第2章 在日朝鮮人の優しいおっちゃん

 小阪に住んでいた頃の印象深い思い出が一つある。

 私が住んでいた平屋の向かいには屋敷と呼べるほど大きな家が建っていた。明らかに周囲の家屋からは浮いた外観だった。しかも、定期的に強面の男性が出入りしている。

 それはヤクザの親分の家であった。だが、子供とは怖い知らずなものであり、私とて例外ではなかった。

 その家ではセントバーナードやシェパードといった大型犬が飼われており、大の犬好きだった私は思わずインターホンを押してしまったのが始まりだった。

 親分は追い返すような真似はせず、むしろ快く迎え入れてくれた。それ以来、私は親分の家へと良く遊びに行くようになった。

 後で知ったことだが、親分は周囲の住民からは例えヤクザであっても恐ろしい人ではないと認識されており、私や他の子供達が遊びに行くのを親が止めるようなことはなかった。

「おう、よう来たな」

 私が遊びに行くと、親分は顔をくしゃっと歪めた笑みで出迎えてくれた。足が悪いようでいつも引きずって歩いていた。また、在日朝鮮人らしかったが、当時は今程は両国間の関係は悪化しておらず、私自身も気にすることはなかった。

 私は向かいの親分の家に一人で行くこともあれば、友達と一緒に行くこともあり、そうして犬への餌やりなんかをさせてもらっていた。平屋暮らしの私からすれば信じられない程に広々とした家の中を探検させてもらうこともあった。

 親分はそんな風に遊びに行く度、喫茶店の配達で全員分の飲み物やトーストを頼んでご馳走してくれた。子供が好きな人だったのだろう。

 当時の私にとって親分は家族以外で最も親しい大人で、尊敬と憧れの念を抱いていた。いずれは自分もこんな子供に優しい大人になりたいと思っていた。

 しかし、私と親分の別れは突然訪れた。夜寝ていたところで、外が騒がしかったので覗き見てみると、親分の家の前に警察がいて何やら揉めているようだった。しばらくすれば静かになったが、子供心にも只事ではない様子を感じ取っていた。

 結局、今でも何があったかは定かではないが、それから数日の間、親分の家は無人となって深い静寂に包み込まれていた。

 その後、一週間程度が過ぎた時のことだった。学校の帰りだった私の隣にタクシーが停まった。

 「よう坊主」

 「あっ!おっちゃん!」

 中から降りて来たのはスーツ姿の親分だった。そんな格好をしているところを見たことがなかった私には一瞬別人かと思えた。それほどまでに普段とは雰囲気が違っていたが、歩き方や顔を見て判別するこてが出来た。

 「ちょっと行こか」

 私は親分に連れられて近くの駄菓子屋に入った。

 「何でもええから好きなん選べ」

 「うっ、うん」

 私は訳も分からず、けれど親分の様子がどこか変だと思いながら、自分でもよく買うような安いものを選んだ。すると、親分は何とも言えない表情で私の手を止めた。

 「そんな安いもんばっか選ぶなや」

 そう言って、大人が食べるようなスナック菓子をごっそり取って渡してきた。それらの会計を済ませて店を出ると、親分は「ほなな」と一方的に告げてタクシーに乗りどこかへ行ってしまった。

 それが私にとって親分の最後の姿だった。理由は不明だが親分はもう戻って来れないことが分かっていて、餞別代わりに菓子を買ってくれたのだろう。その時の寂し気な後ろ姿は今でもぼんやりと思い出すことが出来る。

 その後も時折、親分はどうしているだろうと思うことがあった。あれが初めて誰かとの別れというものをまざまざと感じさせられた瞬間だったに違いない。

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