第8話 彼の存在(1)

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 翌シーズン、環は早くもシニアに移行した。全日本ジュニアのタイトルを獲らないうちからのシニア参戦を周囲は危ぶんだが、環は彼にしては珍しい頑固さで強行し、翌年の高二では全日本優勝を遂げた。

 そして世界選手権十位、翌年には五輪七位という、年齢からすれば十分と言っていい成績を収めることができた。

 前述のように、環の生活は学校と家とリンクとバレエ研究所を巡って終わる。少しでも空いた時間は学校の勉強に充てられる。

 元来が無趣味で、音楽鑑賞や読書の習慣がない。漫画を読んだりテレビを見たり、他のスポーツやダンスをしたい欲求もない。元々スポーツ自体が好きではないのだ。

 決して孤独を好むたちというわけではなく、高校では英語クラブに入っていたし、その他スケートやバレエの仲間と歓談するのも楽しい。だがそれでも、もしあらゆる義務を免除されたら、自分はバレエのレッスンルームに閉じこもり、一日中基礎練をし、踊っているだろうと環は思っている。

 しかし、その感覚に最近変化が生じていた。四月に大学に入り、小夜子と付き合い始めてからだ。

 小夜子と連れ立って出かけ、彼女の勧めるJポップを聴き、漫画や小説を読む。

 今までコーチから散々、スケートのプログラムに関するもの以外でも音楽を聴き、映画を観たり本を読むように言われても聞き流してきた。知的刺激は学校の勉強だけで充分だった。

 それなのに、乾いた砂地に水が沁み込むように環の感性は小夜子の勧める本や音楽を速やかに吸収した。大人から見れば他愛もない子供向けのサブカルかもしれなかったが、環にとってそれは生まれて初めての文化的体験だった。

 それにつれて、スケートに対する考え方にもこの所変化が生まれていた。今までずっとスケート選手として脇目も振らず走り続けてきたが、このあたりで小休止してもいいのではないか。

 全日本を連覇し、五輪七位というまずまずの成績を収めた。親や支えてくれた人々への恩返しはある程度できたと考えてもばちは当たらないだろう。

 五輪を終え高校を卒業したという一番大きな区切りにではなく、試合シーズン真っ最中の時期にこのようなことを思うのは不思議ではあったが。

 もちろん、大学にスケート推薦で入ってもいるし選手を辞めることはない。だが今のこの禁欲的な生活を、もう少し緩めてみてもいいのではないかと思うのだ。

 年末年始には全日本やインカレという大きな試合が控えているが、それが一段落したら何かサークルに入ってみたい。それも、スポーツともダンスとも関係のない文化系のサークルがいい。

 スケートは、もう、自分一人が頑張る必要はないのだ。自分がやらなくとも高槇哲がこれからは日本の男子シングルを引っ張っていくだろうから。それどころか彼は、世界のフィギュアスケート全体を牽引しうる存在なのだから。自分と違って。

「ヘえ、小春川くんてスポーツ推薦なんだ! 見えなーい」

 真向いに座っていたクラスメートの女子学生がかん高い声をあげた。

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