うさぎ①
御堂家の歴史は古い。家伝を信じれば、安倍晴明まで
それが、どんな
御堂神社には人もやって来るが、その何十倍もの妖や幽霊が訪れる。くろまるやしぐれという
朔が物心ついたときには、すでに祖父母は他界し、父母と自分、くろまる、しぐれで暮らしていた。そのころの朔は今のように無表情ではなかった。両親と一緒の暮らしは幸せで、よく笑っていた。
だけど、誰かが楽しいときには、他の誰かが無理をしていることがある。子どもだった朔は、そのことに気づかなかった。母が無理をしていることに気づかなかった。
陰陽師の血を引く父や朔は、妖だろうと幽霊だろうと怖くない。しかし、母は普通の家庭に生まれた、普通の女だった。妖や幽霊が現れるたびに
人の心は、少しずつ壊れていく。大丈夫、何でもない、と痛みや苦しみを誤魔化しているうちに、手遅れになってしまうこともある。
ある日、母が倒れた。心より先に、身体が悲鳴を上げたのだ。しばらく起き上がることさえできなくなった。
くろまるもしぐれも、他人を疑うことを知らない。母が倒れて初めて、自分たちが怖がられていたことに気づいた。
「貧弱な女を嫁にもらうから、こうなるのですわ! こんなことで倒れるなんて、あり得ませんわ! もう、うんざりですわ! もう付き合いきれなくてよ! 顔も見たくありませんわ! くろまる、ここから出ていくわよ! 眷属なんて、やっていられないわ!」
「御意にございまするっ! 我も愛想が尽きましたぞっ!」
母を怒鳴りつけ、神社から離れようとした。もちろん本気で
このふたりは噓が苦手だ。大声で罵っても、どんな悪態をついても、やさしい気持ちが透けて見えてしまう。
母もしぐれとくろまるの本心に気づいた。
「そんなの駄目! 出て行っちゃ駄目! 絶対に駄目よ!」
必死の形相で止めた。普通の家庭で育った普通の女だが、鎮守の妻として妖や幽霊のことを知っていた。
妖や幽霊のほとんどは、決まった土地でしか暮らせない。特に、長い間、
くろまるとしぐれも例外ではない。ふたりとも、消えてしまう危険があることを承知していた。承知していながら母のために、この神社から立ち去ろうとしていたのだ。
「神社から離れたら消えちゃうっ!」
その声は悲鳴のようだった。母は、くろまるとしぐれのことが好きだった。心やさしい妖と幽霊だということも知っている。
しかし、恐怖は理屈ではない。怖くないと頭で分かっていても、心と身体が怯えていた。ふたりを止めながらも、母の身体は震えている。
「我らがいては、奥方の身体が
「そうよ! 死んじゃうわよ!」
あながち言いすぎではなかった。実際、母の心と身体は限界にきていた。満足に眠ることもできず、食事もままならない。
「大丈夫。あなたたちのことを怖がるほうが間違っているんだから。怖がる必要なんてないんだから。──怖くないわ。もう怖くない」
自分に言い聞かせるように言ったが、母の声は震えていた。
父は、困り果てていた。くろまるとしぐれは眷属として、江戸時代から神社で暮らしている。御堂神社の一部と言っても過言ではなかった。追い出せる存在でもなかったし、情も移っている。父も、くろまるとしぐれが好きだった。大好きだった。
それに、くろまるとしぐれが出ていったところで妖や幽霊が訪ねてくるのだから、何の解決にもならない。
そんなことがあった数日後、母がふたたび倒れた。呼吸がおかしくなり、救急車で病院に運ばれた。幸いにも大事には至らなかったが、心臓がひどく弱っていると医者に言われた。このままだと命にかかわるとさえ言われた。
「これまでか」
父は
朔が十歳のときのことだ。父に問われた。
「神社を頼んでいいか」
質問の意味は、すぐに分かった。父は鎮守を息子の朔に譲り、母と外国に行くことにしたのだ。
もともと、父は〝力〟が弱かった。妖や幽霊を見ることはできたが、例えば、式神は使えない。だから祖父が生きていた間は〝力〟を借り、その後は、まだ幼かった朔の力を当てにした。父一人では、妖や幽霊の訪れる神社を守れないだろう。
「おまえ一人で神社を守って欲しい」
こうなることは分かっていた。いずれ、こう言われるだろうと思っていた。
「いいよ」
朔は、そう答えた。そう言うしかなかった。
母は朔を連れて行きたがったが、鎮守がいなくなってしまう。朔自身も、
そのころから大人びていたが、まだ十歳の子どもだ。両親と離れるのは悲しかった。父母がいなくなってしまうと思うだけで、涙があふれそうになる。寂しくてやり切れない気持ちになる。
しかし、泣くわけにはいかない。自分が悲しむと、くろまるやしぐれが傷つく。神社を訪れる妖や幽霊たちだってそうだ。多くの連中は、母が倒れたことに責任を感じていた。朔が泣くのを見たら悲しむだろう。
だからと言って、笑うことはできない。両親がいなくなってしまうのだから、笑えるはずがなかった。
朔は無力だった。鎮守としての〝力〟を持っていても、悲しい気持ちの前では役に立たない。それでも、自分にできる精一杯のことをやった。
「一人で大丈夫だよ」
朔は、父に噓をついた。
「ぼくは、鎮守だから寂しくないんだ。寂しいなんて思ったこともないし」
母にも噓をついた。
こうして、両親と離れて暮らすことになった。この日から、朔は笑っていない。笑うことができなくなってしまった。
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