三 志士と官僚

(二)-2


「お疲れのようですな」

「何、そんなもんじゃねえさ。これからだってのにへばってたまるもんかね」

 強がってみせることで気力を奮い起こした。

 諸方を飛び回って激務なのは厭わないが、忙しさと不眠による寝不足はどうしようもなくこたえ、気力と体力を確実に削り取っていく。

「あたしよか、勢州さんの方がご消耗だろう。責任の重さも、さ」

 麟太郎は伊勢守に顔を近づけ、声をひそめた。

「もののわからんやつが多いからねえ。恭順を諒とせず、上さまの身柄を奪って事をなそうなんてのはまだ君臣の道をわきまえてるほうだ。

上さまを奪って人質にし、あたしに恭順を翻意させようとか、ひでえのになると上さまを天狗党の親玉、朝廷の走狗と見なし血祭りにあげちまおう、とか。観じたところ、三枚橋の所にいる連中なんざ特に危ねえね。無理に追い立てでもしたらかえって火がつきかねねえから、ほっとくよか仕方ねえんだが」

 伊勢守は顔を引きしめた。

「心得ております。さような事態に万一いたらば、上さまの御決意も水泡に帰しましょう」

 麟太郎は大慈院をながめやった。

 本拠地江戸にいながら城にも居られず、旗本御家人を敵にまわし、一人の槍使いとその部下数十名に身を守られねばならぬとは、東照神君以来彼はもっとも惨めな将軍であろう。

「しかしあやつらがともかくもじっとしているのは、お前さんの勇威を恐れるからこそだ。釈迦に説法ではあるが、しっかり頼みますよ」

 話しながら麟太郎は、相手の顔を改めて見た。

 白皙に黒目がちの大きな目をした、秀麗ながら内面をうかがわせない面差しは十年前からあまり変わっていない。

 声望と武才に卓越したものを持ちながら、この激動の十五年間はいささかも彼の内面を揺り動かさなかったのか。いや、そうではない。

 あまりにもの静かな外見に忘れがちになるけれども、幕臣の身で尊攘思想にかぶれ、幕譴をこうむり蟄居に処されるという旗本としては異例の激しい過去がこの伊勢守にはあったのだ。

 しかしその激情は結局、公儀直参としての矩を超えるものではなかった。

 いったん熱が冷めると、徳川治世の恩沢を享受する今まで以上に忠良な幕臣官僚に戻るだけだった。

「まずはお上がり下さい。明日の件についてでしょう」

 虚をつかれた思いで、麟太郎は伊勢守の顔を見直した。

「知ってるのかい」

「それは、鉄太郎は帰府(江戸帰還)して真っ先にここに参りましたから」

 麟太郎は顔をしかめた。確かに、昨夜駿府から帰ってきた山岡鉄太郎は麟太郎の自宅で談判の模様を話したが、勝家に来る前に寛永寺に赴いて義兄高橋伊勢守に復命してきたことも語っていた。

 やはり、疲れが昂じてもうろう気味になっているのは否定できない。麟太郎は相手から視線を逸らせ、つぶやくように、

「そうかい、先刻ご承知かい。明日、高輪の薩摩屋敷。何かあったら万事は一翁どのに託してあるから、そのつもりで」

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