プロローグ~二〇〇八年一月一日~

第1話 氷った音

(1)

 製氷機をかけたばかりの銀盤は、新雪のゲレンデのようだ。

 リンクに足を踏み入れ大きく息を吸い込む。触れた瞬間からスケート靴のブレードは氷と同質化して強く吸着し合い、その感覚は冷たさを伴うことなく全身に一気に及ぶ。

 水の匂いの入り混じった独特の空気に小さく微笑み、氷面をブレードで軽く押す。朝の白い靄がうっすらとかかり、どこか天然の湖を思わせる氷上を滑ると足元から一つの感覚が新たにせり上がってくる。それは潮が満ちるように速やかに、そして確実に全細胞を変えていく。

 彼にとって氷は音の組成でできている。分子構造のように組みあがった大小強弱様々な音が、ブレードで押され撫でられることによってほどけ、足元から舞い上り、あるいは身体の中に入り込んでくる。

 やがて身体そのものが音の粒と化し、この世のどこにもない音が彼の心の中にだけ響き始める。水晶を打ち合わせるにも似た澄んで冴えた音のたわむれ。自分はピアノ、氷は指だ。

 この充実した状態で何をしようかと思う。何でもできる。ジャンプ。スピン。ステップ。

 だが今は、この単純な滑走を楽しみたい。しばらく滑っていると、しかしそれでも爆発的な歓喜がこみ上げてきて、ただ滑るという静かな動作に飽き足らなくなってくる。

 ついに拳を握りしめ、両腕を広げた格好で前向きに跳んだ。シングルアクセル。異常なまでの飛距離の長さを異常と思わず、感情の赴くままにジャンプを跳び、ステップを踏んだ。

 いつしか頭の中には音楽が流れ、耳の奥には胸に刻みつけられ生涯忘れることはないだろう一つの絶叫が甦り、響き始めた。

『やりましたっ高槇哲たかまきてつ! 小春川の点を超えました! 悲願の全日本優勝、十七歳のチャンピオンの誕生です!!』


 二〇〇八年一月一日、早朝だった。日本中が元旦ののどけさにたゆだってぃる中、彼はいつもと変わらないロードワークをこなし、このリンクに練習しに来たのだ。

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