食う、寝る、それもままならないんだ。

海原シヅ子

ある時急に悲しくなった。

我にかえった。

血まみれの右腕にはピリピリした痒みと疼くような痛みが脈打っている。

一瞬の混乱の後思い出した。自分でやったことなんだ、と。

近くにあったティッシュを手に取り、痛む傷を止血しながら頭の中を整理する。

今日はどうも体がだるくて、何をする元気も湧かなかった。

じっと座っているのもままならなくなり、午前中に学校は早退してきて、自室のベッドで横になっていた。

最初のうちは大人しく寝ていられたが、段々と訳もなく堪らなく辛くなってきて、脈拍が早くなって、頭が回らなくなって。

気づけばこんな血祭りになっていたのだ。ようやっと思い出した。

止血を終わらせ、ティッシュを捨てる。

ふと、ふわふわとした高揚感があることに気がつく。

おそらく脳内で何らかの快楽物質が分泌されているのだろう。

自傷であっても傷は傷だ。自身が自身の傷を本能的に慰めている。

思考がふわついて来た。もういっそずっとこのままでいたい。

もう何も苦しまなくていい、この世界に包まれていたい。

自尊心だとか、劣等感だとか、そんな難しいことから逃げられるこの世界に居たい。

…現実はそうも甘くないらしい。少しずつ頭が冷えてきた。

時計を見やると時刻は4時13分。兄の帰宅まで約30分を切った。

背筋が冷える感覚があった。頭をぐわんと殴られたような衝撃。

心臓がどくどくと鼓動を打ち、今にも口から飛び出そうになる。

あいつが、真白が帰ってくる。見つかったらどうしよう。なんて説明しよう。

自分が今どんな呼吸をしているかもわからない。

目の前に白くもやがかかってきて、頭がくらくらする。

脈打つ心臓が痛い。割れそうになる程肺が痛い。

震える手で捲っていたワイシャツの袖を下ろし、カッターを引き出しに隠した。

血のついたティッシュを近くにあったコンビニ袋に入れてゴミ箱へと突っ込み、布団の中に入った、と同時に玄関のドアが開いた。

ただいま、と声がする。深呼吸をして呼吸を整える。

落ち着け、きっとバレない。普通にしていたらあいつなら気づかない。

階段を登る音が聞こえる。足音は段々近づいてき、自分の部屋の前で止まった。

「千冬?早退したって聞いたけど、体調はどう?」

あいつにしては珍しく部屋に入らず、扉の前から話しかけていた。

いつもならこちらに構わず勢いよくドアを開けるので、まぁ、タイミングが悪く気まずくなる時とかもあるのだが。

「大丈夫。寝て少しマシになったから。兄さんは課題をしなきゃいけないだろ、早くしてきなよ。」

一刻でも早く追い払いたい。

「そう…?、ならよかった。じゃあ僕はリビングにいるからね。困ったことがあったらすぐ言うんだよ。」

足音が遠ざかる。よかった。本当によかった。

ほんの1分足らずの時間だったが全身汗だくになってしまった。傷口に汗が沁みて痛い。

箪笥から部屋着を取り出し、さっきまで来ていた制服から着替える。

制服に血は滲んでいないようだ。

脱衣所まで服を持っていくことすら億劫で、またベッドに体を投げ出す。

白い天井が段々とぼやけてきた。瞼が重くて重くて開かない。

朝にならなければいいのに、と独り言つ。

意識が遠のいていった。


爽やかな朝だ。

冬特有の張り詰めた空気が室内まで入り込む。天候とは裏腹に、気分はどんよりと曇っていた。

家にいるのに帰りたい。寝たばかりなのにもう疲れた。

そういえば、昨日は昼も夜も食べずじまいだったのに、腹が空いていない。食欲も湧かない。

しかし、生活というものは繰り返すようで、一階からあいつの「ご飯だよ」という声が聞こえた。

目覚まし時計の時刻は7時半。重い体を引きずるようにして布団から這い出る。

長袖のトレーナーだけでは不安になって、薄手のパーカーを羽織った。

のそのそとリビングにたどり着くと、食卓には朝食が並んでいた。

きっと美味しそうなのだろう。だがしかし、食欲がわかない今、食事をすること以前に食べ物を見ることすら苦痛であった。

