カステラ④

    ○


 朔の向かった先は、日本橋にある病院だった。かの子が勤めていた竹本和菓子店の近くだ。また、祖父のかかりつけでもあった。祖父は、ここに入院していた。最期の瞬間を迎えた場所でもある。

「梅田澪は、ここに入院している。久子もいるはずだ」

「久子さんは、澪ちゃんのお見舞いに来ているんですよね?」

「そうだ。見舞いだ」

「でも、面会時間が……」

 祖父が入院していたころと変わっていなければ、午後八時までだったはずだ。その時刻を、もう三十分はすぎている。久子がいるはずはなかった。

「そうだ。終わっている」

 それなのに引き返そうとしない。しかし、病院の敷地にも入らなかった。そのまま歩き、病院の門を通りすぎた。

「朔さん……?」

 不安になって呼びかけると、彼は言った。

「こっちだ」

 そして、大通り脇の細い路地に入り、病院の裏手に回った。人通りの絶えた歩道に出た。外灯も少なく、病院の窓から漏れる明かりを頼りに歩くような道だ。

 そこに、一人の老婦人が立っていた。本当に、いた。

「久子さん……」

 かの子の口から声が漏れた。それは、誰にも届かないような小さな声だった。そんな声しか出なかった。久子が何をしているか分かったからだ。

 病室の一つに視線を向け、御堂神社の拝殿で手を合わせていたときと同じ表情をしていた。祈るような、すがるような顔だ。

「ここから澪の病室が見える」

 朔の声は、ささやくように小さかった。久子の祈りを邪魔しないようにしているのかもしれない。

 その声のまま、鎮守は続けた。

「見舞いの後、毎日、ああして立っている」

 ふたたび祖父を思い出した。かの子が病気で寝込むと、祖父は、ずっとそばにいてくれた。徹夜で看病をしてくれたこともある。高熱でうなされたときには、仏壇に手を合わせて祈っていた。

 手を合わせてこそいないが、久子も祈っていた。病気の澪のために祈っている。幻聴だろうけれど、その声が聞こえてきた。


 孫の病気を治してください。

 どうか、元気にしてください。


 いつか聞いた祖父の祈りでもあった。自分の命と引き替えにしてでも、孫を助けたいと思っているのだ。

 最近の冬は暖かいと言うが、さすがに十二月の夜は肌寒い。久子は、病院を見たまま動かない。放っておいたら風邪を引いてしまいそうだ。

 かの子は、久子に歩み寄ろうとした。誰に強制されたわけでもない。自分の意志で話しかけようと思ったのだ。力になりたいと思った。

 何歩か進んだところで、久子がこっちを見た。不思議そうな顔になった。そう言えば、彼女とは初対面だった。たぶん久子は、かの子を知らない。

「あの……。ええと……」

 どこから話を始めればいいのか分からず、挙動不審になっていると、久子の手が動いた。それは、予想もしない行動だった。老婦人が静かに手を合わせたのだ。神社の拝殿で見たときと同じように祈り始めた。

