うさぎ②

 両親がいなくなって間もなくのことだった。

 夕方すぎ、一匹の三毛猫が神社の境内に入ってこようとしていた。朔には、ただの猫ではないと分かった。たぶん、猫の姿を借りた妖だ。

 たぶんと言ったのは、ようりよくのほとんどを失っていたからだ。くろまると同じように、もう二度と妖の姿には戻れないだろう。もはや、普通の猫と変わりがない。朔の〝力〟をもってしても、もともと何の妖だったのかも分からないほどだ。東京には、こんな猫がたくさんいた。

 三毛猫は、元気がなかった。しょんぼりと身体を丸めて、見るからに意気消沈していた。とぼとぼと神社に続く道を歩き、御堂神社の鳥居をくぐった。神頼みに来たようだ。

 十歳だろうと、親と離れて傷ついていようと、朔は鎮守だ。神社を頼ってきた妖を放っておくことはできない。猫の姿をした妖に事情を聞こうと歩み寄りかけたときのことだ。三毛猫のうしろから声が上がった。

「そっか、お父さんとお母さんがいなくなっちゃったんだ」

 人間の少女の声だった。朔は、とっさに木陰に身を隠した。それと同時に、見知らぬ少女が、三毛猫のうしろから神社の境内に入ってきた。

 少女は、自分より年下みたいだった。人間にしか見えないが、妖である三毛猫としゃべっている。右手に紙袋を持っていた。

「うん。死んじゃった」

 三毛猫が返事をした。少年のような声だった。少女の正体は分からないままだが、三毛猫がしょんぼりしている理由は分かった。

 妖だろうと、永遠に生きるわけではない。病気にもなるし、自動車やバイクにかれて死ぬこともある。

 鎮守の出る幕ではなかった。落ち込んでいる理由が親の死なら、朔にはどうしようもない。死んだものを生き返らせることはできないし、元気づける言葉も持っていない。

 三毛猫に会うことなく本殿に戻ろうとした。それを引き留めるように、少女の声がふたたび聞こえてきた。

「私もね、お父さんとお母さんが死んじゃったの。交通事故にあったんだ。それでね、今はおじいちゃんと二人で暮らしているの」

 朔は、足を止めた。話し方は軽かったが、改めて少女を見ると、涙があふれかけていた。深い悲しみに打ちひしがれているのが分かった。

 それなのに少女は、三毛猫を慰めようとしている。励まそうとしている。あふれ出る涙をこらえるようにして言った。

「でも、がんばるから。がんばって生きていくから」

 がんばるという言葉は、抽象的で中身がないことも多い。それでも──中身がないと分かっていても、言ってしまうときがある。中身のない言葉に寄りかからなければ、立っていられなくなるときがある。

 少女は、それほどの傷を負っているのだ。朔と違い、彼女は二度と両親に会うことができない。

 死は、この世で最も残酷な別れだ。悲しみは、いつまでもえることがない。その悲しみをこらえきれなかったのだろう。少女の目から、涙が頰を伝い落ちた。少女の深い悲しみが伝わってくるような涙だった。

「みゃあ」

 三毛猫が励ますように鳴いた。自分も、がんばろうと思ったようだ。こんな小さな少女が、前を向いて生きていこうとしているのだ。何百年も生きている妖が、意気消沈しているわけにはいかない。

 朔だってそうだ。鎮守としてできることをやらなければならない。がんばらなければならない。そのために神社に残ったのだから。そのために両親と離れたのだから。

「みゃん」

 また、三毛猫が鳴いた。さっきよりも声が明るく、朔には笑って見せたように聞こえた。そして、その気持ちは少女に通じた。

「ありがとう」

 涙をぬぐって微笑み、「あ、そうだ」と独り言を言いながら、右手に持っていた紙袋から和菓子を出した。

「よかったら、これを食べて」

 うさぎに見立てたまんじゆうだった。『月うさぎ』や『雪うさぎ』という名称で売られていることもあるものだ。

「おじいちゃんが作ってくれたの。焼いたかなぐしで耳を描いて、寒天で作った赤い目をつけたんだって」

「みゃ」

「うん。美味おいしそうだよね。でも、おじいちゃんたら、このうさぎの顔が私に似てるって言うんだよ。ひどいよね」

 むくれて見せたが、確かに似ていた。饅頭も少女も愛らしい。

「私に似たお菓子だけど、もらってくれる?」

「みゃん」

 三毛猫はうなずき、うさぎ饅頭を食べた。今度は、誰の目にも明らかなほど、三毛猫の顔がほころんだ。

 でも、何も言わなかった。少女に小さく頭を下げて、ゆっくりと背を向けた。そのまま神社から出ていこうと歩き始めたのだった。

「私もがんばるから、がんばって生きていくから。いつか、また会おうよ」

 少女が声をかけたが、三毛猫は振り返らない。だが、その代わり、しっぽを小さく振った。朔には、指切りげんまんしたように見えた。がんばって生きていくことを、少女といつの日か再会することを約束したのかもしれない。

 三毛猫がいなくなると、少女は座り込んでしまった。両親の死を思い出したのかもしれない。両腕に顔をうずめるようにして、声を殺して泣き始めた。

 見守ることが鎮守の役割なのに、朔は見ていられなかった。気づいたときには、少女のそばに歩み寄り、言葉をかけていた。

「大丈夫?」

「え?」

 少女は驚き、顔を上げた。朔が近づいたことに気づいていなかったようだ。それでも、返事をしてくれた。

「は……はい。だ、大丈夫です」

 そして、朔の顔を見ながら立ち上がった。

 大丈夫なら、それでいい。朔は本殿に戻ろうとした。すると、少女が紙袋を差し出してきた。

「こ、これ。食べてください!」

 真っ赤な顔でそう言われた。朔は反射的に受け取った。ほんの一瞬、自分の手と少女の手が触れた。小さいけれど、温かい手だった。

「ありがとう」

 素直に言葉が出た。

「い……いえっ! それじゃあ、あの……。か、帰りますっ!」

 泣いているところを見られて恥ずかしかったのか、逃げるように神社から出て行った。

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