「おはよう、食べられそう?」と聞いてくるあいつは、やはり呑気そうで、苛立ちが腹の中で疼いた。これを治めるのにはもう慣れている。

平然を装った表情で、多分、とだけ返事する。

準備の整った食卓に座る。白米の匂いが辛い。焼き上がったハムエッグの匂いが胃酸を競り上らせる。

たちまち耐えられなくなってトイレへと避難した。

扉を閉める余裕もなく、すぐに胃液が口から出てきた。何も食べていなかったから個体はないが、十分しんどい。

「ぅえ゛、ッ、げほ、、。、お゛ぇ゛…、ッ、かは、っ、、。」

あいつが横にいるのがわかる。小心者のくせに人が吐いてるとこ見てて大丈夫なのかよ。

まだ吐きそうなのに出てこない。確実にあるのに出せない。

はぁはぁと息を整えていると、背中に温もりを感じた。

「大丈夫、僕がついてるから」

震えたあいつの声がする。あいつの手が、俺の背中をさすっている。

兄さんに気を遣わせてしまったその事実と、兄の優しさで感情がぐちゃぐちゃになる。

目からは涙がこぼれ落ち、とめどなく流れ続ける。

吐ききれなかった胃酸がまた喉にのぼってくるのがわかる。

また吐き出した俺に兄さんは一瞬動きを止めたが、また優しく背中をさすり始めた。

情けなくて苦しくなる。

口元を拭うと、兄さんは俺を洗面台まで連れて行き、うがいをさせた。

そのまま、二階の俺の自室まで付き添った後、休みの連絡は入れておくね、とだけ伝えて帰っていった。


誰よりも愛されてみたかった。

注目を浴びるのはいつもあいつで、誰も俺を褒めてくれなかった。

あいつより俺の方が出来が悪い時は、「お兄ちゃんを見習いなさい」と叱られ、

あいつの方が俺より出来の悪い時は、「お兄ちゃんだってたまにはこんな時もあるものね」と見向きもされなかった。

後から生まれてしまった悲劇。俺が先に生まれていたら何か変わっていたのだろうか。

否、変わらない。俺が愛されないことに一切の変わりはないのだ。

愛されるに足りない人間だから。生まれながらの残念賞だから。

せめてもう少し表情豊かなら。せめてもう少し気さくな性格なら。

愛されたのだろうか、褒められたのだろうか。

俺はただ、ありのままの自分を愛して欲しかった。

仏頂面で、気難しがりな自分のまま愛されたい。このままでいいんだと認めてほしい。

いや、認めてくれる人はいた。ただ一人、俺の兄さんだけは。


目が覚めた。時計の針は正午を指している。

苦しい。目覚めてしまったことが苦しい。まだ生きていたことが苦しい。

息が、息ができない。吸っても吸っても足りない。背中をさすってくれる人も居ない。

「千冬?」

声がした気がする。呼びかけられた気がする。背中をさすられていた気がする。手を繋がれていた気がする。

わからない。意識はまた混濁の中に沈んでいく。

「大丈夫だよ」

聞こえてきた声も、泥沼のような意識の底に沈む、前に、呼吸が整い始めた。

呼びかける声も聞こえ始めた。

「吸って、吐いて、吸って、吐いて、、そうそう、上手だよ千冬。」

兄さんは俺を抱きしめていた。

震える俺の体を優しく包み込んでいた。

これは愛されているのか。きっと愛されているのだろう。

愛されていると受け入れられない俺が、きっと悪いのだろう。

兄さんにもたれかかり、体重を任せると、兄さんは転んでしまった。


兄さんが作ってくれた暖かいコーンスープを飲む。まだ体が拒絶してはいるが、飲まなければ兄さんが心配してしまう。ちびちびと飲み進めていく。

俺は気づいた。兄さんが作ってくれた?よくよく考えれば、朝食だって兄さんが作っていた。焦がすことなく。

「兄さん」

声をかけると、俺の部屋を片付けていた兄さんが振り返る

「なぁに?」

「あのさ、兄さんってこんなに上手に料理作れたっけ、前はもっと壊して、なんなら家も燃やしかけて…」

兄さんは気恥ずかしそうに頰をかいた。

「バイト先で練習したんだ。だいぶ上手になったんだよ、これでも。」

そうか、と返事をしたが心の中は穏やかではなかった。

兄さんが自立してしまう。

これまで俺が支えていたのに、そうやって兄さんは生きてきたのに。

兄さんは自分で起き、食事を作って食べる。

