あこや③
ある寒い冬の朝のことだった。母は布団から起き上がれなくなり、そのまま誰に気づかれることもなく死んでしまった。
人は死ぬと、魂が身体から抜ける。重い荷物を脱ぎ捨てるように軽くなり、あの世へと向かう。
母も、同じだった。呼吸が止まると、魂が身体から抜けた。だが、死んだことが分からないらしく、戸惑ったように宙に浮かんでいた。小首を傾げるようにして、自分の亡骸を見ている。
「お母さま」
そう呼びかければ今度こそ聞こえただろうが、しぐれは唇を
その影は、人の形をしていた。しぐれと同じ幽霊のようだ。でも、しぐれほど、はっきりとした存在ではない。霊力も弱く、
影は、しぐれに気づいていない。母しか見ていなかった。やさしい声で、母の魂に話しかけた。
「迎えにきたよ」
それは、母の夫の声だった。母を幸せにしてくれた男だ。死んだ後も、ずっと母を思っていてくれた。おぼろげな影になりながら、成仏せずに母を見守っていた。
母も、夫に気づいた。ようやく、夫の姿が見えたのだ。死者になって、初めて見えるものもある。
「
母がそっと
「あの世でも、わたしと夫婦でいておくれ」
この言葉を言いたくて、もう一度、結婚の約束をしたくて、夫は現世に残っていたのだろう。
「……はい」
母の霊魂は、夫の影のそばに行った。その後、夫婦はもう何も言わなかった。寄り添うように天に昇っていった。あの世に行ってしまった。
最後まで、しぐれに気づかなかった。しぐれも、母に声をかけなかった。
死んでしまったけれど、あっという間の人生だったけれど、悔いはない。
母が死んだ後も、しぐれは成仏しなかったが、それは現世に未練があったからではない。母の邪魔をしたくなかったからだ。
自分と暮らしていたころの母が、不幸だったとは思わない。貧しくとも、幸せな毎日だった。
でも、しぐれが死んだ後の母の幸せを否定するつもりはない。長い歳月が流れた今では、夫だけでなく、子や孫までもがあの世にいる。
母は、たぶん新しい家族と一緒に暮らしている。やさしい母のことだから、しぐれと一緒に暮らそうとするかもしれないが、新しい家族にしてみれば、自分は邪魔者だ。一家
「家族水入らずが一番ですわ」
そう呟き、生きていたころのことを思い返す。母の子どもで幸せだった。生まれてきて、本当によかった。母と一緒に暮らした日々のことは忘れない。貧しかったけれど、楽しかった。団子も大福も甘酒も、あこや餅も
「……それで十分よ」
本当に十分だ。思い出があればいい。母と暮らした記憶があればいい。母には、新しい家族と仲よく暮らして欲しかった。
だから、しぐれは成仏せずにこの世に残っている。母のいない世界にいる。親が我が子の幸せを願うように、子どもだって親の幸せを願うものなのだ。
母があの世に行くと、しぐれの墓に足を運ぶ人間はいなくなった。供養してくれる人はいない。自分のことをおぼえている人間がいないのだから当然だ。
いつの間にか、墓は朽ち果ててしまった。今となっては、どこにあったのかさえ分からなくなっている。しぐれが、この世に生きていた
「お母さまが幸せなら、わたくしも幸せですわ」
二百年の間に、何度も何度も言った。誰にも届かない声で言った。自分に言い聞かせるように言った。あの世の母を思いながら、独りぼっちで呟いた。
これからも、きっと呟くだろう。
○
「あの……」
かの子が声をかけてきた。しぐれがあこや餅に手を付けていないのを見て、不安になったのだろう。今にも泣きそうな情けない顔をしている。
この女の考えていることなど、お見通しだ。和菓子を食べて褒めて欲しいのだろうが、そうはいかない。食べる前から返事は決めてある。
──美味しくありませんわ。
そう言ってやるつもりでいた。褒めるわけがない。こんな女は認めない。神社から
「何よ? 食べて欲しいの? どうしてもと言うのでしたら、食べてあげないこともなくてよ」
怒らせるつもりで言ったが、かの子には効かなかった。
「お願いします」
しぐれに頭を下げたのだった。そういうところも気に入らない。あこや餅を投げ捨ててやろうかと思ったが、その瞬間、なぜか母の顔が思い浮かんだ。母は、しぐれのことを見ていた。
──食べてあげなさいよ。
そんな声まで聞こえてきた。これは空耳だろうけど、やさしい母なら、きっと、そう言うだろう。
「仕方ありませんわね。ちょっとだけ食べてあげますわ。本当にちょっとだけですわよ!」
念を押すように言って、しぐれは、かの子の作ったあこや餅を口に入れた。あんを皮で包んでいない分、小豆の香りがダイレクトに口いっぱいに広がった。
「つぶつぶした
「姫、美味しゅうございますぞっ!」
朔とくろまるが、勝手に食べて賞賛している。いつの間にか、かの子と仲よくなっているのも気に入らない。本当に気に入らない。
「美味しくないわ」
しぐれは言ってやった。噓じゃない。母の作ってくれたあこや餅の足もとにも及ばない。母の作ったもののほうが、ずっとずっと美味しかった。
「そんな……」
かの子が、泣きそうな顔をする。いい気味だ。胸がすっとする。しぐれは追い打ちをかけた。
「この腕じゃあ、一億一千万円を稼ぐまで何百年もかかるわね。このお店でちゃんと働いて返しなさいよ」
「え?」
今度は、きょとんとした。鈍い女だ。皆まで言わせるつもりかと顔をしかめていると、朔が横から口を出した。
「かの子を歓迎するそうだ。しぐれと友達になってやってくれ」
「……友達?」
かの子が、目を丸くした。驚いた顔で、こっちに視線を向けてきた。
「何よ、文句あるの?」
しぐれは言ったが、ここは否定すべきだったと後悔する。これでは、友達になって欲しいと思っているみたいだ。
「……私なんかと友達になってくれるんですか?」
かの子が、おずおずと聞いてきた。言葉にしなければ分からないようだ。しかも、自分を卑下するのが癖になっている。こういう女は、本当に面倒くさい。
しぐれは舌打ちし、頼りない小娘に言ってやった。
「そ、そこまで言うなら仕方ありませんわっ! どうしてもと言うのなら、お友達になってあげてもよろしくてよっ!」
「は……はい。よろしくお願いいたします」
かの子が頭を下げた。本気で幽霊と友達になるつもりなのだ。
どう答えていいのか分からず口をつぐむと、ふたたび、聞こえるはずもない母の声が、しぐれの耳に届いた。
お友達ができてよかったわね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます