第5話 天使の落とし物

 自分の呼吸音と心臓音、そして自分の足が地面を蹴る音。

 信じられるものはそれしか無かった。


 ルルラリア王国旧王都の人気無い道を倒れるように走るリリアン。

 

 リリアンの意識は定まること無く大きく揺れていた。

 まるで難破船の中を歩いているかのように揺れ続ける視界と、思うように動いてくれない身体を抱えながら、彼女は太陽から見放された薄暗い道を走っていく。平らな道を歩いているはずなのに身体が左右前後に大きく振られてしまう。

 時折右足から発するズキリとした痛みが、深い沼に墜ちていきそうな意識をかろうじて水面上に浮かび上がらせてくれる。だがこの痛みもだんだんと薄くなっていく。傷が癒えたわけでは無い、痛みが痛みと判らなくなるほど意識が泥沼に墜ちていこうとしているのだ。


 背後の殺意から逃れること、これが今の彼女の身体を動かしている本能だ。

 なんど転んだかわからないスカートや靴はもう汚れと破れでボロボロだった。

 

 どうして走っても走っても大通りへと出られないのか?

 大通りに出てしまえば、人目がある分まだ助かる見込みはあるというのに。


 彼女は幼い頃から身のこなしの軽さに関しては自信があった。

 しかし彼女はずっと表の道を歩いてきた善良な人間だ。多少頭のおかしい事務所のアイドルなんかやっていたが、それでも一般的な小市民の道から外れたことはなかった。犯罪に手を染めそれを生業とするような裏街道の人間では無い。人を狩るとはどういうことか、彼女にはその知識はない。


 彼女は、意図的に殺意を持つ気配向けられることで逃れる方向を追跡者にコントロールされていることに気づいていなかった。

 そして一度かかった幻惑魔法からは完全に醒めきっていなかった。


 足が速い獲物を捕まえるのは、力尽きるまで待てば良いのだ。そして彼女は力尽きようとしていた。


「あっ……」


 つまづいた。

 身体を立て直す……立て直せない……ない……。


 荒れた地面の小さなくぼみに足が取られ、リリアンは大きな音をたてて地面に身体をたたきつけられた。身体を庇うことすらできなかった。受け身なんて論外だ。


 全身が痛みに震えている。動けない。

 リリアンの鼻は土埃と草の匂いを感じていた。


 日陰の小道は地面は湿っていて、とても冷たい。


 ……あ、これダメかも。


 痛覚による一瞬の覚醒も消え去り、身体中に倦怠感を覚える。

 重い。重い。身体が重い。

 もう身体に力が入らない。


 おっ……


「犯される……」


 リリアンを追ってきた三人――先輩と呼ばれた女性と、怪しげな雰囲気の男二人――は、そのリリアンのうわ言にぎょっとして思わず立ち止まってしまった。


「……冗談を言う余裕はあるようね」


 先輩は地面に横たわるリリアンを見下ろすところまで近づいてきた。


「疲れにはジョークが効くんですよ……」


 リリアンは口元をにやっと歪めてみせた。 

 息が荒い。


「本当……どうして侍従長はあなたのような素人を使者に選んだのかしら」


 先輩は首をかしげる。


 ……あんたが思い込んでいるようなルルアリア王国との国交回復のような重要な案件じゃなくて、単なる王女を良く識るメイドとしてのメッセンジャーの役割だからでしょ……。


 リリアンは言い返そうと思ったがうめき声しか出てこない。


 これ……やっぱり毒かぁ……。


 逃げる際に足首に傷を負ったが、あの投げられた刃物に毒が塗ってあったようだ。

 この身体の急激な身体の不自由さは傷だけでは説明できない。


 リリアンは自分が対峙しているのは……色々訳のわからない人たちがいる王宮の中でも。かなりヤバげな人たちのようだ。侍従長……こんなの聞いてないですよ……。


 向こうの勝手な勘違いで自分がダイクンギア家の忠実な娘と思われて、向こうの勝手な勘違いで自分が王女を王位に継げることができるよう国民人気を高めるよう画作しているように思われて、向こうの勝手な勘違いで自分が侍従長から王位継承権争いに強い影響を渡らす重要案件を命じられたと思われて……そして殺されようとするなんて。


