ケーキ①

 和菓子職人になって五年目のことだ。かの子は、二十二歳になっていた。全財産の入ったスポーツバッグを持って、独りぼっちでひとけのない夜道を歩いている。

 まるで家出娘みたいだけど、家出してきたわけではない。状況は、もっと悪い。かの子には帰る場所がなかった。ついさっき、仕事と住居を同時に失った。住み込みで働いていた職場をクビになったのだった。

 そして今、東京都ちゆうおうほんばしを歩いている。その名前の通り、東京都の中心で日本有数のオフィス街がある地区だが、今歩いているのはその外れだ。夜遅くまで開いている飲食店もなく、この時間は閑散としている。最近、治安が悪くなったらしく、ひったくりなど物騒な事件も起こっていた。

「女が一人で夜道を歩くんじゃねえ!」

 祖父だったら、そんなふうに𠮟っただろう。

「分かってるよ……」

 つぶやきが漏れた。息が真っ白だ。空気が冷たかった。もう十二月も中旬をすぎているのだ。いくら最近の冬は暖かいと言っても、真夜中は寒い。そこそこ薄着だということもある。

 このとき、かの子はえび茶のを着て、その上に白のダウンジャケットを羽織った格好をしていた。着ているのは、それだけだ。上半身はともかく、足のほうが寒かった。部屋着のまま、出てきてしまったのだ。

 専門学校を出た後、日本橋にある『たけもと和菓子店』に職人として就職した。祖父のような和菓子職人になろうと修業していたけれど、その生活は終わってしまった。

 たくさんの人たちを笑顔にしたくて和菓子職人になったのだが、かの子自身の顔に笑みはない。

 もはや、かの子は、和菓子職人でさえなくなってしまったのだ。


    ○


 二時間くらい前のことである。勤めている竹本和菓子店の営業時間が終わり、シャッターを降ろした後、店主の竹本あらたがいきなり言った。

「店を辞めてもらいます」

 かの子は、戸惑った。この場合、戸惑わないほうが、どうかしているだろう。

「ええと……。それは……」

「解雇の告知です」

 にこりともせずに言ったのだった。新は、今年三十歳になる。日本橋に店を構える和菓子店の主人としては、かなり若いほうだろう。

 細面で顔立ちは整っていて、金縁眼鏡をかけている。和菓子職人といったふうぼうではなく、テレビドラマに出てくる切れ者の若手銀行員をほう彿ふつとさせるようぼうだ。

 性格も見た目通りで、よく言えば合理的、悪く言えば冷たい〝冷血眼鏡〟だ。口うるさいタイプでもあった。

 かの子は嫌われているらしく、他の従業員よりも𠮟られる回数が多かった。ほとんど毎日のように小言を言われていた。当たりもきつかった。

「新さんって、かの子のことが好きなんじゃないの? 男の子って、好きな女の子にちょっかい出すって言うじゃない。いいところを見せようとして張り切っている的な」

 そんな感じで同僚にからかわれたことがあったけれど、それでは小学生だ。三十歳にもなって、あり得ないだろう。

 かの子は、内気だ。殻に閉じこもるようにして生きている。嫌なことを言われても、言い返すことは滅多になく、聞かなかった振りをして受け流す癖がついていた。

 でも、今回は別だ。いくらなんでも聞き流せない。祖父みたいな和菓子職人になる夢は譲りたくなかった。自分はまだ、みんなを笑顔にする和菓子を作ることができない。この店で修業していたかった。

「理由を伺ってもいいでしょうか?」

「もちろんです」

 新は頷いた。問われることを予想していたようだ。指を折るようにして、一つ目の理由を口にした。

「まず、業績不振です」

 日本橋は、和菓子の激戦区だ。どらやきで有名な『うさぎや』、カステラの『文明堂』、ようかんの『とらや』など名店が軒を連ねている。和菓子好きにとっては「聖地」とも言える場所だ。

 店を維持することさえ難しい土地で、竹本和菓子店は三十年間も暖簾のれんを守っていた。評判もよく、ガイドブックなどにも頻繁に紹介されている。だが、それは新の功績ではない。彼の父親──竹本さぶろうのおかげだった。

 和三郎は、かの子の祖父の弟弟子で、若いころから「名人」と呼ばれている男だった。知る人ぞ知る存在だった祖父と違い、雑誌やテレビで取り上げられることも多く、いわば有名人だ。

 竹本和三郎に和菓子作りを教わりたくて、かの子はこの店に入った。祖父のすすめもあったが、弟弟子に教わることで祖父の味に近づける。みんなを笑顔にする和菓子を作れるようになると思ったのだ。

