第二章 黒船来航

一 舟と宮殿

(一)

 直参旗本の息子であり、江戸に生まれ育った麟太郎にとって幕府とは自分が生まれる前からそこにあり、死んだ後もずっと続いていくものだった。

 外様藩士や京都朝廷人らも、好感は抱かなくとも江戸の幕府をほぼ永世不朽に近い存在として見なしていたのではないか。

 十五年前に黒船がやって来た時でさえ、そうだった。

 確かに幕府は右往左往し直参どころか庶民にまで意見を求めるという前代未聞の挙に出たが、それは開明性によるものではなく、明らかにただの場当たりだった。

 当時三十一歳だった麟太郎は呆れたけれども、しかしだからといってこれが幕府の末期性の表出だとは思いもしなかった。

 皮肉屋で、洞察力があると自負し、何事にも粗を探して肩をすくめてみせなければ気がすまない麟太郎にしてそうだったのだ。

 当時賢侯として名高かった島津斉彬、松平慶永(春嶽)などがこの機をついて幕政に介入しようとしていたのも、幕府を改革することで幕藩体制の強化を成し遂げるのが目的だった。


 幕臣としては一介の四十俵取り小普請だが、私的には少壮気鋭の蘭学者として声望が高まっていた麟太郎にとっても出世の一大機会だった。

 諸藩も幕府も焦眉の急として欲している海防と軍事の知識が麟太郎の専門だということは、偶然でも何でもない。

 大国清がイギリスと戦をして敗れたのは黒船来航のすでに十数年前のことである。のみならず日本の各地沿岸にはオランダではない西洋の船が頻々と寄港し、あまつさえ開国を迫るものもあるという。

 外警が空気にもたらすひそやかな震えとざわめきに、麟太郎の皮膚ははっきりと、新時代の扉をこじ開ける灼熱を感じとっていた。

 近いうちに必ず、兵学が医学や天文学を上回る実学になるだろう。それはきっと自分に、他の学問とは比べものにならない立身出世を与えてくれるに違いない。

 黒船来航から二年後の安政二年(1855)、麟太郎は蘭書翻訳御用に従事することになった。

 目付大久保忠寛(一翁)の協力を得て出した建白書が、老中阿部正弘に認められたのである。さらに七月には長崎海軍伝習所での実習を命じられ、身分も小十人に任じられて無役小普請から脱することができた。

 思っていた以上の大きな引きを与えられて、麟太郎は腹の底から震撼した。

 生まれてから絶えることがなかった赤貧の記憶も、挫折の傷も、全てが消し飛ぶのを感じていた。

 二十年近くにわたって孜々と努力を重ねてきたことは、無駄ではなかった。むしろこの時のために準備を重ねてきたと言ってもいい。

 後はもう一瀉千里、激流のごとく出世街道を驀進するのみなのだ。

 百俵取りの小十人幕臣・勝麟太郎が長崎で、三十路なかばの身で船酔いに耐えながら、甲板を走り回ったり、蒸気釜を磨いたり、航海実習に出かけて沈没しかけたりしている間、江戸では二十歳を超えたばかりの白面の貴公子が幕府を二分しての政争を引き起こしていた。

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