第3話 境内のカンパネラ
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「高槇って、時間がある限り絶対に基礎トレ休まないんだって。正月でも海外遠征で移動する日も、必ず時間を作ってトレーニングするんだって。もう小学生の頃からそうで、雑誌で読んだんだけどさ。俺それ読んだとき、頭殴られたような気がした。あー、トップに立つ奴っていうのはこうなのかって」
そう語る環の口調に屈折は微塵もない。無念の感情が小夜子の中で広がっていった。「トップ」というが、小春川環も国内においては間違いなくトップクラスのフイギュアスケート選手なのだ。
十七歳にして全日本選手権で優勝し、以来そのタイトルを守り続けてきた。世界選手権でも健闘し、二年前のトリノオリンピックでは七位という好成績を残した。
しかし今の環にそれを言えば、「過去の栄光だよ」とさらりと、しかしはっきりと言い切られるだろう。確かに謙遜ではなく事実である。オリンピックで七位入賞した彼が昨季は低迷し、辛うじて保持していた全日本チャンピオンの称号も三日前に失った。新王者の地位を得たのが高槇哲、高校二年生の少年だ。現在大学二年の環よりさらに若い。
環が二度目の全日本金メダルを獲得してオリンピックに行ったシーズン、哲は同じ全日本で中学生にして二位に入賞し、世界ジュニア選手権を連覇する快挙を成し遂げた。
その彼がさらに力を伸ばしてきたのだから、今回の優勝もまぐれではない。分かってはいても、小夜子はやはり寂しかった。
環が無冠になったことも寂しかったし、それを環が寂しいと思っていないことも寂しかった
しばらくは人通りも少なかったが、神社が近づくにつれぼつぼつと通行人が増えてきた。
神社の境内には既に何人もの参拝客が訪れていた。
地味な色のコートを着込んだ人間たちの中で、鮮やかな色をした環のジャージ姿は目立った。もっとも彼はそういうことがあまり気にならない男である。
賽銭箱の前に環と並んで、小夜子は一際大きく手を叩いた。
階段を降りながち、環が訊いてきた。
「何を願ったの」
「環が三月の世界選手権で優勝して、バンクーバーで金メダルを獲れますようにって」
「こわ」
「そういう環は、どんなお願いをしたのよ」
「全世界が平和で、人々が優しい心でいられますようにって」
小夜子はおどけとしかめ面の入り混じった表情になった。環は怒りもせずに、
「これも演技の練習のうちなんだよ。前に話しただろ、カンパネラ」
「それは分かってるけどお……何か個人的なお願いごとってないわけ」
「ん? 今シーズンもあと半分になったけど、悔いの残らないようしっかり頑張りたいって」
「……偉いね。てかさ、それ、お願いじゃないし」
「そおかな」
「そおだよ」
一般人にとり正月は新しい年の幕開けだが、フィギュアスケート選手にとってはシーズン後半戦に突入する区切りである。
限りなく淡い水色の空から、ようやく陽光が降り注いできた。
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