ケーキ③

    ○


 祖父が死んで独りぼっちになった。

 頼れる人は、もう誰もいない。

 その上、仕事と住居を同時に失ったかの子は、東京都こうとう区──「ふかがわ」と呼ばれる一角にやって来た。日本橋と深川は、すみがわを隔てて隣接している。えいたいばしを渡れば、そこは深川だ。

 寺社の町としても知られており、深川不動堂やとみおかはちまんぐうなど世界的に有名な観光スポットもたくさんある。海外から訪れる者も多く、もんぜんなかちようでは観光客を見ない日がなかった。

 その一方で、下町情緒あふれる庶民の町でもあった。昔ながらの商店街があり、永代通りを中心に約百三十店舗が軒を連ねている。土地の人々は親しみやすく、お高くとまったイメージもない。日本橋より手ごろな宿があるような気がして、深川にやって来たのだ。

 ただ、具体的な心当たりがあったわけではない。ビジネスホテルに泊まると決めたのはいいが、かの子は世間知らずだ。修学旅行などの学校行事以外で外泊をしたことがなかった。どうすれば泊まれるかすら、ろくに知らなかった。

 見習いの和菓子職人の給料は安く、無理をして買うほどの興味もなかったので、スマホやタブレットを持っていない。だから、泊まることのできそうなホテルを調べることもできなかった。

 行く当てもなく夜の町をさまよっていると、どうしようもなく心細い気持ちになる。救いを求めるように、いつもの癖で猫の姿をさがした。

 でも猫はいなかった。

「そんなに都合よくいかないか」

 をさがしていたわけではないのだ。いや、普通の猫さえ、どこにもいない。いなかった。

「これから、どうしよう……」

 ため息混じりに呟き、がっくりと肩を落とした。そのときのことだった。背後からバイクのエンジン音が聞こえた。こっちに向かってきている。

 夜中だろうとバイクは走っている。暴走族のようにやかましい音を立てているわけでもないので、気に留めず振り向きもしなかった。

 だが、その判断は間違っていた。物騒な世の中なのだから、もっと用心すべきだった。若い男の声が、それを教えてくれた。


〝ぼんやりするな〟


 どこからともなく聞こえてきた。注意を促すような口調だった。

 声の主をさがそうとしたが、その余裕はなかった。バイクがすぐ近くにいた。そして、かの子を追い抜かす瞬間、ライダーが手を伸ばし、スポーツバッグを奪い取っていった。

「……ひったくり?」

 驚きすぎて、周囲に誰もいないのに質問するように呟いてしまった。奪われたスポーツバッグには、かの子の全財産──財布やキャッシュカード、さらには、印鑑や保険証、マイナンバーカードが入っている。

「ど、泥棒っ?」

 大声をあげて、バイクを追いかけた。だが到底追いつけるはずもなく、しかも、かの子は運動が苦手だった。何歩もいかないうちに足がもつれて、アスファルトに転んでしまった。

 バイクは遠ざかっていく。もう駄目だ。追いつけない。全身から力が抜けて、へたり込んだ。立ち上がる気力はない。仕事と住居を失った上に、全財産をひったくられてしまった。

「もう嫌……」

 泣きべそをかきながら呟いたときだ。

 ふたたび、男の声が聞こえた。


〝諦めるな──行け〟


 最後の言葉は、誰かに命じたようだ。すると、返事をするように犬が鳴いた。

「わんっ!」

「わんっ!」

 次の瞬間、どこからともなく二匹の大きな犬──もふもふとした毛並みの白犬と黒犬が現れ、かの子の脇を走り抜けていった。まるで疾風のようだった。バイクの何倍も速い。

 わずか数秒後、前方でバイクが転倒した。白犬と黒犬が飛びかかって倒したのだった。座り込んでいるかの子の目にも、はっきりと見えた。

「どうして犬が……」

 意味のないつぶやきだった。現実のこととは思えず、何秒間かぼうぜんとしていたが、すぐに正気に返った。荷物を取り戻さなければならないことを思い出したのだ。

「私の全財産……」

 かの子は立ち上がり、よろよろと歩き出した。実のところ怖かった。何しろ、バイクを倒すほどの大型犬である。かの子を助けてくれたように思えるが、油断はできない。襲われたら命にかかわるだろう。ライダーは生きているのだろうか?

 しかし、用心しながら近づいてみると、白犬と黒犬は消えていた。さっきまでいたはずなのに、どこにもいない。その代わり、二十五歳くらいの男が立っていた。

 うわぁ、と声が出そうになったのは、とんでもない二枚目だったからだ。竹本和菓子店に、芸能人やモデルの客が来たことがあったが、目の前の男は、彼らよりも顔立ちが整っていた。切れ長の目に薄い唇。れいとしか表現のしようのない鼻筋。西洋人形のような顔をしていた。

 服装もあかけていた。和装だ。ぎんねずというのだろうか。上品な灰色の着物を着ている。

 髪型も少女漫画に登場する王子さまのようだった。絹のように滑らかな髪を長く伸ばし、くみひもで結んでいる。髪や眼球が青みがかって見えたが、それは夜の闇のせいかもしれない。

 女性的とも言える容姿だが、か弱い印象はなかった。りんとしていて、しかも無表情だ。近寄りがたい雰囲気を放っている。

 言葉をかけるべきか分からず黙っていると、男のほうから話しかけてきた。

「杏崎かの子だな。一緒に来てもらおうか」


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