饅頭④

 御堂朔


「それって……」

「そうだ。その御堂だ」

 朔がうなずいた。神社と同じみようなのだ。しかし、それが何を意味するのかは分からない。ここでも説明する気はないらしく、朔は口を閉じてしまった。その代わり、よくしゃべる妖がしゃしゃり出た。

「若は、『ちんじゅ』でございます!」

 これは漢字変換できた。たぶん、鎮守だ。その地を鎮め守る神。また、その社のことである。

 普通なら笑い飛ばすか、からかわれていると怒るところだろうが、かの子は、この世に不思議ながいることを知っていた。そもそも、目の前にあやかしと幽霊がいるのだ。

「わたくしとくろまるは、朔のけんぞくということになっていますわ」

「我は、家令の眷属でございますぞ!」

 幽霊と妖が言い出した。朔に仕えているということだ。かの子は、改めて彼を見た。

「も……もしかして、神さまですか?」

「神ではない。その子孫だ。先祖はおんみようだった」

 分かったようで、よく分からない説明だ。べのせいめいみたいに神社にまつられたパターンだろうか。いずれにせよ、ただの人間ではないようだ。

 だとすると困った。かなり困った。借金をした相手が悪すぎる。鎮守からお金を借りるなんて、ある意味、反社から借りるより恐ろしい。

 祖父は、いったい何を考えていたのだろうか。ますます分からない。借金嫌いでクレジットカードさえ持っていなかったのに、いきなり一億円も。それも、鎮守から借りるなんて滅茶苦茶だ。

 文句を言ってやりたかったが、死んでしまった人間には会えない。すべての死者が、しぐれのように幽霊になるわけではなかった。たいていの死者は成仏する。この世にとどまらず、あの世に行ってしまう。祖父や父母を見かけたことはないので、おそらく成仏している。

 かの子も成仏してしまいたかったけど、それを試してみる暇もなく、朔の声に捕まった。

「一億円は、簡単に用意できる金額ではなかろう」

「……はい」

 簡単どころか、絶対に用意できない金額だ。現代人の生涯所得は二億円とも三億円とも言われているが、かの子はすでにクビになっている。再就職できたとしても、例えば、竹本和菓子店と同じ条件──年収二百万円の仕事に就くことができたと仮定しても、一億円を稼ぐには五十年もかかる。一円も使わなくても、半世紀もかかるのだ。

「さっきも言ったと思うが、働いて返してくれてもいい」

「……何をして働くんですか?」

「かの子にできることをしてもらう」

「私にできること?」

「そうだ。この店で和菓子を作ってもらうつもりだ」

「ええっ?」

「驚くことはあるまい。かのこ庵は、玄の建てた店だ。唯一の血縁者である孫娘が引き継ぐのは当然だろう」

「当然と言われましても──」

 反論したかったが、言葉が出て来ない。しかも、朔は聞いていなかった。

「玄には、ここで和菓子屋をやることを条件に金を貸した。鎮守との約束だ。守ってもらいたい」

 言いたいことは分かった。ただ、いい話なのか悪い話なのかは判断できない。情報が少なすぎるし、疑問が多すぎる。

 例えば、生活できるだけの給料をもらえるのだろうか? かの子には家がない。アパートをさがすつもりでいるけど、その家賃を払えるだけの給料をもらえなければ生きていけない。もちろん、食費だって光熱費だってかかる。

 考えていることが顔に出たのかもしれない。朔が、かの子の疑問に答えた。

「神社に部屋があまっている。住むところがないなら、好きな部屋を使え。今まで勤めていたところと同じだけの給料は出してやる」

「同じだけの給料……」

 はしたなくふくしようしてしまった。好条件だったからだ。

 正直なところ、和菓子職人として再就職する自信がなかった。和菓子業界にかぎったことではないだろうが、正社員は狭き門だ。そもそも正社員の募集自体が少なく、しばらくの間、アルバイトで暮らす覚悟をしていた。

 祖父が借りたものとはいえ、一億一千万円の借金がある。そんなのがあったら、普通は人生終了だ。それなのに、住む場所が保証され、給料ももらえるというのだ。断る理由はない。

