第9章 工場勤務

 三重県の実家へと戻ってきた私に両親は喜んでくれた。

 年齢的に厳しいのは承知の上で、実家から通える範囲での職探しを開始したが、求人は無数にあるもののどれも給料が安かった。どうしても東京にいた頃と比べてしまい、これはバイトするのと変わらないと思わされるものばかりだった。

 結局、私は大阪の家電メーカーの期間従業員に応募し、無事に採用が決まった。勤務地は兵庫県尼崎市にある工場で、薄型テレビの製造の仕事だ。

 そこなら寮があるので生活への出費が少なくて済み、両親への十分な仕送りも可能だった。これまでの根無し草な暮らしと違い、現実という大地に根差した生き方をしていく。その為の大事な一歩だと言えた。

 工場での仕事は年老いて衰えた身体には辛かったが、歯を食い縛るようにして働き続けた。その甲斐あって、仕送りを送っても多少金銭の余裕があるような暮らしが出来た。以前の暮らしとはまるで気分が違っており、地に足のついた暮らしが与えてくれる喜びがあった。

 休日になると、暇が波濤のように押し寄せてきた。以前は楽器の練習をしたりしていたが、もはやそれをする気もなく、空っぽになった中身を埋めるように外に飲みに行ったりするようになった。そんな中で私は二人の女性と付き合ったが、どちらとも上手くいかなかった。

 一人目は付き合いたての頃は良かったが、時間が経つにつれ何でもかんでも他人のせいにする性格が露わとなっていき、こちらの顔を見る度に言動を批判するようなことを言ってきて耐えられなかった。

 二人目は付き合った当初から、食事では奢られるのが当たり前という態度で感謝を示す素振りも見せなかった。ご馳走様もありがとうもまともに言えない相手と一緒にいることはとても出来なかった。

 尼崎の工場では計二年半働き、契約期間満了となった。正社員登用の試験を受けたが、残念ながら合格することはなく、再び職探しをするしかなくなった。覚悟はしていたが、また宙ぶらりんの状態に戻るのは辛かった。

 ただ、世の中はそう悪いことばかりでもないようで、追い風が吹くこともあった。私は同業種の家電メーカーの工場の派遣社員としてしばらく働いていたが、一年後には正社員になることができた。

 それだけでも大きな吉報なのだが、更に両親は悩んだ末に家を手放すことに決め、その資金で借金を返すことが出来たようだった。父もそれを受け入れられているようで、清々しい様子だった。

 それによって仕送りは不要になったので、これからは稼いだお金を自由に使っていくことが可能だった。とは言え、今後も親孝行していくつもりではある。

 既に自分の借金も何とか返済を終えており、四十歳が迫る年に歳になってようやく安定した生活を得ることが出来たのだ。それは人生初めてのことであり、例え同年代の収入としては大したことがなくても、開けた景色を前にしているような気分で嬉しかった。私は晴れやかな気持ちでこれからのことを考えるようになった。真っ暗闇で包まれていた視界を一条の光がパーッと照らしてくれているようだった。

 

 

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