五 泥の舟
(二)-4
「嫌われてるからねえ俺あ。今生の別れになるかもしれねえならなおのこと、お互い嫌な思いは重ねねえほうがよかろう」
面と向かって言えることではないが、伊勢守の放つ沈鬱な空気を浴びるだけで気がめいってくるのだ。
ふいに二つの顔が麟太郎の脳裏をよぎった。新選組の近藤と土方、大久保一翁が甲府に追っぱらったあの二人は、この伊勢守とほとんど変わらない年齢のはずだ。
しかしまるで二十歳の小僧のように喧しくて、意気盛んだった。これがすなわち徳川旗本とそうでない者の違いなのか?
「安房守どの」
数歩行ったところで背中に伊勢守の声がかぶさってきた。
痛切な感情が覆いようもなく浸みだす声に、麟太郎は心を針で深く刺されたように感じた。
操られるように振り返った麟太郎の視界に、人間の表情としてこれまで見たこともない種類の顔が飛び込んできた。
悲哀、寂寥、痛恨といった数々の思いを表出するためには、これもやはり顔面に微笑に似た形をとらせなくては処理しきれなかったのだと、麟太郎は反射的に理解した。
春の朝の白い光がふり、桜の花弁が控え目に舞い落ちる中、たすき掛けの義経袴という身なりで、槍を担ぎ目を潤ませて立ちつくしている。もの優しげで閑雅な外見は、徳川旗本の究極の深化の一形態だという気がふいにした。
優秀でありながら華奢で、洗練を極めて武士の本道から遠ざかる。
ひどく苦いものが胸中に生まれ、麟太郎は奥歯を噛みしめた。相手の感情のゆれを感じとったのか、伊勢守はうなだれた。
「上さまが和平を宣言なされました前日、それがし上さまに申し上げたことがございます」
「……」
「永き沈滞と頽廃の果てに、徳川幕府はついに一人の武士を得た。志操堅固にして勇烈無比、衆に魁けて矢面に立つ武人の亀鑑!……されど悲しいかな、大廈の倒るるや一木の支うるところにあらず。たとえ、そのもののふが」
伊勢守の首がさらに深く垂れ、声が震えた。
「征夷大将軍であろうとも……」
もう聞いていられず、麟太郎はきびすを返して足早にその場を離れた。厚く敷かれた砂利が、踏まれるたびに荒々しい音を立てた。
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