饅頭②
借用書
そこまでは予告されていたので、何とか耐えられた。でも、平静を装えたのも、書かれた金額を見るまでだった。
金壱億円
「一億円……」
呟いた声が、遠くに聞こえた。時間が止まるどころの騒ぎではない。立ったまま気を失いそうだ。
「この店を作るために貸した金だ」
つまり祖父は、店を持つために借金をしたようだ。確かに、土地を買って店を建てたら一億円くらいかかりそうな気もする。日本橋ほどでないにしても、江東区も地価の安い場所ではない。
そう思って店の内装を見回すと、いかにも高そうな木材が使われていた。日本橋で指折りの名店と言われている竹本和菓子店より
「江戸っ子は、宵越しの銭は持たない。金は使うためにあるんだ。そう言っていた」
祖父の言いそうなことだ。確かに、ケチるような性格ではなかったが、物には限度というものがある。一億円は、その限度を
おじいちゃん、なんてことを……。
責任を取って欲しかったけど、祖父はもうこの世にいない。頭を抱えるかの子に向かって、一億円の借金の貸し主は言葉を発する。
「作業場をのぞいてみろ。玄の選んだ道具が並んでいる。いい物をそろえたと自慢していたぞ」
──つまり、それだけお金がかかっているということだ。和菓子職人の端くれなので分かる。いい道具というのは、それなりに値が張るものだ。そして、たぶん、その費用は借金から出ている。
ごめんなさい。
もう、許してください。
全力で謝りたかった。なかったことにして欲しかった。だが、一億円の借金だ。土下座したところで許してはもらえないだろう。
「……私はどうすればいいんですか?」
そう聞くしかなかった。朔が返事をする。
「貸した金を速やかに返して欲しい」
分かってる。
それが最善だということは分かっている。分かっているけど、かの子に返せるわけがない。
見習いの和菓子職人──それもクビになったかの子の全財産は、三十万円もなかった。今月分の給料や退職金が振り込まれたとしても、百万円にも届かないだろう。一億円とは、
困った。
どうしていいか分からない。追い詰められた気持ちでいると、ふいに、漫画だか小説だかで読んだ知識が浮かんだ。
(相続放棄)
うろおぼえだが、遺産を相続しなければ借金の支払い義務はないはずだ。本来なら三ヶ月以内に放棄しなければならないが、後に負債が発覚した場合には放棄が認められることがあるという。
でも、一億円だ。誰にとっても大金である。相続放棄します、借金は返せません、と言って、「はい、そうですか」と
……諦めるわけがない。それくらいで諦めるような人間が、真夜中に会いに来たりはしない。そもそも相続放棄だって、本当にできるものなのか分かったものではなかった。
朔は、間違いなく金持ちだ。それも、一億円を貸せるレベルの大金持ちである。かの子より賢そうだし、弁護士だって雇える──いや、すでに雇っているか。とにかく、漫画や小説で読んだ程度の法律知識で戦える相手ではないだろう。
かの子も弁護士を雇うべきだろうか?
もちろん雇うべきだろうが、いくらかかるんだろう?
言うまでもなく、そんなお金はない。弁護士費用の相場も知らないし、もっと言えば、どこに行けば雇えるのかも分からなかった。
自分は世間知らずで何も知らない。おのれの知識のなさに絶望していると、朔が問いを発した。
「金がないのか?」
単刀直入な質問だった。
「……はい」
正直に返事をし、すみませんと謝ろうとしたが、遮るように言われた。
「金じゃなくてもいい」
気になる言い回しであった。朗報とも受け取ることのできる
「金じゃなくてもいい、と申しますと?」
おそるおそる質問すると、即座に言葉が戻ってきた。
「働いてもらう」
「は……働くっ!?」
悲鳴を上げそうになったのは、テレビの時代劇で見た
現代でもそういう仕事があることくらいは、かの子でも知っている。よくは知らないが、なんとなく知っている。そこで働かされるのか?
いや、待て。借金は一億円だ。そういう店で働いたとしても、とても返せない気がする。自分を卑下するつもりはないが、高く評価する度胸もなかった。とてもじゃないけど一億円の価値はないだろう。
すると、臓器売買的なやつか。人間の内臓は高く売れると、これも漫画に描いてあった。朔の台詞は、かの子の内臓に働いてもらうという意味なのか。
改めて朔の顔を見たが、二枚目すぎて何を考えているのか分からない。しかも、一億円の借金を取り立てている最中だというのに、声を荒らげることもなく、怒りも笑いも泣きもしない。
無表情と言ったが、むしろ静かな表情と評したほうがぴったりくる。この落ち着きようは、一般人にはあり得ないように思えた。やっぱり怖い職業の人なのかもしれない。
本当に今さらだが、逃げるべきだと思った。走ったところで逃げ切れる自信はなかったが、このまま何もせずに内臓を抜かれるよりはましだ。
とにかく店の外に出よう、全力で走ろう、と決めたときだった。
ひゅうどろどろ、と妙に生ぬるい風が頰を
風の吹いてきたほうに視線を向けると、入り口の戸が開いていた。閉まっていたはずなのに開いている。勝手に開くはずはないので、誰かが戸を引いたのだろう。それも外側から。
……誰か。
悪い予感しかしなかった。リストラから始まって悪いことばかり起こっているのに、まだ何かが起こりそうな予感があった。
借金取りの仲間がやって来たのだろうか?
怖い職業の人が増えるのか?
震え上がっていると、二つの影が店に入ってきた。桜色の着物を着た八歳くらいの女の子と、さっき見た小さな黒猫だった。
ほっとした。ふたりとも可愛らしい。怖そうには見えなかったが、その印象はいろいろな意味で間違っていた。
「朔、回りくどくてよ。説明が下手ですわ」
そう言ったのは、着物姿の女の子だ。言葉は丁寧だが、生意気な口調だ。ツンツンしたしゃべり方をしている。
応じたのは、名指しされた朔ではなかった。
「しぐれ! 口を
黒猫である。小さな黒猫が、テンション高くしゃべっている。子どもみたいな声だったが、時代劇に出てくる家老の
「大声を出すな、くろまる。うるさい」
朔が黒猫を注意した。驚いている様子はなかった。
「は! 申し訳ございませぬっ!」
「それがうるさいと言っているんだ」
会話を交わしたのであった。普通の状況ではなかった。普通の人間は、猫と話せない。猫がしゃべったら、たいていの人間は悲鳴を上げるか卒倒する。
しかし、朔は普通に接している。そして、かの子も驚いていなかった。悲鳴も上げないし、卒倒もしない。ただ、朔に質問をした。
「あなたも人間じゃないの?」
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