【五】黒アゲハに導かれ
ヒカリは目を閉じて軽く頭を振ると、息を吐く。
どれくらいそうしていただろうか。一分なのか。二分なのか。もしかしたら数秒しか経っていなかったのかも。
ゆっくり目を開くと、広大な田畑と作り物のような街並みが見えていた。
ちっぽけな世界がそこにある。小さすぎるせいで作り物のように錯覚してしまうのだろう。
あの中に、自分の家もある。なんだか不思議な気分。
御弥山にいるせいだろうか。
思っていたよりもだいぶ登ってきていたんだと改めて気づく。
ほら、人が蟻みたい。
そういえば空気も違っているような。緑が濃い山の香りだ。空気が美味しいってこういうことなのか。
空を見上げて深呼吸をし、目の前の小さな世界へ向き直る。
たいぶ先には駅前の繁華街も望めた。発展しているのは駅前だけってことがありありとわかる。何もないっていうよりはいいけど、やっぱりここは田舎だ。
もうひとつの無人駅のほうもここから見える。
同じ駅でもずいぶんと違う。あっちの路線の利用者は少ない。自分もほとんど使ったことがない。この違いはなんなんだろう。
繁華街の中の駅ビルと寂れている無人駅。
何て言ったらいいんだろう。
廃線にならないのが不思議だ。この神獣の住む御弥山のご利益を得ているのだろうか。そうかもしれない。駅名も御弥山駅だし。
ヒカリは腕を上げて伸びをした。
休んだおかげなのか眺めのいい景色を見たせいなのか、少しだけ気持ちがスッキリした。心地よい風も相まって汗も引いてきた。
「やっと追いついた。ヒカリ、まだ登るの。帰ろうよ」
「ごめん、もうちょっとだけ」
ヒカリはマキに向けて手を合わせて頼み込む。
だいぶ疲れているんだなマキ。今になって気づいた。そりゃそうか。ノンストップで登ってきちゃったんだから。
来たくないのに付き合ってくれているのだから気遣ってあげなきゃ可哀想だ。
本当にごめん。
なんだかマキの顔が老けてしまったように感じる。
どうしよう。自分ももしかしたら、おばさん顔になっているのかも。老けた自分の顔を想像して、そんなの嫌だと頭を振った。
「もうちょっとって、私疲れちゃったよ。それに、もうそろそろ立ち入り禁止エリアになるんじゃない」
「そうだね。じゃ、そこまで行ったら帰ろうよ」
マキは溜め息を漏らしつつも頷いてくれた。
「ごめん、つき合わせちゃって」
「いいよ、謝らなくてもさ」
なんだか怒っていそうだ。そりゃそうか。付き合ってくれているマキに感謝しないといけない。本当に悪いことをした。申し訳なく思うけど、どうしても行かなくちゃいけない。
なぜかははっきりしないけどそう断言できる。さっき聞こえた声がどうしても幻聴じゃない気がする。
何も起きていないように思えても、目に見えない何かが起きている可能性もある。
そうであってほしい。
あっ、黒アゲハチョウだ。
これってまた幻覚。目を擦り、もう一度見遣る。
消えない。いる。
間違いなくいる。幻じゃない。妙に心が弾む。
あっ、待って。
黒アゲハチョウは草木が生い茂る道のないほうへと飛んで行ってしまった。
どうしよう。追いかける。それともやめる。
ふわりふわりと飛んでいる黒アゲハチョウを眺めているうちに決心がついた。
追いかけるしかない。第六感がそう告げている。
「ヒカリ、ちょっとどこ行くのよ」
「ごめん、どうしてもこっちに行きたいの」
「行きたいって、道ないよね」
「じゃあさ、マキは待っていてもいいよ」
マキはあたりに目を向けて「嫌だよ、こんなところで待つのなんて」と袖をギュッと掴んできた。
「ごめんね」
「もう、謝るんなら帰ろうよ。って言っても帰らないよね」
「はい、帰りません」
またマキは溜め息を漏らした。それでもついて来てくれた。
腰くらいまである草の中を掻き分け進んで行く。青臭さが鼻をつくとともに草の緑が制服に色をつけていく。帰ったら母さんに怒られそうだ。それよりも枝に引っかけて服が破けてしまったら最悪だ。気をつけなきゃ。
本当に何かあるのだろうか。馬鹿なことをしているって自分でも思う。それなら回れ右して戻ればいいのに、どうしてもこの胸の奥で『突き進め』と命令してくるもう一人の自分がいた。
「もう、汚れちゃうよ。引き返そうよ。ほら、向こう真っ暗だし」
マキの言う通り昼間なのにすぐ向こうは闇が広がっている。引き返したほうがいいのかもしれない。
ダメ、ダメ。前進あるのみ。
『遊ぼうよ』とでも誘っているみたいに近づいたり離れたりして飛ぶ黒アゲハチョウを見遣り、ヒカリは歩みを進めた。
この先は暗闇だ。正直、心臓がバクバクしている。
立ち入ってはいけない場所へ向かっている気もする。向こう側は夜の世界なのかも。まさか、異世界。そんなことはないはず。
あっ、嘘でしょ。黒アゲハチョウが消えた。向こう側の夜に溶け込んでしまった。
違う、黒いから闇と同化してしまっただけだ。きっとそうだ。見えないだけであそこにいるはずだ。
「ねぇ、ヒカリ」
「えっ」
マキは口をぽかんと開けて前方を指差していた。
何を指しているだろう。ヒカリは小首を傾げて前へと向き直り、視線を逸らす。
夜の景色があったはず。何がどうなっているの。
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