ饅頭がある。この和菓子には、やさしい気持ちが込められている。

 杏崎玄が死んでしまった今、これを作れるのは、この世に一人しかいない。朔は、その一人に声をかけた。

「かの子、店を始めるぞ。休んでいる暇はない。一億円分、きっちり働いてもらうからな」

 彼女の作る和菓子には、きっと一億円の価値がある。朔はそう信じていた。

「借金は一億円ではありませんわ。一億一千万円でしてよ」

 しぐれが訂正して、かの子が「ええ……」とへこんだ声を出した。その様子が、おかしかった。

 いずれ、かの子は神社から離れていくだろう。人間相手の店に戻るかもしれないし、それこそ秩父に修業に行くかもしれない。

 この神社から離れることのできない朔と別れる日は、絶対にやって来る。住んでいる世界が違うのだから──自分は鎮守なのだから仕方のないことだ。

 でも、今は一緒にいられる。もう少し、この時間が続けば、自分も笑えるようになるのかもしれない。そんなふうに思った。

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あやかし和菓子処かのこ庵 噓つきは猫の始まりです 高橋由太/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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