それだけで十分な自立じゃないか。

俺がいなければ生きられなかったはずなのに。

俺の存在価値が薄まってしまう。俺がいなくても良くなってしまう。

「兄さんは、。頑張ったんだな」

と声をかけると、自慢げに

「そうでしょ、えへへ、褒められちゃった。」

と笑みをこぼしていた。

食器洗ってくるね、とコーンスープの入っていたマグカップを俺から受け取り、部屋から出ていく兄さんの背中は、どこかいつもより逞しく見えた。


引き出しを開ける。

小学生の時から使っているカッターを手に取る。

切れ味が悪くなる度に直ぐ刃を追って、残り少なくなってしまったカッター。

カチチッ、と刃を出して、右の手首に刃先を押しつけ、しゅっと引く。

たちまち傷口からは血が溢れてきたが、気にせず何度もカッターを滑らせる。

痛い、けどふわふわして気持ちいい。

直ぐに切る場所がなくなって、昨日切った傷口を抉る。

しばらくして、気が済んで、止血をしようと顔を上げる。

ふと、視界に何かがちらつく。

そちらを見やると、あいつが立ち尽くしていた。


「なんで、どうして、」

震えながらあいつが歩み寄ってくる。

「近づくな」

「千冬、何があったの、」

声が震えている。

「来るなって、」

「なんで僕に相談してくれなかったの」

それでもこちらに歩みを進めてくる。

「近づくなって言ってるだろ!!」

空気が張り詰めた。

真白は、今にも泣き出しそうな顔をこちらに向けていた。

罪悪感で胸が痛む。

「ごめん…、…僕、リビングにいるからね。」

待って、という暇もなく、あいつは部屋から出ていってしまった。


言えるわけがないだろう。本人に、「お前ばかり褒められていて辛くなった」なんて。

「そのせいで、右腕を切って、過呼吸を起こしていた。」なんて言えない。

言えたら、もう少し楽になれたのだろうか。

こんな気持ちにならなくて済んだのだろうか。

泣く元気も、切る元気ももう無い。

横になって、ぐるぐると廻る思考を野放しにしていた。


「晩御飯だよ」

枕元であいつの声がした。

起き上がった時にはもうあいつは出ていってしまった。

謝らなきゃ。

相変わらず腹は減っていないが、せめて謝らなければ。

急いで一階へ降りる。

食卓にはもう夕食が並んでいた。匂いも何も気にならない。

「兄さん、ごめん俺、」

台所から出てきた兄さんに近づくと、なぜか兄さんは微笑んでいた。

「今日さ、一緒に寝ようか。」

意外な言葉だった。

「なんで、急に、」

「子供のとき振りでしょ、たまにはいいかなって。」

心配されているんだと実感する。今、兄さんの中で自分は兄と一緒に寝る幼い子供だと思われているのだろうか。情けない。

「でも、俺ももうガキじゃないんだし、…何より、どこで寝るのさ。」

「僕の部屋のベッドで良くない?そこそこ大きいし。」

冗談じゃない。兄さんのベッドは小学生の時に変えてからずっと同じで、夜に観にいくといつも狭そうに寝ているのだ。

それを高校生が二人で。

「…来客用の布団を出そう。それでリビングで寝よう。それでもいい?兄さん」

「もちろん。二人で一緒にならなんでも。」

上手に二人で寝るように誘導された気がしなくもないが、そんな器用なことを兄さんができるはずがない。

食べられる分だけ食べればいいよ、という兄さんに促され、自分の席に着く。

相変わらず食欲は湧かないようで、味噌汁を一口飲み、サラダのプチトマトを二つ食べてもうお腹いっぱいになってしまった。

ご馳走様でした、と手を合わせると、兄さんはピーマンの肉詰めを食べながら、お粗末さまでした、と微笑んだ。


真水が傷口に沁みる。

切って知ったことだが、自傷はしている最中よりもその後の方が面倒臭い。

ボディーソープは沁みるわ、血の巡りが良くなって傷口が腫れて見た目が痛々しくなるわ、風呂が一番厄介かもしれない。

着替え、用意するの忘れたな、と浴室から上がると、そこには自分の服が用意されていた。

おかしい。流石におかしい。

なぜあいつは急に自立し始めたのか。何がきっかけでこんなに色んなことができるようになったのか。

