ケーキ②
労働基準法によると、労働者を解雇する場合、三十日以上前に予告するか、三十日分以上の平均賃金を支払わなければならない。適当にクビにしてトラブルになる例もあるようだが、新はきっちりとしていた。
「規定の給料と退職金を振り込みます。今までと同じ口座でよろしいですね」
失業手当をもらうための離職票なども用意してあった。かの子の退職は、完全に決まったことのようだ。抵抗しても覆りそうにない。
失業していろいろ困ることはあるが、最大の問題は住居だ。住み込みの職人として雇用されていたので、同時に寝起きする場所もなくなってしまった。祖父と暮らしていた賃貸マンションは解約済みだ。
そのことは、新も知っていた。
「すぐに出ていく必要はありません。特に、今日はもう遅いですから」
と、言ってくれたが、同情されたくないという気持ちがあった。解雇されたのに、店にいるのはおかしいとも思った。新や他の従業員と顔を合わせるのも気まずい。かの子にだって意地がある。
新が
「それでですね。今後の就職先として──」
クビを告げた舌の根の乾かぬうちに、新しい仕事を
「心配していただかなくても結構ですニャ。行くあてくらいありますニャ。お気遣いは無用ですニャ」
……やってしまった。
語尾が「ニャ」──猫語になってしまった。言い間違えたわけでも
かの子には、不思議な力があった。噓が猫語に聞こえる。語尾が「ニャ」と聞こえる。なぜか、そう聞こえるのだ。ちなみに、たった今、噓をついたのは自分自身だ。自分の噓を見抜いたのだ。
行くあてなんて、どこにもなかった。
噓が猫語として聞こえる理由は分からない。子どものころから聞こえたし、祖父や父もそうだったというから血筋なのかもしれない。
実は、杏崎家には、怪しげな伝承があった。かなり噓くさい伝承だ。
○
古い家柄と言えるのは、文書などで記録が残っているからだろう。今となっては昔のことだが、新しい家より古い家がよいとされていた時代がある。
かの子が生まれた杏崎家も、記録が残っているという意味では「名家」と言えなくもない。代々の菓子職人だったようだ。
そこまではいい。先祖代々の家業があったというだけだ。そんな家はいくらでもあるだろう。菓子職人は、怪しげな職業ではない。
怪しげなのは、
ただそれは私文書──つまり、個人が記した家の記録だ。言ってみれば日記のようなものであり、どこまで
だいたい猫語という時点で、何だかよく分からない。性格の悪い陰陽師にからかわれたようにも思えるが、噓が分かるのは事実である。
どうして、そうなるのか。
どんな理屈で噓が猫語になるのか。
陰陽師は何のつもりで、こんな面倒な能力を与えたのか。
暮らしに余裕があれば調べてみようと思ったかもしれないが、それどころではなかった。かの子が小学生のとき、両親が交通事故にあって他界し、祖父と二人で東京の片隅で暮らし始めた。
高齢のためもあって、祖父は身体の調子が悪かった。かの子が中学校に入るころには、働くことができないほど重い病気になってしまった。以後は、それまでの貯金や両親の残してくれたお金で暮らしていた。貧しいと思ったことはなかったけれど、裕福でなかったのは間違いない。頼れる
大人になった今でも裕福ではないし、頼れる親戚はいない。付け加えると、かの子には友達もいなかった。噓を聞き分ける能力のせいだ。
子どもだったかの子は、友達の噓を何度も指摘してしまった。
「それ、噓だよね」
「そんな噓、つかなくても平気だよ」
悪気があったわけじゃない。自分に気を遣わなくていい、という意味で言ったつもりだった。
だけど指摘するたび、友達は減った。かの子を敬遠するようになった。今なら、言うべきじゃなかったと分かるが、子どものころは分からなかった。
気づいたときには、友達がいなくなっていた。かの子は自分の殻に閉じこもり、笑みを顔に貼り付けるようにして生きている。友達ができないことを
「今日は、ビジネスホテルに泊まるか」
大人になったかの子は声に出して
「まだ、話が──」
と、しつこく言い続ける新を振り切って出てきたのだった。
夜は嫌いだ。
暗い夜は、〝すべての終わり〟を連想させる。だからだろう。歩きながら祖父が死んだときのことを思い出した。
両親に代わって自分を育ててくれた祖父は、もう、この世にいなかった。
○
かの子が、製菓の専門学校に通っていたときの話だ。祖父は、日本橋にある大きな病院に入院していた。お見舞いに行くと、ベッドに横たわったまま、かの子に言ってきた。
「修業するなら和三郎の店だ。間違いねえ。日本橋にあるってのもいい」
江戸前の職人らしく言葉遣いは乱暴だったが、声に力がなかった。祖父は、もうベッドから身体を起こすこともできない。つい一ヶ月前まで病院を抜け出して、医者や看護師に𠮟られていたのが噓のようだ。
病室も緩和ケア病棟に移っていた。治療ではなく、痛みや苦しみを和らげる処置を受けている。治すことはできない、あと一月も
それなのに、かの子のことばかり心配している。入院してからも、ずっとかの子のことを気にしていた。
そんな祖父に
でも、その願いは
「おじいちゃん、死なないで」
かの子は、泣きながら頼んだ。これ以上、大切な人を失いたくない。その思いがあふれ出た。
「お願いだから死なないで! 私、独りぼっちになっちゃうよ!」
病院では静かにしなければならないのに、大声を出してしまった。ただ、緩和ケア病棟は一般病棟とは違う。よほどの真似をしないかぎり
泣きじゃくっていると、祖父の声が耳に届いた。
「おれがいなくなっても大丈夫だ。おまえは幸せになれる。かの子は独りぼっちにはならない」
それが、最後に聞いた言葉になった。祖父の遺言だ。
その直後、
かの子を置いて、両親のいる世界に行ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます