草餅②
○
病院は、苦手だ。
特にこの病院に来ると、昔のことを思い出してしまう。記憶の中でしか会えない人たちのことを思い出してしまう。
父母が交通事故にあって、この病院に運ばれて死んだ。
祖父が死んだのも、この病院だ。
大切な人たちと別れた場所だった。
悲しくて、今でも泣いてしまいそうになる。それでも生きていられるのは、〝噓〟のおかげだ。たくさんの猫語のおかげで生きていられる。
人は、噓をつく。卑しい噓もあるが、そのほとんどは違う。他人を思いやるための噓があることを、かの子は知っていた。
例えば病院に行くと、こんな声が聞こえてくる。
──すぐ元気になるニャ。
──たいした病気じゃないニャ。
──簡単な手術ニャ。
──すぐに家に帰れるニャ。
──何の心配もいらないニャ。
猫語をしゃべる人々の顔は、どこまでもやさしかった。
他人を傷つける正直者よりも、やさしい噓つきのほうが好きだ。噓だと分かっていても、人はやさしい言葉に励まされるものだから。
今日は、自分が励ます番だ。だけど言葉で励ますんじゃない。噓もつかない。この手で作った和菓子で笑ってもらう──。
「かの子ちゃん、こっちよ」
病院の廊下を歩きながら、久子が教えてくれた。澪のことが心配で寝ていないらしく、昨日より頰が
いくつかの病室の前を通りすぎ、やがて
梅田澪 様
個室なので、名前は一つしかない。ドアは開け放しになっていた。ドアが閉まっている病室もあるので、あるいは、病状と関係しているのかもしれない。
「澪ちゃん、お見舞いに来たわよ」
久子が呼びかけると、幼い子どもの声が「うん」と答えた。祖母が来るのを待っていたのだろう。返事は早かった。
病室に入りながら、久子はさらに聞く。
「今日は、お客さんがいるの。可愛いお姉さんが、澪ちゃんのお見舞いに来てくれたのよ。入ってもらってもいいかしら?」
「……うん」
ふたたび声が聞こえた。祖母の他に人がいると知って緊張したようだが、お見舞いを拒みはしなかった。
「かの子ちゃん、どうぞ」
そっと深呼吸をして、
「こんにちは」
消毒液のにおいが濃くなった。真っ白なベッドがあって、小柄な女の子が枕に寄りかかるようにして座っていた。髪は短く、見た目はボーイッシュだが、表情が沈んでいる。
「和菓子職人の杏崎かの子です」
自己紹介をしたのはいいけど、自分でも分かるくらい硬かった。言葉も表情も硬すぎる。澪が身構えている。いきなり雰囲気が重くなってしまった。
かの子は口下手だ。また、弟や妹がいないこともあって、子どもの相手には慣れていなかった。
最初の挨拶で
そのとき、小さな奇跡が起こった。しぐれとくろまるの顔が思い浮かび、声が聞こえたのだ。
かの子なら平気ですわニャ。
姫、余裕でございまするニャ。
そうだった。弟と妹はいないが、ふたりがいた。本当はずっと年上だけど、可愛らしいちびっ子たちだ。思い出しただけで頰が緩んだ。
かの子は、しぐれとくろまるに話しかけるつもりで言った。
「今日はお見舞いにお菓子を持ってきたの」
「ありがとうございます」
礼儀正しい少女だった。しぐれのように生意気でも、くろまるのように気難しくもない。ただ、噓もつけないようだ。お菓子なんか食べたくないと、澪の顔に書いてあった。かの子から目を
「澪ちゃん──」
注意しようとする久子を、かの子は目で制した。大丈夫です、と声に出さずに伝えた。
食べたくないと言われるのは、経験したばかりだった。くろまるやしぐれと初めて会ったときなんて、拒絶されて真夜中の鎮守の森に逃げられた。あのときよりは、ずっといい。
「持ってきたお菓子ね、澪ちゃんのおばあちゃんと一緒に作ったのよ」
めげずに話しかけると、すぐに反応があった。
「え? おばあちゃんと?」
「それから、澪ちゃんにも手伝ってもらったの」
そう答えると、ため息をつくように声が沈んだ。
「……私、何もしてないよ」
かの子の言葉にがっかりしたようだ。噓をつかれたと思ったのだろう。大人は、子どもによく噓をつく。そして、子どもは、大人の噓をちゃんと見抜く。『子ども
でも、噓じゃない。かの子は、澪を騙していない。
「ううん。手伝ってもらったの」
かの子は、首を横に振った。持ってきた和菓子は、澪がいなかったら作れなかったものだ。
