饅頭①
朔と二人きりで隅田川沿いの道を歩いて、
そういう道をわざと選んでいるのか、どこまで歩いてもひとけがなかった。朔は何もしゃべらず、やがて細い路地に入っていった。かの子も口を利かなかった。朔の後を追うように歩きつづけた。
先にも述べたように、深川は寺社の町だ。開発が進み、真新しいビルが建ち並んでいるが、今なお江戸情緒が残っていて、たくさんの寺社がある。
観光客が訪れる大きな寺社がある反面、見落としてしまいそうな小さな寺や神社も多い。朔が近づいたのは、そんな小さな神社の一つだった。
こぢんまりとした鳥居があって、
「ここだ」
「ここって……」
かの子は戸惑う。この男──朔と会ってから、ずっと戸惑っている気がするけど、それにも増して面食らった。
祖父に借金があると言われて、結局、朔についてきた。だが到着した場所は、ひとけのない深夜の神社であった。こんなところで借金の話をするのか?
かの子の視線を見て、朔が小さく首を横に振った。
「そっちじゃない」
「え?」
「神社の奥に店がある」
「奥?」
聞き返しながら目を凝らすと、境内の木々に隠れるようにして小さな建物の影があった。ただ、はっきりとは見えない。
「もうすぐだ。疲れてないか?」
「は……はい」
急にやさしい言葉をかけられて、ドギマギしながら
「では、行こう」
朔は言い、ふたたび歩き始めた。躊躇うことなく神社の敷地に入り、境内をさっさと進んでいく。夜中ということもあってか、神社はしんと静まりかえっている。
逃げるのなら、これが最後のチャンスかもしれない。朔は、こっちを見ていない。スポーツバッグを返してもらっていないが、それは警察に任せればいい。
そうだ。そうしよう。逃げよう。初めて会った男についていくなんて、自分はどうかしていた。頭に置かれた手の感触はやさしかったけど、そんなに悪い男には見えないけど、やっぱり危険だ。
気づかれないように、
猫だ。猫がいた。
黒猫が前方の建物のそばから、こっちを見ていた。たぶん、ただの猫ではない。物言いたげな顔をしていたけど、すぐに顔を引っ込めてしまった。でも、どこかへ移動した様子はない。きっと、あそこにいる。
猫がいれば大丈夫だ、とかの子は思った。
ある意味では正しかったが、ある意味では間違っていた。言うほど大丈夫ではなかったのだ。
○
神社の境内には、白い玉砂利が敷いてあった。空には満月が浮かんでいて、その光を受けて真珠のように輝いている。
朔の後ろを歩くようにして境内を進んでいるうちに、ふと既視感をおぼえた。この神社を知っている。玉砂利を踏む感触を記憶していた。
深川には、子どものころから何度も来ている。祖父が通い、そして、最後に入院していた病院も、ここから歩いていける距離にあった。
昔から神社が好きだった。大人になった今でも、神社を見つけるたびに手を合わせる。ここを訪れていても不思議はない。
だけど、いつ来たのかは思い出せなかった。たくさんの神社を訪れているせいで記憶が入り混じっている。他の神社と勘違いしている可能性もあった。白玉砂利を敷いている神社は珍しくない。
そんなことを考えていたせいだろう。考えごとをするときの癖で、うつむいていたのかもしれない。
「この店だ」
朔に言われて、はっと顔を上げた。目の前に、一階建ての木造建築があった。
「わあ……」
ため息にも似た声が出た。建物の
入り口の前に、江戸時代の茶屋を思わせる長方形の腰掛け──木製の縁台が置かれ、鮮やかな色の
「月を見ながら茶を飲むためだ」
朔が教えてくれた。ここは、この男の所有する建物なのだろうか? 疑問がまた増えた。かの子は、朔のことを何も知らない。借金が本当だったとしても、どんな経緯で借りることになったのかも分からないままだ。
「あの──」
とにかく話を進めようと思ったときだ。目の前の建物に
その文言が問題だった。
かのこ
私の名前?
いや、そう思うのは自意識過剰というものだろう。「かのこ」という名前は珍しいものではないし、人名以外にも、
だけど、質問せずにはいられなかった。聞かずにはいられなかった。
「ここは──」
「そうだ」
朔の返事は早かった。かの子の話を最後まで聞かずに頷いた。これでは、何について肯定したのか分からない。しかも、それ以上の説明をせずに、目の前の建物──かのこ庵の戸を引いた。
「中に入ってくれ」
かの子を促したのだった。
○
客が五人も入れば、いっぱいになりそうな小さな店だった。昔ながらの木のぬくもりを感じる内装だ。店内にも、外にあったのと同じ縁台と緋毛氈が置いてある。また、大きな窓があって、神社の境内がよく見えた。
万事に鈍いと評判のかの子だが、さすがに何の店か分かった。商品が置かれていなくても、雰囲気で分かる。
「ここ、和菓子屋さんですよね」
「そうだ」
ふたたび頷き、それから、当たり前のように付け加えた。
「杏崎玄の店だ」
「…………」
また、かの子の時間が止まった。今日、二度目だ。息を
「……え?」
祖父の店?
どういうこと?
「かのこ庵は、杏崎玄の店だ」
「本当ですか?」
「ああ。本当だ。うちの土地を買って、この店を作った」
猫語になっていない。本当のことを言っている。本当の本当に、ここは祖父の店なのだ。
「証文がある。見るか?」
問われて、その言葉をさらに聞き返す。
「証文?」
「そうだ」
口癖なのだろうか。この短時間で、何度も「そうだ」と言っている。朔は、店の
「読んでみろ」
感情の読み取れない顔で言われた。命令し慣れている口調だった。無理やりという感じはないが、逆らえない圧を感じた。
「は……はい」
茶封筒を受け取り、中の書類を手にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます