うさぎ③

    ○


 少女からもらった饅頭は、その場では食べなかった。夜になるのを待って、くろまるとしぐれと分けた。そして、ふたりに頭を下げた。

「未熟な鎮守に力を貸して欲しい」

 今まで一度も言ったことがなかった台詞せりふだ。くろまるとしぐれは驚いた顔をしたが、すぐに返事をした。

「若っ! いくらでも貸しますぞっ!」

「し、仕方ありませんわっ! 力を貸してあげないこともなくてよっ!」

 ふたりは、朔の両親がいなくなったことに責任を感じて落ち込んでいた。ずっと、しょんぼりしていた。それが、この日を境に元気を取り戻した。少女からもらったうさぎ饅頭のおかげだ。

 朔は相変わらず笑うことができないけれど、がんばって生きてきた。いつか、ふたたび、両親やあの少女に会える日が来ると信じて暮らしてきた。

 その望みは、半分だけかなった。父母にはまだ会えずにいるが、大人の女性になった少女とは再会することができた。しかし、彼女はこの神社に来たことをおぼえていないようだった。

 このあたりには、たくさんの神社があるし、幼いころの記憶はおぼろげなものだ。かすかにはおぼえているようだが、まだ朔のことを思い出してはいない。


 杏崎かの子。


 朔がその名前を知ったのは、五年前のことだ。一人の老人が神社にやって来た。近くの病院から抜け出して来たらしく、病と薬のにおいがした。その老人こそが、少女の祖父だった。うさぎ饅頭を作った張本人でもある。

「もう長くないと医者に言われました」

 神社の拝殿に手を合わせながら、自分の運命を語った。息子夫婦が交通事故で死んでしまったことや、孫娘が和菓子職人になったことも聞いた。饅頭茶漬けの話を聞いたのも、このときだ。

 おのれの死期が迫っているというのに、老人が気にしていたのは孫娘のことばかりだった。少女の行く末を心配し、少女の幸せだけを祈っていた。


 あの子が困っていたら、どうか、力になってやってください。

 泣かないように見守ってやってください。

 鎮守さまのご加護がありますように。


 この老人が死ぬと、少女は独りぼっちになってしまう。朔と違い、両親と会うこともできない。

 だが自分には、他人の運命を変える力などない。自分の母親の苦しみさえ取り除くことができなかったのだから、自分の無力さは承知している。

 骨の髄まで分かっていたのに、拝殿に手を合わせる老人から目をらせなかった。老人を──少女を助けたいと思っている自分に気づいた。その気持ちを抑えることはできなかった。

 朔は、姿を見せた。いきなり現れたのに、老人は驚かなかった。あやかしと話すことのできる少女の祖父なのだ。普通の人間にはない力を持っているのかもしれない。鎮守だということにも気づいたようだ。

「おまえの孫が、独りぼっちにならないように全力を尽くそう」

 そう約束した。それから、一億円を貸したことにして、かのこ庵を建てた。少女と縁を結び、困ったときに力になるためだ。

 老人の借金は、孫娘を独りぼっちにしないためのものだった。朔自身、少女が困らなければ、借用書を見せるつもりはなかった。もちろん借金を取り立てるつもりもない。

 やがて老人は他界し、大人になった少女は日本橋の和菓子店で働き始めた。朔は、声をかけることなく見守っていた。

 このまま朔を必要とすることなく時間がすぎていくかと思ったとき、事件が起こった。少女は、仕事と住居を失ってしまったのだ。しかも、全財産をひったくりに奪われようとしていた。

 老人との約束を果たすときが訪れた。見守るだけの自分に踏ん切りをつけて、天丸と地丸を使役した。

 こうして少女──かの子と出会った。かのこ庵の店長を任せ、神社で一緒に暮らすことになった。

 でも、その役割も終わった。あっという間に終わってしまった。一緒に暮らす必要もなくなった。かの子は、もう独りぼっちではない。

 一度は仕事を失ったが、自分の力で取り戻した。和菓子作りの腕も名人に認められている。

 心配することは何もない。朔がいなくても、やっていけるだろう。

 最初から朔がいなくても大丈夫だったのかもしれない。


    ○


 日が沈み、夜がやって来た。妖や幽霊にとっては、一日の始まりだ。

 くろまるとしぐれは、鎮守の森のどこかにいるようだ。いつもはうるさく話しかけてくるのに、姿を見せさえしない。朔がかの子を引き留めなかったことに、しつこく腹を立てているのだろう。

「話になりませぬぞ!」

「わたくし、今日はお休みをいただきますわ!」

 そんな台詞を言っていた。

 ふたりの気持ちは理解できたが、かの子には帰る場所があるのだ。誰もがうらやむような仕事場もある。一人前の和菓子職人になるという夢もある。自分の道を進もうとする人間の邪魔はできない。

 この日、神社に参拝客はなかった。妖や幽霊が訪ねて来ないと、やることが何もない。

 自分の部屋で、かのこ庵のことを考える。かの子がいなくなった以上、あやかし和菓子処は閉店だ。和菓子を作る人間がいないのだから、さっさと取り壊すべきだろう。

「客はひとりだけだったな」

 そうつぶやいたときだった。神社の敷地で物音が鳴った。鎮守である朔は、遠くの音も聞こえる。

「何の音だ?」

 問うように呟いた。静かな神社で異音は珍しい。しかも、かのこ庵のほうから聞こえた。

「誰かいるな」

 意識を集中させると、人の気配があった。妖や幽霊ではない、人間の気配だ。こそこそと、かのこ庵に入っていこうとしている。

 戸締まりはしていないし、結界を張るのも忘れた。店に入るのは簡単だ。人間の子どもでも忍び込める。

 かの子のスポーツバッグをひったくった男が思い浮かんだ。最近は物騒で、不届き者も多い。さいせんを盗まれたりと、神社が荒らされる話も珍しくない世の中だ。

「盗っ人だな。いい度胸だ」

 舌打ちするように呟き、懐から白と黒の短冊を手に取った。

「天丸、地丸。出番だ」

 投げてもいないのに、白と黒の短冊がひらひら、ひらひらと舞い上がった。朔は、それらに向かって命じた。

「不届き者を八つ裂きにしろ」

 二枚の短冊は、瞬く間に二頭の大きな犬となり、音もなく着地しえた。

「わんっ!」

「わんっ!」

 いつもより凶暴な顔をしていた。人間どころか、妖さえ八つ裂きにしそうだ。

 式神は、操り手の陰陽師──つまり、朔の心のありようを映し出す。この凶暴な顔が、自分の気持ちなのだ。

 そう思った瞬間、いくらか冷静になった。八つ裂きにするのは、まずい。不届き者がどうなろうと知ったことではないが、神社をけがしてしまうのは問題がある。朔は命令を改めた。

「生け捕りにしろ。怪我もさせるな」

 天丸と地丸が、残念そうな顔をした。だが、逆らわない。

「……わん」

「……わん」

 渋々といった風情で返事をし、かのこ庵のほうへ駆け出した。

 安倍晴明の式神には及ばないだろうが、天丸と地丸も強いようりよくを持っている。人間相手なら、ものの三秒でボロ切れ同然にできる。生け捕りにすることなど、朝飯前だ。

「わんっ!」

「わんっ!」

 に飛びかかったような気配があった。ドタバタと音も聞こえた。だが、瞬く間に制圧したらしく、すぐに静かになった。手ごたえのない相手だったようだ。

「行ってみるとするか」

 朔は立ち上がり、かのこ庵に向かった。不届き者の顔を拝んでやるつもりだった。

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