 しかし、教わることはできなかった。かの子が働き始めるのと入れ替わるように、竹本和三郎が隠居してしまったのだった。息子の新に店を譲り、自分は顔も出さない。どうやら病気らしい。東京を離れて秩父ちちぶの田舎で静養しているという。

 和三郎の隠居にダメージを受けたのは、かの子だけではなかった。竹本和菓子店も、また大変なことになっていた。

 どんな名店でも代替わりは苦労する。ましてや竹本和三郎は、日本を代表する職人だ。いなくなった影響は大きかった。日に日に客が減り、売上げが半分近くも減ってしまった。つぶれる寸前とまでは言わないまでも、かなり厳しい状況だ。

 ケーキやクッキーなどの洋菓子を店頭に並べたりと、新なりに工夫をしているようだが、今のところ効果は出ていない。それどころか、その工夫は昔からの常連客の受けが悪かった。彼らは、竹本和三郎の和菓子──いわゆる正統派の和菓子を求めているのだから、当然なのかもしれない。

 売上げが減って下っ端が切られるのは、どこの業種でもあることだろうが、さすがにいきなりすぎるし、他の従業員がクビになったという話は聞かない。アルバイトも普通に勤務している。かの子だけが解雇されるようだ。

「二つ目は、あなたの勤務成績です」

「勤務成績?」

「ええ。クリスマスケーキを一つも売っていませんよね。しかも、売ろうとさえしていない」

「それは……」

 否定できなかった。

「クリスマスケーキの予約を取ってください、とお願いしたはずです」

 確かに、言われた。アルバイトを含めた全員が、その指令を受けていた。職人と言っても、和菓子を作っていればいいというものではない。店に出て接客をするのも大切な仕事だ。

 竹本和菓子店では、クリスマスケーキを扱っている。先代の竹本和三郎が始めたことだ。ただし、洋菓子ではなかった。練り切りやもちなどで作る『和菓子ケーキ』であった。竹本和菓子店ならではの品で卵や乳製品、小麦粉を使わずに作るため、アレルギーのある人でも安心して食べることができる。

 メディアで取り上げられたことも多く、竹本和菓子店の看板商品と言ってもいいだろう。だが、誰もが作れるものではなかった。高い技術とセンスが必要だ。

「今の私では、売り物になる和菓子ケーキは作れません」

 これは、新の言葉だ。納得できるレベルのものを作れなかったのだ。新は和菓子ケーキをお品書きから引っ込めて、一般的な洋菓子のクリスマスケーキを店頭に並べることにした。

「クリスマスケーキを売る必要性は分かりますね?」

「……はい」

 新の問いに、かの子はうなずいた。クリスマスは一大イベントだ。単価の高いケーキが売れれば、売上げは増える。また、話題にもなりやすい。

 でも、かの子は常連客にクリスマスケーキを勧めなかった。和菓子を買いにきた年配の常連客に、生クリームをたっぷり使った洋菓子のケーキを売ることに躊躇ためらいがあったのだ。

 そして何よりも、客が洋菓子のケーキを望んでいないと分かったからだ。新の作ったケーキを「あら、素敵ね」と褒めた常連客もいたが、かの子には、その言葉が噓だと分かった。はっきりとのだ。

 そのことは、誰にも言ったことがない。噓が分かることは内緒だ。もちろん、新にも言っていない。死んでしまった両親、それから祖父だけが知っていた。


 いつか、分かってくれる人が現れるから。

 それまで誰にも言わないほうがいいと思うの。


 母の言葉だ。幼いころから、何度も言われている。かの子は、それを守っていた。だから、このときも、ケーキを売らなかった説明をしなかった。

 新は、かの子を解雇する理由の発表を続ける。

「三つ目は、あなたの作る和菓子です」

「……駄目ですか?」

 おずおずと聞いてみた。銀行員みたいな見た目だが、新は決して下手な職人ではない。少なくとも、かの子より腕は上だ。その新の意見を聞きたかった。

「あくまでも私の感想ですが、筋はいいと思います。専門学校を出てわずか数年で、あれだけの和菓子を作るのは立派なものです」

 。経験不足を指摘しつつ、かの子の腕を認めてくれている。うれしかった。

 だが、よろこんだのも束の間、新が切り捨てるように言った。

「ただし、竹本和菓子店の味とは違うものです」

 どきりとした。見抜かれていた。かの子が目指しているのは、祖父の味だった。この店の味とは、やっぱりどこか違うということだろう。

 図星を指されて言葉を失っていると、新が話を終わらせた。

「以上の理由により、杏崎かの子さんとの労働契約を解除させていただきます」


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