草餅③
○
その男性は、白髪を
狐顔でずいぶんと
かの子は、その男性を知っていた。澪も知っていたらしく呼びかけた。
「竹本のおじいちゃんだ!」
和菓子作りの名人、竹本和三郎であった。竹本菓子店の先代──つまり、新の父親だ。さらに言うと、かの子の祖父の弟弟子でもある。
隠居してから店には顔を出さなかったが、会ったことがないわけではない。何度か
その竹本が、病室に入ってきた。こんにちは、と久子と澪に軽く挨拶してから、かの子に声をかけた。
「邪魔したようだね」
言葉遣いの荒かった祖父と違い、竹本は温和なしゃべり方をする。人間国宝級の名人でありながら、威張ったところのない穏やかな性格の持ち主だった。まさに老紳士で、息子の新のように嫌みも言わない。
「いえ。大丈夫です」
そう答えたが、何が大丈夫なのかは謎だ。すっかり緊張していた。竹本和三郎が顔を出すなんて聞いていない。しかも、病室のテーブルには、かの子の作った
さりげなく草餅を隠そうとしたが、間に合わなかった。竹本が目をやり、誰に聞くともなく問うた。
「これは?」
「草餅だよ。かの子お姉ちゃんが作ってくれたの」
澪がバラしてしまった。これだけでもショックなのに、少女はとんでもない提案をしたのだった。
「おじいちゃんも食べようよ」
ここが病室じゃなかったら、叫んでいたところだ。隠居したとはいえ、竹本は日本を代表する和菓子職人の一人だ。祖父の弟弟子だろうと、半人前のかの子にとっては雲の上の存在である。しかも息子に店を譲った後、東京から離れていたこともあり、指導してもらったことも、作った和菓子を見てもらったこともなかった。
そんな人間国宝級の名人が、かの子の作った草餅を見て言った。
「
「うん。すっごく美味しいやつだよ。澪もまだ食べてないけど」
澪がハードルを上げた。恐ろしい
かの子が口を挟む暇もなく、竹本は話を進めた。
「それじゃあ、一つもらおうかね。澪ちゃんも一緒に食べないかい?」
「うん!」
作り主であるかの子を
先に食べ終わったのは澪だ。草餅を一つ完食し、感想を言った。
「美味しい!」
今度こそ、ほっとした。だけど、それは心の底からの安心ではなかった。竹本が気になって仕方なかった。それは、雲の上の存在だからという理由だけではない。この草餅に秘密があった。
母子草は、
名店の味を真似るのは、珍しいことでもなければ責められることでもないのだが、当の父親に出すのは気まずい。ましてや自分は、店を追われた人間なのだ。
草餅を食べ終えた後、竹本がちらりとこっちを見た。その視線で分かった。かの子が味を真似たことに気づいている。
しかし、そこには触れず、草餅を褒めてくれた。
「母子草の香りがいい。よくできているね」
竹本は嫌みを言うタイプではないが、その言葉を素直に受け取っていいのか分からない。どう返事をすべきか迷っていると、澪の声が割り込んできた。
「うちの畑のゴギョウだよ。私が育てたんだ」
草餅を「美味しい」と言ったときより、声が弾んでいる。梅田家の畑の母子草で草餅を作ったことが功を奏したようだ。
ただ、このまま澪が手術に立ち向かえるかは分からない。一時的に元気になっただけで時間が経てば、ふたたび、しゅんとなってしまう可能性もある。お見舞いで
かの子は、澪に言葉をかけたかった。朔やくろまる、しぐれが自分を元気づけてくれたような言葉を、がんばろうと思えるような言葉を澪に贈りたかった。
──手術、がんばってね。
イマイチだ。無難すぎるし、怖がっていた気持ちを思い出してしまうかもしれない。せっかく元気になったのに台なしだ。
言葉をさがして考え込むかの子をよそに、竹本が右手に持っていたとんぼ柄の風呂敷包みをテーブルに置いた。
「おじいちゃんも、お土産を持ってきたんだよ」
「お土産?」
「澪ちゃんのために和菓子を作ったんだ」
そう言いながら、とんぼ柄の風呂敷包みを解いた。すると、菓子折らしき白い箱が現れた。
忘れてはならないことだが、テーブルにはかの子の作った草餅が置いてある。その隣に、竹本和三郎の和菓子の入った箱が並べられたのだ。
(なんてことを……)
「かの子ちゃんも食べてみないかね」
「……ありがとうございます」
他に返事のしようがない。
こうして、かの子は逃げ遅れた。新の味を真似て作った草餅が、竹本和三郎の和菓子と比べられることになったのであった。
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