饅頭⑤
○
美しき鎮守は、店内の縁台に座ってお茶を飲んでいた。お茶請けらしき
「出てきてくれませんでした」
かのこ庵で働くことはできないし、神社で暮らすこともできない。ここから出ていくと伝えようとしたけど、朔に止められた。
「これから夜食だ。話はあとにしてくれ」
「は……はい」
「一緒に食べるか?」
そんな場合ではない気もするが、竹本和菓子店を追い出されてから、まともに食べていなかった。ここを出ていくと決めた以上、なおさら何か食べたほうがいい。行き倒れても助けてくれる人はいないし、持ち金を借金の返済に充てたら食事もままならなくなるのだから。
「ありがとうございます」
「すぐに用意しよう。そこに座っていろ」
朔は作業場らしき場所に行き、本当にすぐ戻ってきた。食事の用意をしたと思えないほど早かった。ちゃんと二人分の
「待たせたな」
縁台にそれを置いた。かの子はまじまじと見て、思わず聞いた。
「これだけ……ですか?」
茶碗に軽くよそった白飯。
他には、何もない。
みそ汁や漬物どころか、ふりかけもなかった。質素と言えば聞こえがいいが、何もなさすぎだ。鎮守の食事は、白飯だけと決まっているのだろうか?
「これから作るんだ」
朔は、お茶請けの饅頭を手に取った。それを半分に割り、さらに四分の一の大きさにした。
「これくらいでいい」
自分の仕事を確認するように呟いてから、四分の一に割った饅頭をご飯のうえに置いた。
子どもが食べ物でいたずらをしたようにも見えるが、かの子は、そうではないことを知っていた。この料理を知っていた。
「もしかして……」
「そうだ。そのもしかしてだ」
小さく
「どうして、これを──」
続きの言葉が出て来ない。心の底から驚いていた。まさか朔が、これを作るとは思わなかった。この場面で見るとは思わなかった。
それは、懐かしくて泣きたくなるような料理だった。鼻の奥がツンとする。涙が流れないように奥歯を
「饅頭茶漬けだ」
○
饅頭を茶漬けにするなんて、風変わりな食べ方だ。初めて見たときのかの子がそうだったように、ゲテモノ扱いする人もいるだろう。気持ち悪いという声も聞こえてきそうだ。一般的な料理ではないと思う。
だが、饅頭茶漬けは歴史に残る料理だ。いや、これを好んで食べたのが、歴史に残る有名人だったと言うべきか。
「饅頭茶漬けは、
朔は本名を口にしたが、たいていの人間にとっては、筆名のほうが有名だろう。森
その森鷗外の好物が、饅頭茶漬けだった。虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』にもその逸話は紹介されており、森鷗外の次女である随筆家の
かの子が饅頭茶漬けを知ったのは、今から十五年も昔のことだ。そのころ、両親が死んだ。昨日まで一緒に暮らしていた大好きな父母が、この世からいなくなってしまった。
悲しくて悲しくて、食事も
その日も、自分の部屋のベッドで枕に顔を押し付けて泣いていた。すると、祖父の声が聞こえた。
「飯ができたぞ」
「……うん」
食欲はなかったが、がんばって返事をした。かの子が泣いていたら心配する。もう手遅れかもしれないけど、できるだけ祖父に心配をかけたくなかった。
茶の間に行った。少しでも笑おうとしたけど、やっぱり笑えなかった。茶の間が広すぎるせいだ。父と母のいない茶の間は広すぎる。泣くのはやめたつもりなのに、涙がぽろぽろと落ちてくる。両親のいない部屋が
祖父は何も言わずに、ちゃぶ台にそれを置いた。
「……え?」
かの子は、きょとんとした。それを見つめながら、泣くことも忘れて祖父に聞いた。
「何、これ?」
「飯だ」
祖父は答えたが、目の前にあったのは饅頭の載ったご飯だ。
「これが、ご飯?」
「まだ完成じゃない。ちょっと待ってろ」
そう言って、饅頭の載ったご飯にお茶をかけた。今度は、
「……これを食べるの? 噓だよね」
「噓なもんか。『饅頭茶漬け』という有名な料理だ。森鷗外の好物だったんだぞ。どうだ?
祖父は得意顔だ。その顔と突拍子もない料理を見ているうちに、かの子は吹き出した。声を立てて笑ってしまった。祖父の顔も饅頭茶漬けも面白すぎる。ずっと笑えなかったのに笑うことができた。
そんなかの子を見て、祖父が大威張りで言った。
職人は、口よりも手を動かすもんだ。
腕がよけりゃあ、みんな笑顔になる。
孫だって笑ってくれる。
その言葉もおかしかった。かの子は笑いながら、祖父に言ってやった。
「腕は関係ないよ。おじいちゃんの顔と饅頭茶漬けが面白いんだから」
「それだって腕のうちだ」
祖父が、また威張った。どうしても自分の手柄にしたいみたいで、それもおかしかった。
でも、その日を境に、かの子は少しずつ立ち直り始めた。両親を失った悲しみが
父も母もそうだった。かの子が泣くと心配し、かの子が笑うと一緒に笑った。自分が泣いていたら、あの世で困っているだろう。
両親を心配させたくない。
泣くよりも笑っていよう。
みんなに笑ってもらおう。
その日から、ずっと思っている。
○
「食べてくれ」
朔にすすめられて、かの子は頷いた。
「はい。いただきます」
食べ物で遊んでいるようにすら見える
かの子は、饅頭茶漬けを口に運んだ。甘さ控え目で、さっぱりとした汁粉のような味わいだ。
「
「噓をつけ」
朔に言われた。やっぱり無表情だけれど、目の奥が笑っているように見えた。取っつきにくく見えるが、本当はやさしい人なのだろう。かの子は繰り返した。
「美味しいですよ」
「噓をつけ」
同じ言葉を返されて、くすりと笑った。朔の言葉が心地よかった。たいしたことは言われていないのに、心が温かくなった。追い詰められていた気持ちが、前向きになった。落ち込んでいても道は開けない。
自分にできることは、まだ残っている。
自分を嫌っている
和菓子なんか食べたくありませんニャ!
女の子の幽霊──しぐれの言葉だ。真意は分からないが、和菓子を食べたいと思っているのだ。それならば、すべきことは決まっている。
かの子が顔を上げると、朔が静かな声で言った。
「しぐれが成仏しないのは、あれなりに考えがあってのことだ」
そして、江戸時代にあったことを話してくれた。しぐれの過去を聞き、かの子は改めて決心した。和菓子を作ろう、と。
職人は、口よりも手を動かすもんだ。
祖父は言った。和菓子職人ではない朔だって、饅頭茶漬けを作ってくれた。かの子を元気づけてくれた。次は、自分の番だ。
まだ温かい饅頭茶漬けを完食し、朔に頼んだ。
「作業場を貸してください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます