14話、あんな表情、させたくなかった。

 何度言っても言い足りない程残念なことに、俺は超人ではなく凡人だ。スーパーマンよろしく実は秘めたる力が――なんてことは一切ない。就職活動で百何十社も負けた大学4年の敗残兵。能がないから隠す爪もないし、無い袖すら振れやしない。

 従って、俺はこの犯人に従うしかない。

 『生殺与奪の権を他人に握らせるな』――という言葉を最近流行りの漫画で読んだ。しかしそんなものは所詮、ある程度の力と用意された状況でのみ通用する言葉だ。あの漫画の主人公も、秘められた力と適応力があったからあそこまで前に進めたに違いない。

 しかし現実は甘くない。圧倒的な力を持った者の前では、恭順するのが精一杯。棒切れしか持っていない人間と、ガトリング砲を持つ人間がいたとして、どちらが勝つかは明確だ。その状態で戦おうとするのは無謀ですらない、阿呆だ。

 そして仮に戦おうとすれば、その最後は碌なもんじゃない。


 死。


 その一文字が、俺の頭に克明に浮かんでいる。

「おら、立て。後ろを向け」

 言われた通りにする。スマートフォンを取り上げられ、床に捨てられた。もう拾い上げることはできない。つまり助けを呼ぶことはできない――助けなんて呼びでもしたら即刻射殺されるだろう。

「後ろ手にしろ。縛ってやる」

 どこから取り出したのかロープを手にした男が命ずる。言われた通りに背中側に手を伸ばすと、泥棒が乱暴に俺を後ろ手に縛り上げた。縄が食い込んで痛むが呻き声すら抑える。何がこの男と拳銃のトリガーになるか分からないからだ。

 撃たれるのは嫌だ。

 痛い思いは、もう御免だ。

「よし、歩け」

 そう言って男は俺の背後に立つ。

 背中に、硬いものが当たる――十中十、拳銃だ。

 指先一つで、俺の命は終わる。

 死ぬ。

 死ぬのだ。

 肝が冷える。

 まるで、死神の鎌を首筋に当てられているような気分だ。

「どうした、死にてえのか。歩けよ」

「……はい」

 言われた通り、俺は震える脚で歩き始めた。その間にも拳銃は背中にぴとりとついたまま。

 部屋を出る間際、幽海ちゃんの顔を一瞥できた。

 とても心配そうな、そして怯えた表情をしていた。

 ――今、ここで俺ができるのは何も幽海ちゃんに求めないことだ。

 あんなに怖がっているのにこれ以上行動を起こさせることはできない。過去話をしてくれた時にも言っていたではないか――知らない人がオフィスに入って来た時に泥棒かもしれないと怖くて立ち向かうことができなかったと(結果的にそれは警備員だったわけだが)。

 それにこの泥棒も、欲しいものが手に入れば俺を解放するはずだ――目的を達した後、用済みだからと射殺はされないだろう。そんなことをするメリットが今の男には存在しない。

 だから、これでいい。これが最適解なのだ。

 俺は幽海ちゃんを置いて、泥棒に脅されるまま部屋を出て暗い廊下を歩き始める。銃を背中に突き付けられながら。


 ……でも。

 くそ。

 最後の最後で、幽海ちゃんにあんな表情、させたくなかったのに。


~~(m-_-)m


「……ここにもねえな。よし、次だ。おら歩け」

 もうどれだけ時間が経ったか分からない。

 目的物は男が呟いたところでは『企業の情報』とやららしい(中身には興味がない。どうせ聞いたところで「俺の秘密を知ったからには」と殺されるのがオチだ)が、見つからないようで多少イラついていた。激情に駆られて殺されないだけマシとはいえ、それは言い換えればいつ殺されるか分からない恐怖が引き延ばされているに過ぎなかった。何かあった時の人質と言っていたからそんなことはないだろうと思いつつも、それでも。

 ……早く終わってくれ、と願いたい。が、願えない。

 願うとして、誰に願えばいいのだ――俺のことを救い上げたモノなんて、今までほとんどなかったのに。

 幽海ちゃんくらいしか、いなかったのに。

 そして幽海ちゃんに願うことは、俺にはできない。

「立て。次の部屋に行くぞ」

 首根っこを掴まれて無理矢理立たされる。冷たい拳銃が、冷や汗の流れる背中に押し当てられる。

 もう吐きそうだ。というか、許されるなら吐いている。それでも吐かないのは、吐いた瞬間に殺されるかもしれないからだ――馬鹿げているかもしれないが、人間は脅威をぴとりと肌に押し付けられると思考が狂う。

 怖い。

 目の前で死をちらつかされるのが、こんなにも怖い。

 知らなかった。

 知りたくも、なかった。

「ったく、どこにありやがるんだ。あの情報さえあれば、この糞会社に一矢報いられるのによ」

 悪態を吐き捨てる男。

 何か、この会社に怨恨があって、その『情報』とやらで会社に損害を与えようとかそういうことをしたいのだろうが、事情なんてどうでもいい。

 個人的などうでもいいことに、俺の命を巻き込まないでくれ。

 でも、それを面向かって言えない弱い俺は、そのまま脅され歩くだけ。

「……」

 歩く。

 歩く、歩く。

 歩く、歩く、歩く、歩く。

 歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く。

 ただひたすらに歩く。

 殺されないためだけに、生きるためだけに歩く。

 痛みから逃げるために歩く。

「よし、次は此処か――」

 次の部屋の扉を開ける。扉から離れたところに座り込まされ、探し物が終わるまで待たされる。時折拳銃を向けられながら。

「見つからねえな。糞。書類の場所を思いっきり変えやがったな……まあ良い。この企業に大損害を与えられりゃ俺はそれでいい。おい、行くぞ。立て。早くだ。殺すぞ」

 それだけだ。

「――くそがッ! くそがくそがくそがあっ!! あのハゲジジイの顔が真っ青になるのを見てえだけなんだよ俺ァ!!」

 それだけ。

「こいつは――使えそうだが決定打に欠けるな。一応持っておくか。おい、まだ見つからないから次だ次。立て」

 それだけのことが、怖くて怖くて堪らない。

「……次は、ここだな」

 何度も何度もそれを繰り返す。

 次に着いたのは『会議室E』と書かれている部屋だ。男が合鍵を使って開ける。

 早く終わってくれ。もう限界だ。男が扉を開ける度にそう思っていて、もう何回思っていたのか忘れてしまった。

 俺は戦うこともできずに、過ぎ去るのをただ待つばかり。現実は、漫画でも映画でも小説でもない。現実は現実だ。奇なることはあるが、都合が良いとは限らない。

 がちゃり、と鍵が開けられる。

 何度も何十度も繰り返された光景。

 永劫にも感じる時間の、ほんの一幕。

 それがまた始まる――。


「……おい」


 男が声をかける。

 何だ、何か悪いことをしたか――と思わず体を震わせてしまう。いつ、何がトリガーになるかも分からないから、何もかもに過敏になってしまう。

 だがその言葉は、どうやら俺に向いていないことに気づく。泥棒の声が俺の肩を通り抜けて会議室の中に向けられているからだ。

――」

 俺を越えた、その先には――。

「……っ」

 俺は、思わず声を出しそうになった。

 何故なら。


 項垂れたまま会議室の中央に立っている、幽海ちゃんがいたのだから。

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