親愛なる君たちへ

野村絽麻子

八月某日投稿

 たいてい夏前になると、学生の間でまことしやかに噂される話がある。それは主に二回生から新入生へと口伝で教えられるもので、恐らく教員で知る者は居ない。曰く、「立川教授の旅行の誘いに乗ってはいけない」というものだ。

 立川教授の出身は九州の小さな島で、そこには島独特の珍しい植生があり、風光明媚な撮影スポットがあり、地理地層においても歴史的な発見が行われ、海は青いし魚は旨い、おまけに立川教授の実家は古くても品のある広い屋敷で、そこに無料で滞在出来る上に、美術館に収められてもおかしくないような価値のある調度品の数々を生で観ることが出来るときたら、夏季休暇を過ごし方を決めかねている全方位の学生に刺さる優良案件だろう。

 それではなぜ「立川教授の旅行の誘いに乗ってはいけない」のか。


 すぐに思い付く例として、旅行とは名ばかりでレポートを課せられるとか、研究の手伝いをさせられるとか、そういった話が挙げられるがどうやらその類の理由ではない。

 島民は皆温かく歓迎してくれるし、港付近では魚や貝類などを両手に抱えきれないほど譲ってくれて、それらの新鮮な海の恵みは教授のご実家での晩御飯として振る舞われる。集落で出逢ったご老人なんかは、島の外の人間が珍しいせいか、それこそ拝む勢いで喜ばれる。両手を合わせ首を垂れて「にえさま」「くぎさま」などと何事かを呟く様子は、大袈裟に感じるものの悪い気はしない。

 立川教授もリラックスして故郷への帰還を楽しんでいるように見える。この島の住民は元々は平家の末裔なのだとか、立川教授の苗字の「立川」は、古くは「太刀川」と書くものだったとか、堅物の立川教授が普段の講義ではあまり見せないようなフランクな雰囲気で接してくれるのは、なかなか貴重なものだと思う。

 案内がてら、島にある蔵の中も見せて貰った。鍋島の器や、精巧な螺鈿で模様が描かれた硯箱、琉球交易を描いた屏風絵、古めかしい刀剣や、やたらと大きくて切れ味の良さそうな薙刀。どれも保管状態が良く、このままここを博物館として開放したらさぞかし島は賑わうのではないかと思案してしまう程だった。


 けっして便利な場所ではないが、この島の良いところは多々あり、夜などはまた格別の味わいがある。

 夜中、ふと目が覚めてしまった際などに、星灯りを頼りに部屋を出て、回廊を歩いて庭を眺めに行く事がある。気兼ねなく過ごして欲しいとあてがわれた離れから少し距離はあるものの、ひんやりとした廊下に虫の音などが広がる様はとても心地よいものだ。

 母屋の庭は池に面している。リーリー、カラカラ、シャーシャー、シャリシャリと、バリエーション豊かな虫達の大合唱を背に、池にかかる小さな橋の欄干によりかかる。この音色は何という虫なのか、聴いたことがないからきっと、この島固有の種なのか。たっぷりと湿度を含んだ夜風に吹かれながらそんなことを考える夜も、のんびりした島ならではかも知れない。


 てんでダメな点としては、この島は電波状況が著しく宜しくないという事だ。

 散策していてもアンテナが立つことは滅多になく、まさに外界とは断絶された孤島なのだ。それによって保たれてきた文化もあるのだから、一概に善し悪しを判断するのは尚早というものだけど。

 島内を歩き回るうち、一箇所だけ電波を拾える場所に出会った。船だ。港に停泊している船には無線が積んであるため、その回線を通じて、微弱ながら電波をキャッチすることができた。

 僕がこの文章をアップロードした時、皆は夏季休暇を謳歌していることだろう。それぞれに平凡な、それでいて幸せな日々を、きっと過ごしている。だから、文芸サークルの日誌代わりのブログなんかに書き込まれた、長文のこの文章を目にするのは、もしかすると秋を迎えてからかも知れない。

 サークルの皆に会えることを、僕は心から、本当に心から願っている。

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