第2話 溶暗
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津森健介は新聞記事から顔を上げ、寝台にうつ伏せようとしている教え子を見た
「哲よう、この『体力』っていくらなんでも色気無さすぎじゃないか」
「でも本当のことっしょ」
二人がいるのは江東アイスセンター建物の一角に、医務室代わりに設けられた控室の一つだった。
もっとも医務室とは名ばかりで、寝台と救急用具が置かれているだけだ。大きくとられた窓からブラインド越しに見える風景は既に夜だった。
「いっくら技術力と表現力があったところで、四分半滑りきれる体力がなきゃなんにも……うわあ」
「お前、マッサージされるたびに笑うのよせって。いい加減慣れろ」
コーチにふくらはぎをズボン越しに押されながら、哲はぼやいた。
「すげえカットされちゃってんだもん、一生懸命喋ったの馬鹿みてえじゃん俺」
「何言ってんだ、カットされてよかったよ。世界ジュニア連覇、男子シングル最年少でのグランプリシリーズ優勝と数々の記録を立ててきたことをどう思いますか? って言われて、僕の才能からすればそのくらい当たり前です、なんて真顔で答える奴があるか。あんなのが世間に広まったらえらいことだ」
哲は不満げに唇を尖らせたが、何も言わなかった。マッサージを続けながら津森は言った。
「ちょっと疲れが溜まってるんじゃないか? 特にお前の場合、瞬発力がある分疲労が蓄積しやすい体質なんだから」
「身体もかてえしな。男子にスパイラルの技がなくてほんとよかったぜ」
重ねた両手の平の上に顎を乗せ、哲はぼそりと言った。
「硬いったって、開脚できるじゃないか。男であれだけできれば充分だよ、悩む必要なんかまったくないぞ」
「別に悩んでないけどさあ、やっぱ小春川さんみたいな人見ると、ねえ? 柔らかい上にスタイルも良いって、むかつく。あのビールマンすげえよな、女子でもあそこまで決まらないよ」
回転軸でない方の足を後ろに突き出し頭上に持ち上げた姿勢で回転するビールマンスピンは、スピンの中では最高難度に位置づけられる技である。
高度な柔軟性と筋力、バランス感覚を必要とするこの技を、現在.シニア男子でできるのは世界でも全日本チャンピオン・小春川環ただ一人である。彼は身長百七十二センチだが全体的に細くすらりとして、手足が長く顔も小さい。
整った面差しと相まって、一種の中性的な魅力がある。バレエの素養とスタイルの良さを存分に活かしたそのポジションは美しい。軸足は伸びきり腰も無理なく曲がり、フリーレッグと上体・腕の二つのラインが綺麗な紡鍾形を描く。
一方、哲の身長は百六十センチである。足はスピードスケートの選手のように太く逞しく、腰の位置も低い。身体が硬いというのも謙遜ではなかった。幼い頃、彼は前屈で手が床につかなかったのだ。
津森は憤然として言った。
「小春川のあれは過可動ってやつだ、羨むようなもんじゃない。細くて柔らかい分瞬発力にも欠けるし、だから四回転も跳べないだろ」
「そうかな」
哲は起き上がり、真面目な表情で言った。浅黒いくっきりとした縄文人的な顔立ちの中で、目が強い光を放った。
「あの体格でトリプルアクセルが跳べるって凄いことだと思う。瞬発力あるし、あとタイミングを見切る力も、もの凄く優れてるんだと思う」
「哲……」
「たぶん俺があんまり天才だから、神様がこれじゃやばいって思ったんだよ」
「はいはい」
「あとコーチの先生が美人だし。これが一番羨ましかったりして」
「うるせえ、おっさんで悪かったな! さっさと練習に戻れ!」
哲はにやりと笑い、床に下りた。
リンクホールに向い、ウォームアップをし、クラブの他の生徒たちと言葉を交わしながらスケート靴を履く。レッスン内容の確認をしてリンク内に入る。いつもと変わらない手順だった。
津森はふと眉をひそめた。リンク中央に滑り出すその動作が、過去何千回となく見て津森の脳裏に焼きつけられた、哲の滑走の映像と一致しない気がしたのだ。
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