カステラ①

 深川は日本を代表する観光地だが、にぎわう場所はかぎられている。人々が多く訪れるのは、やはり寺社を中心とする門前仲町だろう。

 かの子の知るかぎり御堂神社は有名ではないし、駅や大通りに続く通りからも大きく外れている。人通りはなく、周囲を見ても雑木林しかない。真夜中だということを差し引いても、都内とは思えないくらい閑散としていた。しかも、神社の陰に隠れるように店が建っているせいで、通りからも見えにくい。

 こんなところに客が来るのだろうか?

 和菓子を買いに来てくれるのか?

 かのこ庵をやることになったはいいが、客が来なければ店はやっていけない。経営不振でクビになった身としては、気になるところだ。

「心配するな。客は必ず来る」

 これは、朔の台詞せりふだ。確信している口調だが、それも不思議だ。テレビや雑誌に取り上げられることの多い竹本和菓子店でさえ集客に苦労していたのに、自信があるようだ。

「かの子が黙っていても噂になる」

「噂? 広告を出すんですか?」

「そのつもりはない」

 ますます分からない。広告も出さずに、どうやって集客するつもりなのだろう?

「いずれ分かる。今日はもう寝たほうがよかろう。神社の好きな部屋を使っていい」

 と、仕事の話を切り上げられてしまった。

「くろまるとしぐれに案内してもらえ」

 朔が言うと、間髪をれずに返事があった。

「お任せくだされっ!」

「仕方ありませんわね」

 ありがたい話だが、もう少し朔と一緒にいたい気持ちがあった。聞きたいこともあるけど、ただ一緒にいたかった。しかし、朔は背を向けてしまった。そして、社殿のほうに歩き出した。

 かの子のことなんか、やっぱり眼中にないようだ。


    ○


 くろまるとしぐれを先頭に、かの子は社殿の前にやって来た。ひのき造りの立派な建物である。

「お上がりくだされっ!」

 促されて、社殿に入った。見かけは小さいのに、建物の中は広々としている。不思議な構造をしていた。ふたりに先導されて長い廊下を歩いた。

 しばらく無言で歩いた後、ふいに立ち止まり、しぐれが言った。

「この部屋を使ってもよろしくてよ」

 そして、ふすまを開けた。なぜか電灯がいていた。襖を開けた瞬間に点いたように見えたが、さすがに気のせいだろう。

 そこは、真新しい畳が敷かれた和室だった。八畳。竹本和菓子店であてがわれていた部屋よりも広い。お礼を言おうとすると、くろまるが遮るように大声を上げた。

「このような狭い部屋しか用意できずに申し訳ございません! 若と祝言を挙げるまでは、ここで我慢してくだされっ!」

 一日の終わりに、とんでもない言葉をぶち込んできた。

「祝言っ!? こ……困りますニャ!」

 自分の言葉に、ぎょっとした。紛うことなき猫語だった。私は困らないのか? いやいや、困るだろう。困るに決まっているニャ。

 収拾がつかないレベルで動揺していると、しぐれが口を挟んだ。

「真に受けなくてもよろしくてよ」

「ま……真に受けてなんかいませんニャ!」

 ドツボにはまっている。もうしゃべらないほうがいいのかもしれない。いつから私は、こんな噓つきになったのだろう? 朔の話を続けていると、もっと噓をついてしまいそうだった。

「それにしても」

 かの子は、強引に話を変える。

「立派な建物ね」

 そう思ったのは本当だ。社務所に住居が付いているのはよくあることだと聞くが、ここは神社そのもので暮らせるようになっているみたいだ。廊下の先には、台所や浴室もあるという。

 物珍しさも手伝ってキョロキョロしていると、しぐれが教えてくれた。

「この神社に住んでいるのは、わたくしと朔、くろまるですわ」

「え?」

 さんにんだけ? 朔には、両親もきょうだいもいないのか? 疑問に思ったけれど、それを聞く暇はなかった。

「話は終わりよ。ゆっくり眠るといいわ」

「姫、今宵は失礼いたしますぞっ!」

 急に言い出したのだった。眠くなったのかもしれない。だとすると引き留めるのは悪いし、朔のことを聞くのも探っているみたいだ。聞きたいことがあるなら、本人に質問すべきだろう。

「ありがとう。お休みなさい」

 それぞれに返事をすると、くろまるとしぐれが大欠伸あくびをしながら、部屋を出ていった。あやかしや幽霊は、基本的に夜型だ。あとで思い返すと、欠伸もわざとらしかった。

 このとき、おかしいと思わなかったのは、かの子自身が疲れていたからだろう。激動の一日だった。いろいろなことがありすぎた。

 作務衣を脱ぎ捨てて布団を押入から出して、そのまま倒れるように眠った。


    ○


 和菓子職人の朝は早い。竹本和菓子店に勤めていたときも、かの子は早く起きていた。ときどき、新が先に起きていることがあったくらいで、たいていは店一番の早起きだった。暁起き──夜明け前に起きることが、身体に染みついていた。

 この日も、日の出とともに目が覚めた。少し眠いが、遅くまで起きていた割りには疲れは残っていない。

 ただ、昨日の記憶が残っていた。布団に横になったまま、その記憶を整理する。


 祖父に一億円の借金があった。すでに一千万円の利子が付いていて、それを返す代わりに、神社に住み込んで和菓子を作ることになった。

 そこには、二枚目の鎮守、黒猫の姿をした妖、女の子の幽霊が暮らしている。


 現実とは思えないことばかりだけれど、どうやら夢ではなかったようだ。こうして、ここにいるのだから。

 自分でも不思議に思うほど、この状況を受け入れていた。子どものころから妖を見てきたためかもしれない。

「店を任せるって言われたけど」

 誰もいない部屋でつぶやいた。いろいろと聞きたいことはあったが、和菓子職人としては店のことが気にかかる。

 そもそも、どこまで任せてもらえるのだろうか?

