草餅③

    ○


 その男性は、白髪をれいでつけて、渋い紺色の着物を着ていた。それから右手に、とんぼ柄のしき包みを持っている。

 狐顔でずいぶんとせているが、目鼻立ちが整っていて着物のモデルのようにも見える。定番柄の風呂敷包みさえ上品に見えた。

 かの子は、その男性を知っていた。澪も知っていたらしく呼びかけた。

「竹本のおじいちゃんだ!」

 和菓子作りの名人、竹本和三郎であった。竹本菓子店の先代──つまり、新の父親だ。さらに言うと、かの子の祖父の弟弟子でもある。

 隠居してから店には顔を出さなかったが、会ったことがないわけではない。何度かあいさつをしているし、祖父の葬式にも来てくれた。

 その竹本が、病室に入ってきた。こんにちは、と久子と澪に軽く挨拶してから、かの子に声をかけた。

「邪魔したようだね」

 言葉遣いの荒かった祖父と違い、竹本は温和なしゃべり方をする。人間国宝級の名人でありながら、威張ったところのない穏やかな性格の持ち主だった。まさに老紳士で、息子の新のように嫌みも言わない。

「いえ。大丈夫です」

 そう答えたが、何が大丈夫なのかは謎だ。すっかり緊張していた。竹本和三郎が顔を出すなんて聞いていない。しかも、病室のテーブルには、かの子の作ったくさもちが広げてあった。

 さりげなく草餅を隠そうとしたが、間に合わなかった。竹本が目をやり、誰に聞くともなく問うた。

「これは?」

「草餅だよ。かの子お姉ちゃんが作ってくれたの」

 澪がバラしてしまった。これだけでもショックなのに、少女はとんでもない提案をしたのだった。

「おじいちゃんも食べようよ」

 ここが病室じゃなかったら、叫んでいたところだ。隠居したとはいえ、竹本は日本を代表する和菓子職人の一人だ。祖父の弟弟子だろうと、半人前のかの子にとっては雲の上の存在である。しかも息子に店を譲った後、東京から離れていたこともあり、指導してもらったことも、作った和菓子を見てもらったこともなかった。

 そんな人間国宝級の名人が、かの子の作った草餅を見て言った。

美味おいしそうだねえ」

「うん。すっごく美味しいやつだよ。澪もまだ食べてないけど」

 澪がハードルを上げた。恐ろしい台詞せりふだった。

 かの子が口を挟む暇もなく、竹本は話を進めた。

「それじゃあ、一つもらおうかね。澪ちゃんも一緒に食べないかい?」

「うん!」

 作り主であるかの子をの外に置いて、和気あいあいと食べ始めた。母子草で作った草餅を口に運び、味わうようにしやくする。

 先に食べ終わったのは澪だ。草餅を一つ完食し、感想を言った。

「美味しい!」

 今度こそ、ほっとした。だけど、それは心の底からの安心ではなかった。竹本が気になって仕方なかった。それは、雲の上の存在だからという理由だけではない。この草餅に秘密があった。

 母子草は、よもぎほど香らない。砂糖は控え目にしたほうがいい。言うのは簡単だが、その加減は難しい。経験も必要だ。言い訳するようだけれど、試行錯誤する時間もなかった。だから、かの子は竹本和菓子店の──正確には、新の味を真似た。

 名店の味を真似るのは、珍しいことでもなければ責められることでもないのだが、当の父親に出すのは気まずい。ましてや自分は、店を追われた人間なのだ。

 草餅を食べ終えた後、竹本がちらりとこっちを見た。その視線で分かった。かの子が味を真似たことに気づいている。

 しかし、そこには触れず、草餅を褒めてくれた。

「母子草の香りがいい。よくできているね」

 竹本は嫌みを言うタイプではないが、その言葉を素直に受け取っていいのか分からない。どう返事をすべきか迷っていると、澪の声が割り込んできた。

「うちの畑のゴギョウだよ。私が育てたんだ」

 草餅を「美味しい」と言ったときより、声が弾んでいる。梅田家の畑の母子草で草餅を作ったことが功を奏したようだ。

 ただ、このまま澪が手術に立ち向かえるかは分からない。一時的に元気になっただけで時間が経てば、ふたたび、しゅんとなってしまう可能性もある。お見舞いでにぎわっているときだけ病人が元気なのはよくある話だ。

 かの子は、澪に言葉をかけたかった。朔やくろまる、しぐれが自分を元気づけてくれたような言葉を、がんばろうと思えるような言葉を澪に贈りたかった。

 ──手術、がんばってね。

 イマイチだ。無難すぎるし、怖がっていた気持ちを思い出してしまうかもしれない。せっかく元気になったのに台なしだ。

 言葉をさがして考え込むかの子をよそに、竹本が右手に持っていたとんぼ柄の風呂敷包みをテーブルに置いた。

「おじいちゃんも、お土産を持ってきたんだよ」

「お土産?」

「澪ちゃんのために和菓子を作ったんだ」

 そう言いながら、とんぼ柄の風呂敷包みを解いた。すると、菓子折らしき白い箱が現れた。

 忘れてはならないことだが、テーブルにはかの子の作った草餅が置いてある。その隣に、竹本和三郎の和菓子の入った箱が並べられたのだ。

(なんてことを……)

 うめき声を上げそうになった。隣に置かないで欲しかった。これでは比べられてしまう。この場から逃げ出したかったが、竹本に捕まった。

「かの子ちゃんも食べてみないかね」

「……ありがとうございます」

 他に返事のしようがない。

 こうして、かの子は逃げ遅れた。新の味を真似て作った草餅が、竹本和三郎の和菓子と比べられることになったのであった。

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