立ちくらみに襲われしゃがみ込む。

兄さん。俺がいないと何もできなかったかわいい兄さん。

俺のことを認めてくれた大好きな兄さん。

俺の兄さんはどこにいった。

無性に淋しくなって、鼻の奥がツンとする。

たちまち涙がこぼれ落ち、持っていたバスタオルに水の跡をつけていく、

助けて兄さん。俺はすごく寂しい。

今すぐ俺の元に来て。優しく、いつもみたいに「大丈夫だよ」って俺を慰めて。

台所から洗い物をする音が聞こえる。皿が割れる音はしない。

俺の大好きだった兄さんは、もう居ない。

しばらく俺は、動くこともできず、声を上げて泣くこともできず、息すらも抑えて涙を流した。


リビングに布団が2組。

弾けるような笑みを浮かべて「懐かしいね、」と布団を敷き終えた兄さんがこちらに歩み寄る。

「そうだね」としか言えなくて、俯いてしまう自分が嫌いだ。

もっと言いたいことはたくさんあるのに。

「電気消すよ。布団入ってて、」と、兄さんが俺の布団をぽんぽんと叩く。

言われえるがままに横になった俺は、電気を消しにいく兄さんを目で追う。

兄さんは、途中暗闇の中で俺の足に躓いたらしく、「いて、」と声を上げながら自分の布団に辿り着いた。

聞かなきゃ。話さなきゃ。

けれど声が出ない。喉でつっかえて出てこない。

「ねぇ千冬。」

先手を打たれてしまったが仕方がない。

「何、?」となんとか声を捻り出す。

「僕ね、バイトの先輩に憧れているんだ。」

兄さんはぽつりぽつりと、言葉を一所懸命に探しながら語り出した。俺は兄さんの話を遮りたくなくて、黙って聞いていた。

「先輩、すごくすごく運が悪くてね、いっぱい怪我するんだ。

いつ見てもどこか怪我してて、痛くないんですか?って聞いたら、痛いけどなれちゃった、って返事してて。

でも、先輩、怪我するから、とか、物壊しちゃうから、とか、言い訳もせずに、努力して、努力して、怪我しても努力して、自分の力で働いてたんだ。

僕、見習わなきゃって思って。

だから、僕も出来ることが増やせるように、って、少しずつ少しずつ、自分のことだけでも出来るようにって、家事とか色々してたんだ。

最初のうちは何もできなかったから、千冬は気づいていなかったかもしれないけど。」

苦笑を交えながら話す兄さん。俺は、全身が震えていた。先輩が憎い。

きっとここで、「先輩のことを許さない」なんて言ったら兄さんは確実に悲しんでしまう。

俺は、心の狭い屑だ。大切な人の成長を喜べない屑だ。

俺はただ、「偉いよ、兄さん、」と、真っ白でさらさらな兄さんの髪を梳くように、兄さんの頭を撫でた。

兄さんは、えへへ、と小さく笑みをこぼし、

「だからね、千冬。もっと僕に頼っていいんだよ。」

と呟いた。

兄さんに頼る?そんなことできない。

頼ってしまったらもう、俺は、何もできない、ただの、ただの…。

「そんなことしてしまったら…俺はもう、生きてる資格がない。」

「どうして?」

「…生きてる価値がないだろう。誰の役にも立たない」

「そんなことないよ。千冬が生きている、そばにいてくれるだけで、僕は嬉しいよ」

そんな言葉は気休めにもならない。

兄さんの役に立てない自分は、もう生きている価値がないんだ。

絶対にそうなんだ。

「…もう寝よう?…疲れてるでしょう、千冬。寝た方がいいよ。…一緒に寝よう?」

そういう兄さんはもう眠そうで、わざわざ自分なんかのために起こしていたことが申し訳なくなってきた。

兄さんは、寝るのが早い。いつもならもう寝ている時間だ。

これ以上起こしていたくなくて、「そうだね、もう寝よう。」と言った時には、もう兄さんは寝ていた。


眠れない。もう何も感じない。吐き気も息苦しさもない。

兄さんが眠ってから6時間ほど経った。

おそらく今は午前4時過ぎだろう。

脳は疲れているようで、まともな判断ができなくなってきた。

きっと俺は兄さんに嫌われた。

俺がわがままばかり言うから、兄さんは俺に愛想を尽かした。

絶対に兄さんから嫌われた。

俺がいなくても兄さんは生きていける。

兄さんは自立していて、周りに愛されている。

