第6話 全細胞が生まれ変わる音
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威勢のいいかけ声とともに店員が新しいビールを運んできた。若者たちの合の手の声が一斉に響く。
栄の街の一角にある居酒屋二階座敷で開かれたクラス飲み会は、今やたけなわとなっていた。唐揚げの皿やハイサワーのグラスが回ってきて、環は何のためらいもなくそれを口にした。
試合のシーズン中なのにハイカロリーなものを食べたり、まして未成年なのに酒を飲むことに対する罪悪感は全くなく、むしろルール逸脱の昂揚があった。
灰皿には煙草の吸い殼が既に山盛りになっていた。家族に喫煙者がおらず、普段も家と大学とリンクとバレエ研究所を巡回するような生活をしている環にとっては慣れない光景であり、臭いだった。だが決して不快ではなかった。
同年代の若者と、フィギュアスケートに役立たないどころかほとんど内容のない会話を交わしながら飲み食いするという行為がどうしてこうも楽しいのか、不思議なほどだった。
暖房の効いた部屋の中で料理の雑多な匂いと会話の声に囲まれていると、寒いリンクの中で心身の苦しみに耐えながら練習を重ねてきた記憶がたちどころに流れ消え去っていくかのようだった。
環は生まれも育ちも名古屋だった。父親が会社員である平均的な家庭の一人息子として育ち、三歳の時、母親がバレエ教室を営む知人に頼まれ環を家の近くのその教室に入れたことが最初の転機となった。
両親とも、またそのどちらの家系にもスポーツやダンスや音楽の才能を発揮した者はいなかったのに、環のバレエへの適性はずば抜けていた。
綺麗なポジションをとれる、身軽に動けるということもあるが、何よりも地道な基礎訓練を全く嫌がらない。それどころか、小さな子供なら苦痛に感じるはずの姿勢の修正、理想的なポジションの追及ということをむしろ楽しんでやる。
人間の体内に骨があるように、身体の中に理想的なバレエのポジションが生まれつき在って、訓練によってそれに近づいていくというのが環にとり幼少期から一貫してある感覚だった。
義理で始めさせたバレエだったが、息子に才能があることに気が付いた母親は最初とは打って変わって熱心になった。環が小学校に上がると同時に、東海地方で最大のバレエ研究所に転入させた。それから環にとって、家と学校とバレエ研究所を巡る生活が始まった。
環の人生に第二の転機が訪れたのは九歳の時だった。当時埼玉に住んでいた親戚の家に遊びに行き、芸の肥しになるだろうという理由で東京のアイスショーに連れて行かれたのだ。
そのショーの細かい内容はもう覚えていないが、目を見張るような驚きの感覚だけは今でも強く環の胸に刻まれている。
冷え冷えとした空気の中、男女が体勢を固定したりあるいはごく僅かな動きで、陸上ではありえない滑らかさで長く長く進んでいく。
片足立ちで回転する動作はバレエにもあるが、トップクラスの男性ダンサーでさえせいぜい十回転が限度だ。それが、氷上の彼らは複雑な体勢と早いスピードでくるくるくるくるといつまでも回って見せる。
終盤の演目で男性スケーターが目の前を超高速で滑って行き、その瞬間に足元から立ったブゥンというような音を耳にした時、全身の細胞が生まれ変わる感覚が生まれた。
あれは今から思えば、スケート靴のブレードが硬い氷を抉る音だった。そのスケーターの顔も名前ももう覚えていないが、アメリカからのゲストだというアナウンスだけは記憶に残っている。
氷上の夢幻のページェントは九歳の環の心を大きく動かしたが、当時の彼はスケートが一般人にも習えるものだということを知らなかった。だからその数週間後、テレビの地元局の番組で市内のアイスリンクが紹介され、スケート教室の子供たちが取材されているのを見た時には心底驚いた。
自分と同じか、あるいはさらに幼い幼稚園に通うような子供たちがあのアイスショーのスケーターたちと同じような動きをしている。
日頃の態度とは打って変わった熱心さで環は母親に頼み込み、数駅離れた所にあるスケートリンクに連れて行ってもらった。
初めての氷上で環は、バレエ教室での自由自在さが嘘のように転倒を繰り返した。しかしその転倒の向こうに広がる大きな世界の存在を、またその世界は全力をかけて取り組み追及するに足るものであることを、当時の環はすでに予感していた。
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