 また、祖父が何を考えて店を作ったのかも知りたかった。死んでしまった大事な人間の気持ちを知りたかった。

 朔の顔を見た。美しい鎮守は、かの子を見つめていた。そうか、ここで働けば、彼のそばにいられるかもしれない──。

 申し出を受けようとしたときだ。とがった言葉が飛んできた。

「反対でございますぞ」

 言ったのは、くろまるだ。見れば、小さな顔を思い切りしかめている。

「なぜだ?」

「この娘は、半人前の職人でございますぞ。かのこ庵を任せるには、力不足でございましょう」

 紛れもない事実だ。技術も経験も足りていないのは、かの子も自覚していた。経営に至っては、ずぶの素人だ。

「わたくしも反対ですわ」

 しぐれまでもが言った。こちらも、顔を顰めている。

「条件がよすぎますわ。一億一千万円の借金をチャラにした上に、お給料と住む場所まで与えるなんて、まるぞんもいいところですわよ」

 これも正論だ。正論すぎて、ぐうの音も出ない。

「この娘は追い出してくだされ!」

「わたくしも、そのほうがいいと思いますわ」

 くろまるとしぐれが、口々に朔に訴えた。

「おまえらの言い分は分かった。一理ある。もっともだな」

 美形の鎮守は頷き、穏やかに返事をした。

「だが、かの子に店を任せることに変わりはない。かのこ庵で和菓子を作ってもらうことは決定だ」

 何の説明にもなっていない。くろまるとしぐれは納得しなかった。

「若のお考えでも、我は賛成できませぬぞ!」

「わたくしも反対ですわ! この娘に一億一千万円の価値はありませんわ!」

 かの子自身も、自分に一億円オーバーの価値はないと思うのだが、朔は首を横に振る。

「価値はある」

 ふたたび断言し、諭すように続けた。

「おまえらも、かの子の和菓子を食べれば分かる」

 この言葉には驚いた。食べたこともないだろうに、とんでもない高評価だ。目を丸くしていると、もう一つ、驚くことが起こった。

「和菓子なんか食べたくありませんニャ!」

「……え?」

 かの子は、しぐれの顔を見た。猫語だったからだ。表情からは分からないが、女の子の幽霊は噓をついている。ただ、それを追及している暇はなかった。

「話になりませんな!」

「ここにいるだけ時間の無駄ね!」

 くろまるとしぐれが吐き捨てるように言って、店から出ていってしまった。

 ふたりの言っていることは間違っていないし、いきなり部外者がやって来て面白くない気持ちも分かる。

 でも、引き下がるわけにはいかない。かのこ庵で働く以外に、借金を返すあてはない。それに、祖父の作った店でもあるのだ。自分の名前の付いた店だ。

「放っておいても大丈夫だ」

 朔は言った。確かに鎮守が決めた以上、眷属が反対しようと働くことはできるだろう。

 だが、かの子は放っておきたくなかった。両親が死んで泣いていたとき、猫の姿をしたあやかしや幽霊に何度も慰められたことがある。ちびっこ眷属を無視することはできない。

「あの……。私──」

 それだけで伝わったようだ。朔は、何でも分かってくれる。

「鎮守の森にいる」

 くろまるとしぐれの居場所を教えてくれたのだった。


    ○


 鎮守の森とは、神社に付随する木立のことだ。御堂神社とかのこ庵を取り囲むように、木々が茂っていた。かの子は、森の中に足を踏み入れた。

「何か、すごい……」

 思わず声が漏れた。夜だから、そう感じるだけなのだろうか。それほど広くないはずなのに、深い森林に迷い込んだ気になった。また、神域である森の空気は澄んでいて、都内とは思えないほど静かだ。

 明るい月のおかげで視界は悪くないが、くろまるとしぐれの姿はなかった。気配さえない。どうやら隠れているみたいだ。

 かの子は困った。噓が猫語に聞こえたり、妖と話すことができたりするけれど、それ以外は、普通の人間だ。隠れている妖や幽霊を見つけられるわけがなかった。

 それでも、さがした。森の中を歩き回り、声を上げた。

「ふたりとも、どこにいるの? ねえ、出てきて」

 その声は遠くまで響いていく。ふたりの耳にも届いているはずだが、返事はない。出てくる気配もなかった。

 めげそうになる気持ちを奮い立たせて、「お願いだから出てきて」と何度も何度も繰り返した。鎮守の森を歩き回りながら呼びかけた。

 でも、やっぱり、くろまるとしぐれは現れなかった。声がれるほど呼びかけても返事はなく、自分の声だけしか聞こえない。

 さがしても、さがしても、さがしても見つからなかった。どんなに呼びかけても返事をしてくれない。ふたりと話そうと外に出てきたが、くろまるとしぐれの顔を見ることさえできなかった。


 おまえの顔なんて見たくない。


 それが、ふたりの返事なのだ。嫌われて、拒絶されて、無視されて、かの子の心は折れた。仕事と住む場所を失って、ただでさえ折れかかっていた気持ちは弱かった。

「……うん。分かった」

 つぶやいた声は、今までで一番小さかった。もう返事は期待していない。かの子は、鎮守の森に背中を向けた。

 神社から出ていこう。

 かのこ庵から出ていこう。

 それが、ふたりの望むことなのだ。沈黙は雄弁だった。けんぞくふたりの望みは話すことではなく、かの子がいなくなることだ。弱った心に突き刺さるように、くろまるとしぐれの気持ちが分かった。

「本当に分かったから……」

 もう一度だけ呟いて、かのこ庵に向かった。

 スポーツバッグは店に置きっ放しだし、借金のことを話す必要もあったし、また、最後に朔と話したかった。さよならを言いたかった。

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