俺は兄さんに依存して、もう誰からも愛されていない・

もう、俺に生きている価値はない。

俺が死んでも、もう誰も悲しまない。

俺は起き上がった。

リビングから出て、廊下にあるクローゼットを開ける。

今年の大掃除用に買っておいた、雑誌をまとめるためのビニールテープを取り出し、全力で引っ張る。千切れない。

兄さんを起こさないように、静かに階段を登る。

足元がふわついて、歩いていると言うより、浮いているような感覚がする。

今が潮時だ。自分の部屋に入る。

引き出しの中のハサミを取り出す。少々切れ味は悪いが、使えないことはない。

ビニールテープを少し長めに切る。

結べるだろうか。きっと結べる。

この6時間で入念に調べたんだ。失敗することはない。

手順通りに、間違えないように、丁寧に丁寧に括っていく。

結んでいない方を、部屋の外側のドアノブに括りつける。

ビニールテープを、ドアの上側の隙間に通す。

気分が昂ってくる。人間の最期の秘密兵器だろう。

せめて最期くらいは苦しまないように。

もう何もわからない。何故死にたいのかもわからない。

助かりたい。救いが欲しい。

その一心でドアを閉める。

これで、自分が首を吊れば、ドアノブには自分の体重分上向きの力がかかっているので、外からは開かない。

ビニールテープさえ切れば、話は別だが。

首吊り紐は、首を通し、体重をかけると首全体、一周絞まるようになる。

そうすると、脳への酸素供給を行う二つの血管を同時に、瞬時に絞めることができる。

よって、一瞬で意識が飛び、長々と苦しまずに死ねるそうだ。

それと、本来ならビニールテープは向かないらしい。解けやすいと書いてあるのを見つけたが、生憎うちの家にロープはなかった。

学習机の椅子を紐の下に持ってきた。

6時間分の予習を総復習したから、きっと上手くいく。

心臓が早鐘を打つ。まるで警笛を鳴らしているかのようだ。

兄さん。俺の大好きだった、兄さん。

兄さんは、きっと、自分のせいだと思うだろう。

自分が、話を聞かずに、寝たから。だから、俺が、死んだと。

過呼吸に近い状態になってきたが、不思議と苦しくない。高揚感すらある。

さようなら、兄さん。俺の大好きな兄さん。

人生のフィナーレが近づいてくる。心の中ではもう拍手が鳴り響いている。

こんな人生なら、もっと早く終わらせばよかった。

こんな思いをして死のうと思うなら、もっと楽しかった時に、楽しいまま終わらせればよかったのに。

椅子の上に立ってビニールテープに首を通す。

終わる。辛い人生がやっと終わる。

あるべき場所に帰ろう。救われよう。

時刻は5時過ぎ。準備にだいぶ時間をかけてしまった。

人生最期の息を吸う。残念ながら、自分の部屋の空気は澱んでいて不味かった。

人生の中で今が一番気持ちが晴れているかもしれない。

もう愛されないことに涙を流さなくていいんだ、楽になれるんだ!

不思議と笑みが溢れる。言い残すことはない。

俺は自分が立っていた椅子を蹴り飛ばした。





朝起きると、千冬がいなかった。

嫌な予感がする。千冬を探さなきゃ。

二階へ上がる。物音は、自分の足音以外に無い。

千冬の部屋のドアノブには、ビニールテープがかかっていた。

ドアノブに手をかける。開かない。なぜ。どうして。

嫌な予感がもし的中していたら。心臓が痛い。息が出来ない。

自分の部屋の机の引き出しからハサミを取ってくる。

切っていいのか。切るべきだろう。

ビニールテープを切ると、どさり、と鈍い音がした。

頭がぐわんと締め付けられるように痛む。吐き気がする。

ドアノブに手をかけると、すんなり開いた。

ドアの奥には、首にビニールテープを巻きつけ、目の周りに涙の跡がある千冬が横たわっていた。

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食う、寝る、それもままならないんだ。 海原シヅ子 @syakegod_umi

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