【六】煌めく花
ヒカリは目を見張った。
ただ滝壺へと落ちゆく水音の豪快さには、気が引き締まる。
この山にはこんな場所があったのか。黒アゲハチョウのおかげだ。それはそうとどうやってここへ辿り着いたのだろう。振り返って見ても夜の景色はどこにもない。通って来ただろう草むらもない。瞬間移動してきたとしか思えない。
どこを見ても森、森、森だ。
道なき道を通ってきたのだから当然と言えば当然なのだけど、謎過ぎる。
とんでもないことが起きた。
願っていたはずなのに心の中で『不安』の文字が行ったり来たりする。
どうしよう、帰り道がわからない。
吊り橋を渡れば戻れるだろうか。そんなわけがない。帰り道があるとすれば後ろの森だ。この森を突き進めばもとの場所に戻れるだろうか。
ちょっと待って。せっかく不思議なことが起きたのよ。戻るなんて選択肢はない。うろつく『不安』なんて投げ捨ててやればいい。
大丈夫、何も怖いことなんてない。呼ばれたのよ。自分はここへ呼ばれたの。きっと歓迎されているはず。
落ち着かなきゃ。思いっきり息を吸い込み思いっきり吐き出す。
んっ、何か光った。
嘘、あの花は何。
目の錯覚だろうか。キラキラしている。宝石のように煌めく花だ。黒アゲハチョウがその花に羽を休めている。
『もしかして、あの花をみつけてほしかったの』
黒アゲハチョウに向けて心の中で問い掛ける。その言葉に答えるかのように黒アゲハチョウは羽をヒラヒラさせて浮上すると、花の上をクルクルと舞いはじめた。
なんだかうっとりしちゃう。
「ねぇ、マキ。あの花、見て」
「花? どこの」
「あそこよ。吊り橋の向こうに光っている花があるじゃない」
「えっ、どこよ。光る花なんてないよ」
見えないの。なんで。あんなに光っているのに。
あの花、ほしい。どうしてもほしい。
「私、あの花取ってくるね」
「えっ、ちょっと待ってよ。ヒカリ、ダメ。行っちゃダメだよ。きっとあっちは立ち入り禁止の場所だよ。神様に連れて行かれちゃうかもよ」
「マキったら、信じているの。神隠しの話」
「だって、昔、本当にあったことでしょ」
神隠しなんてあるはずがない。この山の奥に行かせないために大人たちが作った話に決まっている。よくある話だ。
この吊り橋は古そうだし、その先に道らしきものも見えない。危険なことはわかっている。ううん、きっと気をつければ大丈夫。
本当にそうだろうか。神隠しは本当にないって言えるのだろうか。
ない、ない。大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
何度もヒカリは大丈夫と繰り返してみたものの不安は拭えなかった。
あのとき聞こえた声を思うと絶対にないとは言い切れない。言葉を話す狸たちが人を
どうしよう、危険かもしれない。
ヒカリは頭を振り、再び大丈夫だと言い聞かせた。だってあの花がほしいんだもの。
あっ、花の光が増した。
すごい、なんて幻想的なの。まるで虹が花になったみたい。
ヒカリは光る花がほしいという欲望に勝てなかった。
「ねぇ、ヒカリ。聞いているの」
「聞いているわよ。神隠しの話なんて作り話よ。大丈夫。私、運動神経はいいんだから」
ヒカリはマキに微笑みかけて吊り橋へと足を向けた。
「ダメだってば、ヒカリ。帰ろうよ。それに運動神経と神隠しって関係ないでしょ」
確かに運動神経と神隠しは関係ない。なんでそんなこと口にしたのだろう。自分で自分のことがおかしくなってクスリと笑ってしまった。
「気をつけるから大丈夫よ」
吊り橋に一歩踏み出すとギシッと嫌な音を立てた。進むたびにギシギシギシと鳴り、不安が過る。大丈夫と口にしたことを後悔した。
心臓がドクンドクンと鳴り響いている。吊り橋が落ちてしまったら、どうしよう。
馬鹿なこと考えないの。ここまで来たら、戻っても一緒。
大丈夫だって言ったでしょ。後悔なんてしちゃダメ。自分を信じなきゃ。
ギシ、ギシギシギシ。
吊り橋の板が軋む音が鼓膜を震わせる。揺れが大きくなったような。壊れそう。
気のせい、気のせい。問題ない。
ほら、思ったより頑丈だって。これだけ揺れても大丈夫でしょ。この橋は頑丈だ。そう思うことにしよう。大丈夫、絶対に大丈夫。
自分は何回大丈夫って言っているのだろう。
「マキ、ほら大丈夫でしょ」
「ヒカリ、ダメだって。早く戻って来てよ」
マキは顔を強張らせて吊り橋の向こう側で手招きしている。
「もう心配性なんだから。マキはそこにいて、すぐに戻るから」
揺れはしたものの何事もなく渡り切れた。やっぱり大丈夫だった。自分を信じて
正解だった。
大きく息を吐き出して笑みを浮かべる。
先にある森を見回してもう一度息を吐く。
何も起こらない。これといって怪しい気配もない。ここはまだ禁止区域じゃない。そうでしょ。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。大丈夫って何度も言ったから大丈夫の神様が助けてくれたんだ。そんな神様いるかどうかわからないけど。
そうだ、光る花だ。
ヒカリは花に目を向けて微笑み、しゃがみ込む。なんて綺麗なのだろう。どこか温かみを感じる不思議な花だ。この花を持って帰りたい。けど、どうしよう。
引き抜くわけにはいかない。手で周りの土を掘るしかないか。その前に、持ち帰ってもいいものだろうか。
んっ、今視線を感じた。
気のせいだろうか。森の奥に何かがいるのかも。急いで戻ったほうがいいだろうか。
光る花をじっとみつめて黙考する。
やっぱりこの花を手に入れたい。そういえば黒アゲハチョウはどこへいったのだろう。見当たらない。
「ヒカリ。早く戻ってよ。何しているの」
マキの声が遠くから届いてきたが振り返らずに「わかっているよ」と声を張りあげた。
『本当に綺麗。お花さん、一緒に行こうね』
ヒカリは根を傷めないように花の周りの土を必死に掘り起こした。みるみるうちに手が汚れていく。痛みも伴っていく。
一旦、休み。ハンカチで手を拭うと再び掘り起こしていく。
よし、いい感じ。持っていけそう。
手についた土を軽くはたき落とすと根をハンカチに包み込み優しく持ち、吊り橋へと引き返す。向こう側にいるマキがなんだか泣きそうな顔をしている。
「マキ、そんな顔をしないの。私、大丈夫でしょ」
ヒカリは微笑みかけて、ゆっくりと吊り橋を渡りはじめた。
一歩、二歩、三歩。
えっ、なに。
嫌な音が耳に届き、突然膝がガクンとなった。
嘘でしょ。
足元の板が流れる川へと落ちていく。どういうこと。なんで、川が近づいていくの。
『私、落ちている』
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