 ただ手を合わせた先にいるのは、かの子ではなかった。美しい鎮守が、かの子に寄り添うように立っていた。

「朔さん……」

「おまえのそばには、おれがいる。心配しなくて大丈夫だ」

 かの子にだけ聞こえる声で言った。久子の祈りは、御堂神社の鎮守に向けられていた。朔の正体に気づいたのだ。

 二人の間に面識があったわけではないだろう。普段から信心深く神社に手を合わせているから、見た瞬間に鎮守だと分かったのかもしれない。

「言いたいことがあるなら、言ったほうがいい」

 朔が、かの子に言った。その言葉の意味は分かる。断るなら今しかない。ここで首を横に振れば、木守の頼みを断ることができる。

 だけど、かの子は逃げなかった。祖父と重なる久子のために、自分にできることをやってみようと思ったのだ。

「澪ちゃんのために和菓子を作らせてください」

 自信もないのに、そんな和菓子を作れるかどうか分からないのに、そう言ってしまった。


    ○


 翌朝、かの子は神社を後にした。逃げ出したわけではない。どこに行くのかは、ちゃんと朔に伝えてきた。

「竹本和菓子店に行ってきます」

 クビになったばかりの店に行こうとしていた。近づくことさえ嫌だったが、あの店の菓子が必要だった。どうしても手に入れたいものがあった。

「そうか」

 朔の返事は、いつもと変わらない。余計なことを言わず、何も聞かずに、かの子を見送ってくれた。ただそれだけのことだったが、なぜか励まされた気持ちになった。心が温かくなった。勇気をもらった。

 竹本和菓子店は、神社から歩いていける距離にある。解雇されて追い出された後、とぼとぼと歩いた道を反対に辿たどり、ついこの間まで働いていた店に着いた。

 江戸情緒を感じさせるかのこ庵とは反対に、竹本和菓子店は現代的な店構えだ。正面はガラス張りで、通りから店内をのぞくことができる。

 気後れしていたが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。久子の力になると決めたのだ。

「……おはようございます」

 微妙な感じのあいさつをしながら店に入った。すると、新がいた。

 主人であっても接客をするのは、先代からの方針だ。ただ運の悪いことに、店内には彼しかいなかった。開店したばかりだからだろうか。従業員の姿も客の姿もなかった。

「おや、これは杏崎さん。ごしております。もしや、お忘れ物ですか?」

 と、新が声をかけてきた。ご無沙汰というほど日にちは経っていない。二日前にクビになったばかりである。

「それとも遊びに来てくださったんですか?」

 この男は、解雇された店に遊びに来る人間がいると本気で思っているのか。歓迎している口振りにも聞こえるが、嫌みを言っているだけだろう。いきなり解雇された上に、「今後の就職先として──」とアルバイト先だかを紹介されそうになったことは忘れていない。

 従業員なら愛想笑いの一つもして見せるところだが、リストラされた身である。相手をするつもりはなかった。単刀直入に用件を言った。

「カステラを買いに来ました」

 このために、クビになった店にやって来たのだった。

 意外に思う人間もいるかもしれないけれど、カステラは洋菓子ではない。形や食感から洋菓子を想像しそうになるが、かの子の知るかぎり和菓子に分類される。専門学校ではそう習った。

 多くの和菓子屋がカステラを売っており、その種類も豊富だ。贈答品としても人気が高く、お見舞いの品の定番でもある。

 竹本和菓子店でカステラを売るようになったのは、代替わりしてからだという。先代から受け継いだものではなく、新が作り始めた。最高の卵や砂糖、みずあめ、小麦粉を厳選し、なるべく機械を使わない〝手作り〟にこだわって作っていた。

 そんなふうに昔ながらの作り方をしているからだろう。新のカステラは、少しだけ祖父の作ったものに似ていた。祖父のカステラより上品な味だが、それでも、風邪で寝込んだときに作ってもらったカステラを思い出させる。

(おじいちゃんのカステラを食べれば元気になる)

 でも、祖父は死んでしまい、かの子は作り方を教わっていない。だから、竹本和菓子店にカステラを買いに来た。

「お見舞いに持っていくには、どれがいいでしょうか?」

 ──和菓子職人のくせに、分からないんですか?

 それくらいの嫌みは覚悟していたが、新は言わなかった。曲がってもいない眼鏡を直してから、真面目な顔で質問してきた。

「どなたかが、ご病気なんですか?」

「はい。入院している知り合いがいるんです」

「知り合い?」

「六歳の女の子です」

 心臓が弱いということ、もうすぐ手術だということ、食欲をなくしているということを話した。

「そうですか……」

 新は何秒か考えた。それから、個別包装になっているカステラの詰め合わせを選んでくれた。

「お大事に、とお伝えください」

 竹本和菓子店の紙袋に入れたカステラの詰め合わせをかの子に渡し、新は丁寧に頭を下げた。

「お買い上げありがとうございました」

 嫌みは言われなかった。

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