第4話 十八歳の肖像

(3)-2

「でもやっぱり、NHKでいい演技をしていい成績をとるのは必要なことなの。それが全日本でのジャッジの心証にも影響を与えるわけだから」

「焼け石に水じゃないですか、そんなの」

 橋田は顔をしかめた。

「何でそういうこと言うの、ふてくされてたって何にもならないでしょ」

 無言でうつむいてた環の脇に置かれたバッグの中から、携帯電話の着信音が鳴り響いた。

「練習中は電源切っときなさい! ていうか、リンク内に携帯持ちこまないで」

 再び大声をあげた橋田を尻目に環は携帯電話を開き、画面を確認した。携帯を閉じて顔を上げた。

「先生、俺、今日は帰ります」

「ちょっと」

「友だちからメール入って。テスト対策の勉強会があったこと忘れてました。オリンピックで金メダル獲っても、単位落としちゃ何にもなんないもん」

「ちょっと待ちなさい」

 橋田は強い口調で言った。

「何ですか」

 既に立ち上がって歩き出そうとしていた環は、露骨に嫌そうな顔をした。

「ほんとに勉強会なの? メール見せなさい」

「やですよそんな」

 環は大げさな仕草でバッグを後ろにまわした。

「プライバシーの侵害! っていうか、セクハラ!」

 そう言ってスケート靴をつかみ、返事も聞かず駆け出した。橋田は追いかけようとしたが立ち止まり、環が走り去っていくのを呆然と眺めた。しばらくしてベンチに腰を下ろし、頭を抱えてリンクフェンスを睨みつけた。


 昔は素直な少年だった。だが素直なぶん覇気というものに欠け、練習でも試合でも与えられた課題以上のことはしようとしなかった。

 そんな環を歯がゆさと一抹の危惧をもって見ていたのだが、高槇哲の台頭によりその不安は現実のものとなった。

 世界のトップクラスに入れない程度の実力でも、日本国内ではチャンピオンでいられる。そのことで環はプライドを満足させてしまっている。だが高槇は違う。オリンピックで確実に金メダルを狙える器で、本人にもその気がある。

 誰に言われずとも、環自身が一番今の状況を理解している。だがそこで奮起するのではなく、ふてくされと言い訳に終始している。これでは高槇が出てくる前より悪い。

 先刻のメールも、環が言うとおりの内容だったとはどうしても思えない。だが踏み込めなかった。

 ただでさえ選手として微妙な時期にある上に、彼はもう大学生なのだ。スケートと学業以外のことに関する誘惑は多く、一人の青年としての自意識も芽生えてきている。

 男同士ならそれでも膝を突き合わせてものが言えるのかもしれなかったが、男と女ではどうしても気後れの感情がたつ。橋田はため息をついた。そして、環が今日一度もスケート靴を履かないままリンクを出ていったことに気が付いた。

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