「これを見てくれれば分かるから」
紙袋から菓子箱を出し、それを開けた。
春のにおいがする。
この和菓子を見せたとき、朔はそう言った。かの子が作ったのは、まさに春の和菓子だった。
「
春の季語にもなっている和菓子を紹介した。
「
あこや
「これを作るのを、私が手伝ったの?」
澪が首を傾げると、久子が答えた。
「そうよ。澪ちゃんがいなかったら、作れなかったんだから」
「よく分かんない」
澪が狐につままれたような顔になった。クイズを出しているわけではないので、かの子は引っ張らずに説明を加えた。
「この草餅には、母子草を使ったんです」
現代では、草餅には
「母子草って、ゴギョウのことだよね?」
ぴんと来た顔で聞き返してきた。澪は察したようだ。
「うん。ゴギョウ。よく知っているね」
わざと砕けた口調で言うと、少女は誇らしげな顔をした。そして、かの子が草餅に母子草を使った理由の一つを言った。
「うちの畑にあるの。澪が育てたんだよ」
ゴギョウとも呼ばれる母子草は、春の七草の一つだ。珍しい草ではなく、日本各地の路傍や田畑などでごく普通に見ることができる。梅田家の畑にも生えていた。
それに気づいたのは、雑草むしりを手伝ったときだ。たくさん母子草が生えていた。畑に生えてきた場合、抜いてしまうことも多いが、久子はそれを抜こうとせず、むしろ育てているように見えた。
不思議に思っていると、久子が教えてくれた。
──抜いてしまおうと思ったんですけど、澪が母子草に興味を持ちましてね。
澪は好奇心
──これ、なんて草?
──母子草。ゴギョウとも呼ばれているの。春の七草の一つよ。
──春の七草? じゃあ食べられるの?
──そうよ。
梅田家では、正月七日に七草がゆを作る習慣があった。だから、澪は「春の七草」という言葉を知っていた。食べたこともある。
その七草がゆに入れる母子草は、この畑で採れたものだった。七草がゆを作るために、わざと抜かずにおいたのだ。
ただ正直なところ、そろそろ抜いてしまおうかと久子は思っていた。澪と二人だけの家族に、こんなにたくさんの母子草はいらない。正月に食べるにしてもスーパーで買えばいい。
そう話したところ、澪が猛反対した。
──畑のがいい! このゴギョウで作ろうよ! パパとママがいたときと同じのを作ろうよ! 澪が育てるから抜かないで!
澪にとって、畑の母子草で作った七草がゆは思い出の料理なのだ。両親が生きていたころの記憶が残っているのだろう。
変えたくないという気持ちも分かった。それに畑で野菜を作っているが、農業で生計を立てているわけではない。趣味のようなものだったし、母子草を育てるくらいの場所はあった。
──じゃあ、澪ちゃんに任せるわよ。
──うん!
澪は張り切った。ただ任せると言っても、母子草は放っておいても育つものだ。久子自身、母子草の世話などしたことはなかった。それでも澪は気にかけ、元気がないときには水をやったりと、枯れないように気を配っていたという。
かの子の作った草餅をまじまじと見て、澪が感心したように言った。
「これ、ゴギョウで作ったんだ」
それから、その言葉を言った。かの子や久子が待っていた言葉だ。
「食べてもいい?」
興味を持ってくれた。食べようと思ってくれた。
ゴギョウの新芽をやわらかな綿毛でくるむ姿が、母の慈愛を思わせるところから『母子草』の名前が付いたと言われている。久子は祖母だが、澪を愛する気持ちは母親にも劣らないはずだ。
無償の愛。
それが、母子草の花言葉の一つだ。子どもは、無償の愛を注がれて大きくなっていく。かの子もそうだったし、きっと澪もそうだ。
「たくさん食べて。母子草は、蓬より苦味が少ないの。だから、普通の草餅よりも食べやすいはずよ」
「ゴギョウって、すごいね。いっぱい食べちゃおう」
澪は笑いながら言った。そして、かの子の作った草餅に手を伸ばした。
「いただきます」
よかった。本当によかった。澪に食べてもらえる。しかも、かの子の作った和菓子を見て、少女は笑顔になった。
何とかなったようだ。木守の要望に
そう思ったとき、廊下のほうから
予想もしなかった人間が、かの子の前に現れたのだった。
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