ケーキ①
和菓子職人になって五年目のことだ。かの子は、二十二歳になっていた。全財産の入ったスポーツバッグを持って、独りぼっちでひとけのない夜道を歩いている。
まるで家出娘みたいだけど、家出してきたわけではない。状況は、もっと悪い。かの子には帰る場所がなかった。ついさっき、仕事と住居を同時に失った。住み込みで働いていた職場をクビになったのだった。
そして今、東京都
「女が一人で夜道を歩くんじゃねえ!」
祖父だったら、そんなふうに𠮟っただろう。
「分かってるよ……」
このとき、かの子はえび茶の
専門学校を出た後、日本橋にある『
たくさんの人たちを笑顔にしたくて和菓子職人になったのだが、かの子自身の顔に笑みはない。
もはや、かの子は、和菓子職人でさえなくなってしまったのだ。
○
二時間くらい前のことである。勤めている竹本和菓子店の営業時間が終わり、シャッターを降ろした後、店主の竹本
「店を辞めてもらいます」
かの子は、戸惑った。この場合、戸惑わないほうが、どうかしているだろう。
「ええと……。それは……」
「解雇の告知です」
にこりともせずに言ったのだった。新は、今年三十歳になる。日本橋に店を構える和菓子店の主人としては、かなり若いほうだろう。
細面で顔立ちは整っていて、金縁眼鏡をかけている。和菓子職人といった
性格も見た目通りで、よく言えば合理的、悪く言えば冷たい〝冷血眼鏡〟だ。口うるさいタイプでもあった。
かの子は嫌われているらしく、他の従業員よりも𠮟られる回数が多かった。ほとんど毎日のように小言を言われていた。当たりもきつかった。
「新さんって、かの子のことが好きなんじゃないの? 男の子って、好きな女の子にちょっかい出すって言うじゃない。いいところを見せようとして張り切っている的な」
そんな感じで同僚にからかわれたことがあったけれど、それでは小学生だ。三十歳にもなって、あり得ないだろう。
かの子は、内気だ。殻に閉じこもるようにして生きている。嫌なことを言われても、言い返すことは滅多になく、聞かなかった振りをして受け流す癖がついていた。
でも、今回は別だ。いくらなんでも聞き流せない。祖父みたいな和菓子職人になる夢は譲りたくなかった。自分はまだ、みんなを笑顔にする和菓子を作ることができない。この店で修業していたかった。
「理由を伺ってもいいでしょうか?」
「もちろんです」
新は頷いた。問われることを予想していたようだ。指を折るようにして、一つ目の理由を口にした。
「まず、業績不振です」
日本橋は、和菓子の激戦区だ。どらやきで有名な『うさぎや』、カステラの『文明堂』、
店を維持することさえ難しい土地で、竹本和菓子店は三十年間も
和三郎は、かの子の祖父の弟弟子で、若いころから「名人」と呼ばれている男だった。知る人ぞ知る存在だった祖父と違い、雑誌やテレビで取り上げられることも多く、いわば有名人だ。
竹本和三郎に和菓子作りを教わりたくて、かの子はこの店に入った。祖父のすすめもあったが、弟弟子に教わることで祖父の味に近づける。みんなを笑顔にする和菓子を作れるようになると思ったのだ。
しかし、教わることはできなかった。かの子が働き始めるのと入れ替わるように、竹本和三郎が隠居してしまったのだった。息子の新に店を譲り、自分は顔も出さない。どうやら病気らしい。東京を離れて
和三郎の隠居にダメージを受けたのは、かの子だけではなかった。竹本和菓子店も、また大変なことになっていた。
どんな名店でも代替わりは苦労する。ましてや竹本和三郎は、日本を代表する職人だ。いなくなった影響は大きかった。日に日に客が減り、売上げが半分近くも減ってしまった。
ケーキやクッキーなどの洋菓子を店頭に並べたりと、新なりに工夫をしているようだが、今のところ効果は出ていない。それどころか、その工夫は昔からの常連客の受けが悪かった。彼らは、竹本和三郎の和菓子──いわゆる正統派の和菓子を求めているのだから、当然なのかもしれない。
売上げが減って下っ端が切られるのは、どこの業種でもあることだろうが、さすがにいきなりすぎるし、他の従業員がクビになったという話は聞かない。アルバイトも普通に勤務している。かの子だけが解雇されるようだ。
「二つ目は、あなたの勤務成績です」
「勤務成績?」
「ええ。クリスマスケーキを一つも売っていませんよね。しかも、売ろうとさえしていない」
「それは……」
否定できなかった。
「クリスマスケーキの予約を取ってください、とお願いしたはずです」
確かに、言われた。アルバイトを含めた全員が、その指令を受けていた。職人と言っても、和菓子を作っていればいいというものではない。店に出て接客をするのも大切な仕事だ。
竹本和菓子店では、クリスマスケーキを扱っている。先代の竹本和三郎が始めたことだ。ただし、洋菓子ではなかった。練り切りや
メディアで取り上げられたことも多く、竹本和菓子店の看板商品と言ってもいいだろう。だが、誰もが作れるものではなかった。高い技術とセンスが必要だ。
「今の私では、売り物になる和菓子ケーキは作れません」
これは、新の言葉だ。納得できるレベルのものを作れなかったのだ。新は和菓子ケーキをお品書きから引っ込めて、一般的な洋菓子のクリスマスケーキを店頭に並べることにした。
「クリスマスケーキを売る必要性は分かりますね?」
「……はい」
新の問いに、かの子は
でも、かの子は常連客にクリスマスケーキを勧めなかった。和菓子を買いにきた年配の常連客に、生クリームをたっぷり使った洋菓子のケーキを売ることに
そして何よりも、客が洋菓子のケーキを望んでいないと分かったからだ。新の作ったケーキを「あら、素敵ね」と褒めた常連客もいたが、かの子には、その言葉が噓だと分かった。はっきりと聞こえるのだ。
そのことは、誰にも言ったことがない。噓が分かることは内緒だ。もちろん、新にも言っていない。死んでしまった両親、それから祖父だけが知っていた。
いつか、分かってくれる人が現れるから。
それまで誰にも言わないほうがいいと思うの。
母の言葉だ。幼いころから、何度も言われている。かの子は、それを守っていた。だから、このときも、ケーキを売らなかった説明をしなかった。
新は、かの子を解雇する理由の発表を続ける。
「三つ目は、あなたの作る和菓子です」
「……駄目ですか?」
おずおずと聞いてみた。銀行員みたいな見た目だが、新は決して下手な職人ではない。少なくとも、かの子より腕は上だ。その新の意見を聞きたかった。
「あくまでも私の感想ですが、筋はいいと思います。専門学校を出てわずか数年で、あれだけの和菓子を作るのは立派なものです」
猫語になっていない。経験不足を指摘しつつ、かの子の腕を認めてくれている。うれしかった。
だが、よろこんだのも束の間、新が切り捨てるように言った。
「ただし、竹本和菓子店の味とは違うものです」
どきりとした。見抜かれていた。かの子が目指しているのは、祖父の味だった。この店の味とは、やっぱりどこか違うということだろう。
図星を指されて言葉を失っていると、新が話を終わらせた。
「以上の理由により、杏崎かの子さんとの労働契約を解除させていただきます」
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