ケーキ④

 時間が止まったような気がした。

 少なくとも、かの子の時間は止まった。呼吸をするのを忘れ、心臓も止まりそうになっていた。

 見知らぬ男が、かの子のフルネームを言った。「一緒に来てもらう」と言った。ナンパでも怖いところだが、目の前の男にそんな軽い雰囲気はじんもなかった。

 目つきは鋭く、一般人とは思えない迫力がある。高そうな着物が、やたら似合っているのも気になった。若いくせにかんろくがありすぎる。さっきから、まったく表情を変えないのも怖い。

 真っ先に思い浮かんだのは、反社会的勢力、つまり暴力団関係者や半グレと呼ばれる人たちだ。その世界のことは詳しくないけれど、深川や日本橋にもいるだろう。

 だとすると、大ピンチである。怖い人が、かの子を連れていこうとしているということだ。

 ふたたび猫をさがした。

 祈るような気持ちで、猫をさがした。

 しかし、やっぱり、どこにもいない。かの子を助けてくれそうなは、見える範囲にいなかった。

 あきらめ切れずにさがし続けていると、男が聞いてきた。

「何をキョロキョロしている? さがしものか?」

 相変わらず無表情な上に、静かな声だった。かの子はその声を聞いて、今さら、ふと気づいた。

〝ぼんやりするな〟

〝諦めるな──行け〟

 さっき聞こえた声は、たぶん目の前の男のものだ。怖い人が因縁をつけてきたのではなかった。それどころか助けてくれたのだ。

 バイクを倒したのは、この男の飼い犬なのだろうか? 命じる声は聞いた。仮にそうだとしても、白犬と黒犬はどこに行ったのか? あんな大きな犬たちが、煙のように消えてしまったのは不思議すぎる。

 疑問が、頭に浮かんだ。でも、それらを口にする前に、男が言葉を発した。

「かの子」

 突然、下の名前で呼ばれた。不意打ちなのに、この男とは初対面のはずなのに、声を聞いたおぼえがあった。懐かしいような空気を感じた。

 このイケメンと会ったことがあったのか?

 いや、こんな二枚目の知り合いはいない。妄想だ。きっと子どものころに読んだり見たりした少女漫画やアニメの記憶と混同しているのだろう。

「どうかしたのか?」

「い……いえ」

 かの子は首を横に振った。まさか少女漫画のヒーローに似ているなんて言えない。彼は追及することなく、問いを重ねた。

「こいつはどうする?」

「こいつ?」

 おう返しに聞くと、男は視線を動かしながら答えた。

「そこに転がっている男だ」

 かの子からスポーツバッグをひったくったやからが、バイクと一緒にアスファルトに倒れていた。フルフェイスのヘルメットをかぶっているので顔は見えないが、身体つきは男のものだった。

 だが、ぴくりとも動かない。その様子はあまりにも不吉だった。

「……死んでるんですか?」

「残念ながら、生きている。たいした怪我もしていない。身の程知らずの不届き者が、のんきに気を失っているだけだ」

 節々に気になる語句があったけれど、噓はついていない。男の言葉は、猫語になっていなかった。ひったくりは、生きているようだ。

 かの子は、ほっとした。泥棒がどうなろうとよさそうなものだが、殺人事件に巻き込まれたくはなかった。死体を見るはめにならなくてよかった。本当によかった。

 そんなふうに胸をで下ろしていると、男がさっきの質問を繰り返した。

「で、どうする?」

 ふたたび不吉な予感に襲われる。

「……どうすると申しますと?」

「こいつの始末だ。隅田川に沈めておくか?」

 よどみない口調で聞かれて、「はい」と返事をしそうになったが、ここでうなずいたら殺人事件の当事者になってしまう。

「やめてくださいっ!」

「やめる? つまり許してやるのか?」

 そう問われた。許すか、隅田川に沈めるかの二択なのか。

「私はバッグが戻ってくればいいので、放っておいてあげてください」

 懇願する口調になった。これ以上のトラブルに巻き込まれたくなかった。

「それでいいのなら、そうしよう。かの子に怪我がなくて幸いだった」

 無表情で淡々とした口調なのに、ほっとしたように聞こえたのは、かの子の気のせいだろうか。首を傾げていると、男の手が動いた。

「本当によかった」

 独り言のように呟き、なんと、かの子の頭に手を乗せたのだった。

「……っ?」

 びっくりしたが、その手を払いのけなかった。驚いたけれど、不思議と嫌ではなくて、どこか心地いい。今日の自分はおかしい。初めて会った男に触れられて、頰を赤く染めている。

 顔を熱くするかの子に気づいたらしく、男が手を引っ込めた。はっとしたような仕草だった。

「すまない。人と接することに慣れていないんだ」

「いえ……」

 どう返事をすればいいのか分からないので、あいまいに頷いた。かの子は、男と接しているうちに、子どものころに会ったことのある少年を思い出していた。

 季節外れの雪のような淡い記憶だった。今となっては、本当にあったことなのかも分からない。その男の子と、どこで会ったのかも忘れてしまった。だけど、少年のやさしい笑顔はおぼえていた。

 それは、かの子の初恋だったのかもしれない。翼の折れた鳥のように、どこにも行けなかった遠い昔の出来事だ。

 目の前の男は、あの少年とは違う。こんなに背は高くなかったし、頭を撫でられた記憶もない。

 それなのに、どうして──。

 どうして、思い出したんだろう。


    ○


「行くとするか」

 和装の男はそうつぶやいて、かの子のスポーツバッグを拾い上げた。

「こっちだ」

 道を教えるように言ってから、歩き始めた。一緒に来いということだろうが、さすがに従えない。初恋の少年の思い出を頭の隅に追いやった。

「待ってください!」

 呼びかけると、男は足を止めた。

「何だ?」

「バッグを返してください」

「気にするな。おれが持っていってやる」

「持っていくって……。ど、どこにですか?」

「杏崎かの子に話がある。一緒に来い」

「お断りします!」

 大声を出してしまった。数秒の沈黙の後、男が問い返してきた。

「どうして断る?」

「だって、あなたのことを知りませんから」

 他にも断る理由はあるような気がするが、何はともあれ、知らない人について行ってはならないのは常識だろう。

「知らない?……そうか。まあ、そうだろうな」

 男は呟くように言ってから、透き通った声で続けた。

「さく」

 そう聞こえた。しかし、それが何なのか分からない。さっきから分からないことだらけだ。

「おれの名前だ。新月の〝さく〟。どう朔」

 自己紹介をしたようだ。猫語になっていないので本名だ。そして、たった今、気づいたことだが、この男はさっきから一度も噓をついていない。無表情──静かな表情のまま、本当のことを言い続けている。

「御堂朔……さん?」

「そうだ」

 朔は頷き、かの子に言った。

「これで知り合いだ。一緒に来てくれ」

 その理屈はおかしい。名前を言えば、それで知り合いになるというものではなかろう。しかも、冗談やふざけているのではなく、本気でそう思っているようだ。見た目は王子さまだが、いろいろな意味で危ない人なのかもしれない。

「こ、困ります」

「困らせるつもりはない」

 すでに困っているのに、男はそんなことを言った。

「さっきも言ったが、杏崎かの子に話がある。大切な話だ」

 無表情なのは相変わらずだけど、やさしい声だった。見つめられて根負けしそうになった。大切な話というのも気になる。

 だからと言って、一緒に行くのは躊躇ためらいがあった。

「ここで話してください。何の話なのか教えてください」

「分かった」

 男はあつないほど簡単に頷き、とんでもないことを言い出した。

「杏崎玄に金を貸した。その話だ」

 人生の袋小路こうじにいたのは、美形の借金取りだった。そして、この瞬間から、かの子の人生は変わった。

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