 嫌だ嫌だ嫌い嫌だ嫌だ。


「……先輩が第二王子とつながっていたことは知ってましたよ。

 みんな、知ってますよ……」


 やられっぱなしは嫌だった。当てずっぽうでカマをかけてみた。

 もう頭が上手く回らない状態なので、直感だけで話した。何も起こらなければ自然と継承する長子である第一王子はこんなハイリスクなことをする必要なんて無い。だったら、こんなことをするのはもう一人のほう――第二王子のほうだ。


「……っ!」


 先輩は狼狽した。

 大当たりだったようだ。


 彼女の後ろに控えている怪しい男二人も先輩の方に、一瞬だけ鋭い目を向けた。



「……しょうがないじゃない。好きなんだから」


 先輩は自分の感情を抑えるように俯いた。


「あの人はわたしを救ってくれた。

 日々王宮の王女関係で多忙で精神的に崩壊寸前だった私を、ね……」


 突如始まった自分語りにリリアンは息をつく。

 とりあえずすぐには殺されないようだ。


「王女様の世話は最悪の日々だった。

 王女様を起こそうしたら毎朝何かしらの悪戯に標的にされるし……扉を開けたら青色のスライムみたいなもののべちゃっと顔面に直撃したりなんかしたわ……王女様達と話そうとしても全然心を開いてくれない……アンナ様は何時も私を試すようなことを言い、エレナ様は一言一言が私を見通すような……とても怖かった。メイド長には些細なことで何時も怒られ、王女様が心を開いてくれないのは全部私の責任と言われ……わたしは頑張ったのよ。憧れの王宮のメイドになれて誇らしい気分だったわ……エレナ様とカレン様を理解しようと……とても頑張ったのよ……でも、努力は何の実を結ばなかった……最近はみんなから可愛そうな人扱いされて……・

 彼氏ともキミは僕より仕事をしているときが一番美しいよと言われて別れたし……」

 

 あれ、先輩結構ストレス溜まっていたの……?

 みんなから大変だねーと同情されていたような気が……腹芸だらけの王宮で言葉通りに受け取って良い物か迷うけど。


「……そういう時にあの人は『どうしたん?話きこか?』と声をかけてくれた」


 先輩とリリアンはそこで目を会った。


「先輩、それ……絶対アレですよ。

 弱気になってる女を口説いてアレしようとするアレ……ですよ」


 リリアンはほとんど無意識でそう答えていた。

 もう考える力も残っていない。


「ちがうもん!

 あの人、私は王女付きより第二王子付きのほうが合っていると言ってくれたし、

 第二王子派内に私が移ることに慎重な人があるけど、あの人の仕事に私が積極的に協力する姿勢をアピールすればなんとかなるって言ってくれたし、

 私のこと大切だって言ってくれたし、

 抱いてくれた時だって私を気遣って早かったし……」


 結局ヤられてるじゃない……。……早いのか。

 この場から逃げれたら、王女様達に説教しないと駄目だなー、子供扱いじゃ無くて一人の「人間」として。お互いに「王女」と「メイド」のロールプレイを楽しんでいる友人として。

 人の気持ちを考えないと、失望が仇なす刃に変わることがありますよ……お互いにね、って。


「もういい。

 このメイド、殺すぞ」


 先輩の肩に手をかけてどかす男。

 もう一人の男は後ろの位置についたままだ。


「えっ……はい」


 なんか凄い軽い感じでリリアンを殺すことが決定してしまった。


 

 リリアンはふと地面に横たわりながら前方を見た。

 そこには行き止まりの壁が立ちはだかっていた。



 ……なんだ、ここに来たときから詰んでたのか、わたし……。



 リリアンは生きることを諦めようとした。


 空に影がかかる。

 翼の影だ。死者の魂をどこぞへと運ぶ天使がフライングしてしまったのか。


「ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

「ああっ、コネリー、手を離すのが早すぎだっ!」


 天の翼は魂を運ばずに何かを落とした。

 墜ちてきたのは、修道士服姿の人間の男と騎士の甲冑を身につけたエルフの女性。


 それは、気まぐれな天使からの力強いプレゼントだった。

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