饅頭④
御堂朔
「それって……」
「そうだ。その御堂だ」
朔が
「若は、『ちんじゅ』でございます!」
これは漢字変換できた。たぶん、鎮守だ。その地を鎮め守る神。また、その社のことである。
普通なら笑い飛ばすか、からかわれていると怒るところだろうが、かの子は、この世に不思議なものがいることを知っていた。そもそも、目の前に
「わたくしとくろまるは、朔の
「我は、家令の眷属でございますぞ!」
幽霊と妖が言い出した。朔に仕えているということだ。かの子は、改めて彼を見た。
「も……もしかして、神さまですか?」
「神ではない。その子孫だ。先祖は
分かったようで、よく分からない説明だ。
だとすると困った。かなり困った。借金をした相手が悪すぎる。鎮守からお金を借りるなんて、ある意味、反社から借りるより恐ろしい。
祖父は、いったい何を考えていたのだろうか。ますます分からない。借金嫌いでクレジットカードさえ持っていなかったのに、いきなり一億円も。それも、鎮守から借りるなんて滅茶苦茶だ。
文句を言ってやりたかったが、死んでしまった人間には会えない。すべての死者が、しぐれのように幽霊になるわけではなかった。たいていの死者は成仏する。この世に
かの子も成仏してしまいたかったけど、それを試してみる暇もなく、朔の声に捕まった。
「一億円は、簡単に用意できる金額ではなかろう」
「……はい」
簡単どころか、絶対に用意できない金額だ。現代人の生涯所得は二億円とも三億円とも言われているが、かの子はすでにクビになっている。再就職できたとしても、例えば、竹本和菓子店と同じ条件──年収二百万円の仕事に就くことができたと仮定しても、一億円を稼ぐには五十年もかかる。一円も使わなくても、半世紀もかかるのだ。
「さっきも言ったと思うが、働いて返してくれてもいい」
「……何をして働くんですか?」
「かの子にできることをしてもらう」
「私にできること?」
「そうだ。この店で和菓子を作ってもらうつもりだ」
「ええっ?」
「驚くことはあるまい。かのこ庵は、玄の建てた店だ。唯一の血縁者である孫娘が引き継ぐのは当然だろう」
「当然と言われましても──」
反論したかったが、言葉が出て来ない。しかも、朔は聞いていなかった。
「玄には、ここで和菓子屋をやることを条件に金を貸した。鎮守との約束だ。守ってもらいたい」
言いたいことは分かった。ただ、いい話なのか悪い話なのかは判断できない。情報が少なすぎるし、疑問が多すぎる。
例えば、生活できるだけの給料をもらえるのだろうか? かの子には家がない。アパートをさがすつもりでいるけど、その家賃を払えるだけの給料をもらえなければ生きていけない。もちろん、食費だって光熱費だってかかる。
考えていることが顔に出たのかもしれない。朔が、かの子の疑問に答えた。
「神社に部屋があまっている。住むところがないなら、好きな部屋を使え。今まで勤めていたところと同じだけの給料は出してやる」
「同じだけの給料……」
はしたなく
正直なところ、和菓子職人として再就職する自信がなかった。和菓子業界にかぎったことではないだろうが、正社員は狭き門だ。そもそも正社員の募集自体が少なく、しばらくの間、アルバイトで暮らす覚悟をしていた。
祖父が借りたものとはいえ、一億一千万円の借金がある。そんなのがあったら、普通は人生終了だ。それなのに、住む場所が保証され、給料ももらえるというのだ。断る理由はない。
また、祖父が何を考えて店を作ったのかも知りたかった。死んでしまった大事な人間の気持ちを知りたかった。
朔の顔を見た。美しい鎮守は、かの子を見つめていた。そうか、ここで働けば、彼のそばにいられるかもしれない──。
申し出を受けようとしたときだ。
「反対でございますぞ」
言ったのは、くろまるだ。見れば、小さな顔を思い切り
「なぜだ?」
「この娘は、半人前の職人でございますぞ。かのこ庵を任せるには、力不足でございましょう」
紛れもない事実だ。技術も経験も足りていないのは、かの子も自覚していた。経営に至っては、ずぶの素人だ。
「わたくしも反対ですわ」
しぐれまでもが言った。こちらも、顔を顰めている。