 例えば、コンビニの店長のように権限がかぎられていることも考えられた。何の権限も持っていない「名ばかり店長」という可能性だってある。むしろ、かの子のキャリアと立場からすれば、そのほうが自然だ。

 いずれにせよ、多額の借金があることを考えると、すぐにでも営業を始めるべきだろうが、それは難しい。

 何の打ち合わせもしていないし、仕入れの問題だってある。一日の売上げ目標だって聞いていない。宣伝だって必要だろう。今まで営業していなかったようだから、やることは山積みだ。時間も資金も必要になる。

 かの子一人ではできないことだ。朔と話したかったが、どこにいるのか不明だ。一部屋ずつ訪ねて回るのもはばかられる。それに、たぶん、まだ眠っているだろう。

 どんな顔をして眠っているのだろうと思いかけて、はっとした。

「私、気持ち悪い……」

 これでは、恋する乙女だ。朔に心を奪われすぎている。こんなことでは、和菓子職人として役に立たなくなってしまう。

 気持ちを入れ替えよう。仕事のことを考えよう。自分に言い聞かせながら頰をたたき、勢いよく起き上がった。

「掃除するか」

 境内には、木々が生い茂っている。季節が季節だけに、落ち葉を掃くだけでも大仕事だ。神社に就職したわけではないが、居候させてもらっている身である。掃除くらいはすべきだ。

 に着替えて、建物の外に出た。入り口の脇に用具入れのようなものがあったので、のぞいてみるとたけぼうきがあった。使っても文句は言われないだろう。

 師走しわすの早朝の空気は冷たく、かすかに残っていた眠気が吹き飛んだ。一億一千万円の借金があるくせに、今までにないほどそうかいな気持ちだった。

「さてと」

 掃除を始めようとしたときだ。拝殿の前で手を合わせている人影に気づいた。くろまるやしぐれのことが頭にあったので、妖か幽霊かと思ったが、見たところ人間だ。

 老婦人と呼んでは失礼だろうか。七十歳から八十歳の間くらいの小柄な婦人だ。南天柄の和服を着て、白髪をシニヨンに結っていた。見るからに上品そうである。竹箒を持ったかの子に気づくことなく静かに拝んでいる。

 ここは神社で、人々が祈りに訪れる場所だ。早朝から手を合わせていてもおかしくないし、その邪魔をしてはならない。

「こっちは、あとにするか」

 声に出さず呟き、かのこ庵のまわりを先に掃除することにした。そっちのほうも落ち葉が散っているだろう。

 だが、辿たどり着くことはできなかった。かのこ庵があるはずの場所まで行って固まった。

「……噓?」

 声が漏れた。なんと、建物が消えていたのであった。かのこ庵が建っていたはずの一帯が、うつそうとしたたけやぶになっていた。店があった形跡はどこにもなかった。見事に何もない。

「どういうこと?」

 ふたたび、声が出た。昨日、見たものが消えていたのだ。夢ではないと思っていたけれど、やっぱり夢だったのだろうか?

 確かに、美形の鎮守に見守られながら妖と幽霊のために和菓子を作るなんて、かの子が見そうな夢だ。

 でも、すると今度は、神社に泊まったことの説明が難しくなる。仕事と住居を失って追い詰められていたのは事実だが、いくら何でも見知らぬ神社に勝手に入り込んで泊まったりはしない。

「……意味が分からない」

 本当に分からない。目の前で起こっていることが分からない。とうとう頭がおかしくなってしまったのだろうか?

 自分の正気を疑っていると、突然、背後から声をかけられた。

「そんなに考え込まなくていい。日が落ちれば分かることだ」

 とした。誰の声だか分かったからだ。振り返ると、とびいろの和日傘があった。絞り染めというのだろうか。淡くて上品な色合いの傘だ。

「朔さん……」

 和日傘を差して立っていたのは、御堂神社の鎮守だった。朔は本当にいた。昨夜の記憶は夢ではなかったのだ。

「太陽の光が苦手でな」

 聞いてもいないのに、彼は言った。紫外線に弱い体質ということか。日光アレルギーという可能性もあった。

 朔が笑わない理由は、このあたりにあるのかもしれない。アレルギーがあると、普通に生活するだけで大変だ。無表情にもなるだろう。

「こんなに早く起きる必要はない。昨日、言い忘れていたが、店を開けるのは日没後でいい」

 美しい鎮守は、そんなふうに言った。夜間営業ということだろうか。夜遅くまでやっている店はよくあるが、夕方すぎに開店する和菓子屋は珍しい気がする。

 いや、それ以前の問題があった。

「お店が消えて──」

「その話は、夜になってからでいいか?」

 昼間は体調が悪いのかもしれない。太陽の光に弱いのなら、そうなるだろう。無理をさせてはいけない。

「はい」

 かの子はうなずき、日が落ちるまで休むことにした。


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