晴れているのに今日も雨
tetsuya.
第1章 小阪
1971年、私が生まれたのは大阪府東大阪市の小阪という町だった。およそ50年もの月日が経つ今でも昭和の香りが色濃く残っており、昔から連綿と続く歴史を感じさせてくれる場所だ。
私の家族が住む家はそんな趣ある古式めいた町に相応しい外観の平家だった。出入り口は窮屈だが、奥はそれなりに広い造りとなっていた。今では水洗トイレが当たり前だが、当時は汲み取り式便所がまだまだ現役で、我が家もその内の一つだった。
風呂も無く近くの銭湯に通っていたが、今にして思えば近隣住民との良い交流の場となっていたように思う。私自身、可愛がってもらったもので、今日は誰がいるだろうと楽しみにしていた覚えがある。
その家に住んでいた私の家族は全員で5人だ。私と両親、3つ上の兄、そして母方の祖母。
父は建築の設計をしていた。自営業の為、家の自室で朝から晩まで図面を引いていることが多かった。L型製図版を動かす音は私や兄が寝ている間も聞こえており、それは今でも耳に残っている。父は例え家にいても仕事に付きっきりでなくてはならないほど忙しく、家事と子育ては母が一身に背負っていた。
母はとても厳しい人だった。今なら間違いなく虐待扱いされるような躾だ。何度叩かれたかは分からず到底数えられないほどで、その度に首がらもげるかと思うほどの勢いだった。当時の自分に恐ろしいものを聞けば、間違いなく一番に母を挙げただろう。
ただ私には大好きな祖母がいたので、家が戦々恐々の場となることはなかった。私が母に叱責された時にはいつでも逃げ場所になってくれて、際限なく甘えさせてくれたものだ。飴と鞭というように、心身を養い練磨する上では良いバランスだったのだと思う。
兄とは仲が良く、一緒に遊ぶことも多かった。近所の兄弟はあまりそんなこともなかったので珍しかったと思う。特に兄の性格が早い内から穏やかで大人びていたことが大きかっただろう。兄が友達と遊んでいる時も嫌な顔一つせず私を混ぜてくれた。
そのような家族と共に育った私は、良く言えばリーダーシップのある子供で、悪く言えばガキ大将気取りの子供だった。
近所の豆腐屋や、畳屋の子供を引き連れて町内を練り歩いていた。自分に従ってくれるおとなしいタイプの子を選んでいたように思う。学校の成績は並程度だったが、足は速かった。小学生の頃は運動が出来ると人気者になれるので、男女関係なく友達が多くいた。
今と違ってまだテレビゲームが発売されていない時代。その為、外で遊ぶのが基本であり、野球やサッカーといったスポーツが良く行われていた。
ただ、私はそこに混ざることはあまりなく、当時はそこかしこにあった駄菓子屋へ近所の友達と行くことが多かった。くじ引きを引いたり、お菓子を食べたり、その時々で自由な過ごし方をしていたと思う。
この頃に醸成された気質は後々の人生までじんわり響き渡っていると今なら思える。良くも悪くも平凡を望むようには育たなかった。自由気ままに過ごすのが性に合っていたのだろう。
それこそ私に困難辛苦の道程を歩ませた要因なのかも知れない。だが、当時の私がそれを知る由もなく、腕白盛りに日々を過ごしていた。
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