「条件がよすぎますわ。一億一千万円の借金をチャラにした上に、お給料と住む場所まで与えるなんて、
これも正論だ。正論すぎて、ぐうの音も出ない。
「この娘は追い出してくだされ!」
「わたくしも、そのほうがいいと思いますわ」
くろまるとしぐれが、口々に朔に訴えた。
「おまえらの言い分は分かった。一理ある。もっともだな」
美形の鎮守は頷き、穏やかに返事をした。
「だが、かの子に店を任せることに変わりはない。かのこ庵で和菓子を作ってもらうことは決定だ」
何の説明にもなっていない。くろまるとしぐれは納得しなかった。
「若のお考えでも、我は賛成できませぬぞ!」
「わたくしも反対ですわ! この娘に一億一千万円の価値はありませんわ!」
かの子自身も、自分に一億円オーバーの価値はないと思うのだが、朔は首を横に振る。
「価値はある」
ふたたび断言し、諭すように続けた。
「おまえらも、かの子の和菓子を食べれば分かる」
この言葉には驚いた。食べたこともないだろうに、とんでもない高評価だ。目を丸くしていると、もう一つ、驚くことが起こった。
「和菓子なんか食べたくありませんニャ!」
「……え?」
かの子は、しぐれの顔を見た。猫語だったからだ。表情からは分からないが、女の子の幽霊は噓をついている。ただ、それを追及している暇はなかった。
「話になりませんな!」
「ここにいるだけ時間の無駄ね!」
くろまるとしぐれが吐き捨てるように言って、店から出ていってしまった。
ふたりの言っていることは間違っていないし、いきなり部外者がやって来て面白くない気持ちも分かる。
でも、引き下がるわけにはいかない。かのこ庵で働く以外に、借金を返すあてはない。それに、祖父の作った店でもあるのだ。自分の名前の付いた店だ。
「放っておいても大丈夫だ」
朔は言った。確かに鎮守が決めた以上、眷属が反対しようと働くことはできるだろう。
だが、かの子は放っておきたくなかった。両親が死んで泣いていたとき、猫の姿をした
「あの……。私──」
それだけで伝わったようだ。朔は、何でも分かってくれる。
「鎮守の森にいる」
くろまるとしぐれの居場所を教えてくれたのだった。
○
鎮守の森とは、神社に付随する木立のことだ。御堂神社とかのこ庵を取り囲むように、木々が茂っていた。かの子は、森の中に足を踏み入れた。
「何か、すごい……」
思わず声が漏れた。夜だから、そう感じるだけなのだろうか。それほど広くないはずなのに、深い森林に迷い込んだ気になった。また、神域である森の空気は澄んでいて、都内とは思えないほど静かだ。
明るい月のおかげで視界は悪くないが、くろまるとしぐれの姿はなかった。気配さえない。どうやら隠れているみたいだ。
かの子は困った。噓が猫語に聞こえたり、妖と話すことができたりするけれど、それ以外は、普通の人間だ。隠れている妖や幽霊を見つけられるわけがなかった。
それでも、さがした。森の中を歩き回り、声を上げた。
「ふたりとも、どこにいるの? ねえ、出てきて」
その声は遠くまで響いていく。ふたりの耳にも届いているはずだが、返事はない。出てくる気配もなかった。
めげそうになる気持ちを奮い立たせて、「お願いだから出てきて」と何度も何度も繰り返した。鎮守の森を歩き回りながら呼びかけた。
でも、やっぱり、くろまるとしぐれは現れなかった。声が
さがしても、さがしても、さがしても見つからなかった。どんなに呼びかけても返事をしてくれない。ふたりと話そうと外に出てきたが、くろまるとしぐれの顔を見ることさえできなかった。
おまえの顔なんて見たくない。
それが、ふたりの返事なのだ。嫌われて、拒絶されて、無視されて、かの子の心は折れた。仕事と住む場所を失って、ただでさえ折れかかっていた気持ちは弱かった。
「……うん。分かった」
神社から出ていこう。
かのこ庵から出ていこう。
それが、ふたりの望むことなのだ。沈黙は雄弁だった。
「本当に分かったから……」
もう一度だけ呟いて、かのこ庵に向かった。
スポーツバッグは店に置きっ放しだし、借金のことを話す必要もあったし、また、最後に朔と話したかった。さよならを言いたかった。
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